邪宗教からの離脱
疑問と迷いのある人は特定の宗教に義理立てする必要はない。
私は、とある教団の○○苑という信者の相談をうけて話を聞いた。家庭内の悩み、自分の将来について不安が拭いきれず教団の霊能者と称する者に相談するのだが、『何代前の先祖供養をしなさい。』といわれ、後は生年月日と名前による姓名判断的アドバイスに終始しているという。
これで問題が改善されて好転するならよいだろうが、全く心の悩みは深まるばかりで一向に晴れやかにはなれず相談にみえた。
教団内では霊能者、霊能者とアピールされているようだが、真の霊的能力があって霊的問題を調査するのであれば生年月日も、氏名も事前に聞きだす必要がないはずだろうに、実際は、信者から相談があってもその場の即日回答ではなく、日を改めてアドバイスということのようだ。これなら事前に準備もできるはずである。
○○苑の教団では先祖供養と教団の教義を学ぶことで霊能者になれると信者を扇動しているが、それに踊らされて多くの金銭を支払い霊能者になろうとする浅はかな信者もいるから、どうにこうにも教団の思うつぼである。巧みにビジネスをしている。
このようなことで霊能力が開花するはずがないし、力を得たいという思いで霊能力を求めることは、戦地に出向き、地雷を踏んで自爆するようなもので危険極まりない。
もし、あなたがどこかの教団の信者であって、その教団の信仰に矛盾や疑問を感じて来たとしたら、あなたはもはやその教祖から卒業して越えなければならない時期だということです。
その理由ですが、矛盾や疑問を感じながらその教団にとどまっているのは、頂上を目指して山を登りきる事はせずに、途中の山腹か何処かで足踏みをしている事になるからだ。
信仰はあくまでも心(魂)のステージアップのためのものであって依存するための拠り所や欲望成就のための他力信仰であってはならない。此処に魔が入るのである。
自分を神格化している自我意識の強い教祖(指導者)のいる教団では、その教祖に取り入ろうとする腐敗した心の者と、正しくさえあれば神がご存知であると思う純粋な心の信者のとの間に必ず葛藤が起るし、隔たりが生まれているものだ。
このような場合、教祖も信者も動物霊と知らず神や仏と思いこんだりして信仰している教団がある。(動物霊も○○之大御神、宇宙大神、阿弥陀如来、観世音菩薩等を名乗る)
街の中心部に構えたある教団では駅に近く、ビルの正面に掲示した教団名が金ピカで目立つのだが、その雰囲気とは逆に真っ黒な大蛇が、そのビルに丸ごとグルグル巻きになっていて、それでも蛇身が余っている。
そもそも神や仏として祀らせることを要求するものは、邪霊が要求する常とう手段であることを知っておかなければならないだろうし、主宰神あるいは本尊がそういうからといってそれを直ちに信ずることは危険極まりない。
まして真の神は教祖がどれほどまことしやかに語ろうが人間に降りて語ることはないのである。
真面目な信仰を持とうとしている人こそ気を付けていただきたいのだが、反面、信仰を真面目に考えている人達がその教団を離脱するというと、非常に淋しく感じて止めて欲しかったと言う。
全く理解しがたい心境の持ち主が多い。また教祖も、指導者も、信者仲間も、口では慈悲だとか愛だとか説きながら実際は冷たい仕打ちをする。
そういう指導者の多い教団にいくら義理立てしてみても、だからといって正しいと思われる人達を厚遇するということは絶対にしない。
矛盾を感じて勇気を奮ってやめる人達を、なぜ未練がましく後から色々と言うのであろうか。神仏を信仰せよと教える教団であるならば、去る者をして気持ちよく去らせるだけの心の広さがなければならないはずである。それが寛容ということであろう。
動物霊に支配されている教団では、正しいかどうかの基準は神理、教義ではなくて、本部または本山に沢山金を集める人たちが正しいのである。
正しく神理は説いても金集めの少ない、また下手である人は悪人とまでは言わないが、教団にとっては好ましからざる人物と言う事になるのである。
そういう教団では、教祖に媚(こび)を売る幹部が、正しいと思われる幹部を手玉にとって辞めさせるでもなし、かと言ってその人を生かして働かせるということもせず、猫がねずみを追い詰めて手玉に取るように寄ってたかってなぶり者にしようとする。情けない話だが本当にある実例である。
また滅多にない存在ですが、正しい神理即ち正しい法(心のあり方)を知っている人達は、徒党を組んで相手の人をなぶり者にするようなことは絶対にしない。追い詰めてその人を辞めさせようとすることもしない。
教団の講師、幹部また奉仕している人の信仰が、ただ表面的なものになって、信者同士が競争意識に明け暮れていたり、神仏の名を利用して生活の資を稼ぐというような状態になると、そこには決して真の神の光(高次な宇宙エネルギー)が注がれることはない。
神道的に言うと神徳は現れないということになる。
また仏教では釈尊が宇宙の中心に須弥山があると言っていられるが、如来界、菩薩界、神界、霊界、幽界、地獄界の姿を展望するとそれは山のように見える。
この地上で生活する人々の心にも幽界や霊界のステージにある人は多いのだが、なかには地獄界の域まで心を曇らせている気の毒な人も少なくない。
地上生活をしながら神界や、更にその上の菩薩界のステージにある人ともなると限られてくるし、その須弥山(しゅみせん)の裾野はこの世の現象界に通じている。
裾野から段々頂上へと狭くなってゆくように、上の方に従って心のステージが高い人は非情に少なくなる。今現在では菩薩界の域のひとはいるでしょうが、如来界の域の人は世界にもいないとみてよいだろう。
如来界とは、イスラエルのイエスキリスト、インドの釈迦牟尼仏、エジプトのモーゼのような聖者のステージにある人のことだ。
さて実際に経験した人の話しであるが、ある教団の信者になると、その人はやがてその教団の信仰に疑問を持つようになっても「恩」という道徳観念に引きずられて辞めることができないという。
また教団でも疑問があるのは信心が足りないからだという。
心では辞めたい、あるいは真実の信仰をしたいと思うのですが、紹介者に悪いからとか、教祖の恩に背いてはならないと考えて辞める勇気を持たない。
一方、教祖の方でも「恩を忘れるな」「恩を知れ」と言う言葉で信者を一生縛りつけようとする。
こうなると我々の登らなければならない頂上は遥かにまだ遠い。
人が頂上を目指して登ろうとするのを止めるのも悪であるし、恩と言う言葉のしがらみに引っかかって、自ら登ることをしないのも悪である。
言葉で信者を操って、神や信者の心を欺(あざむ)く教祖のような人間を偽善者というのである。
このような偽善者は、自分の心の中に後ろめたいものを持っているのである。
自分の心が既に神仏から離れていることを知っているので、信者からその心を見透かされまいとして、さも神仏を大事にして神仏の守りがあるかのように見せかける。
またその為に、色々な儀式をつくり出して神前を荘厳に見せ、パフォーマンスをするし、色々な名目で新しい儀式をつくり出している教団があることは皆さんも知っておられるはずである。
そういう偽善者の教祖の周囲の幹部や信者が、本当は信仰は魂(心)を磨かなければならないということは知っていても、それは棚上げして、いたずらにそういう教祖を担ぎ上げて、特にそれで生活の糧を得ている者たちの場合、自分の利益の為に利用することのみを図っている人達がいる。
信仰という大儀名分の蔭で、偽善者の教祖は自分が担ぎ上げれる事を喜び、自惚れ、驕り、教祖とその周囲が考えることは、いかにして巧妙に信者から金を集めるかと言う事に奔走するようになる。
そういう教祖も、起業ではないが立教当初は心がきれいであったから、その教祖から後光が出ていたのですが、欲望に負けて執着するようになると、悪魔か動物霊が次第にその教祖を支配するようになる。
そうなると支配されている教祖からは動物霊特有の悪寒さえ感じる。汚れた教祖の見分け方は下記のように、
1・金に執着を持って、金を集めることだけを考える。
2・慈悲、愛を説きながら、やることが冷たい。
3・非常に感情的になり、すぐ怒る、威圧的な言動がみられる。
4・言うことがくるくる変って来る。
5・顔に生気がなくなってくる。顔の色が変な土色になるか、精気のない白さになる。
6・儀式、服装などで信者の心を引きつけようとする。
7・信者から見て立派な人だと見られる人が排斥される。
8・名誉欲、支配欲、権勢欲が強くなって、人の下座につくことをしない。
9・敬虔さ、謙虚さがなくなって尊大になる。
10・感情的に泣かせるか、興奮させるかという指導をして、知的、理性的な指導をしない。
以上、この10の特徴を持って見ればすぐ見抜くことが出来る。
こういう教祖につく悪魔、動物霊は、その教祖一人を支配することによって何万、何十万人という信者を支配できるのですから愉快でしようがないわけである。
そういう邪教を信仰をした信者は、いくら曼荼羅に向かってお題目を唱えようが、真言を唱えようが、読経しようが、先祖供養しようが、○○之大御神、阿弥陀如来、観世音菩薩の名を信じていたとしても、その名を唱えながら心を曇らせて地獄へ行くのである。
この世は、人間の霊を磨くために、天(神)よりの深い智慧と慈悲を学ぶ学園なのですから、良く反省して、この世的な欲望に負けず、心を調和しながら一つ一つの体験を心の修行の為の勉強と自覚して、山を登ってゆかなければならないのである。
その教団の信者になった当初は、その教団の信仰をこの世の中で一番素晴らしい信仰のように思っていても、何年かするうちに、その信仰に矛盾や疑問を持って来たとしたら、それはその教団の指導者達が言うように、その人の信仰がだめになったのではなくて、その信仰を卒業して他に真実を求めよという、心の内(守護霊)からの警告なのですから、道徳的な「恩」というしがらみを乗り越えて、新しく真実を求めるという勇気を出さなければならないだろう。
信仰は教団にあるのではない。自分の心のなかにあり、自分の心こそが神仏に通じる入口である。己の心が偏りなく、調和されているか、いつも自身の心の点検を怠らなければ立派な信仰である。
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