愛と慈しみの原点


愛とはどのようなものでしょうか?また慈悲とは?このことをあなたは、どのように理解しておられるでしょうか。
まず宇宙に目を向けてみますと、太陽は1秒間に約200万トンの石炭を燃焼しただけの熱エネルギーを地球に届けています。無償です。
これだけの光と熱エネルギーをお金に換算して太陽から光熱費として請求されますと地球上の世界経済は完全に破綻します。
毎月の給料を光熱費に当ててもとても支払いきれるものではありません。
このような太陽の恩恵に注目してみても我々人類が太陽の無償の愛と慈悲に生かされていると捉えて感謝することは不自然な考えでしょうか?
求める愛は愛の本質から判断すると浅い愛であり、情愛であり、その根本は我欲から発生するものです。
他を思い遣り愛と慈(いつくしみ)を以って語り、接し、行動することが真実の愛であり慈悲ではないでしょうか。
愛のある言葉は言葉以前の言葉として相手に伝わるものなのです。そのような言葉と行動は他からも敬われ愛されることになるものでしょう。
太陽のように代償を求めない愛と慈悲、誰にでも差別なく平等に与えているチャンスこそ天(神)なる宇宙意思の顕れと受け止めるべきではないだろうか。
私たちは自然から学ぶことが沢山あります。
私たちの身の周りには多くの恵があり、気づきの機会に溢れていますが、そのことに心がどのように働くか、心が満たされるかどうかは自身の心の気根の程度にもあり心の調和度の問題であろう。
何かに心を奪われて悩んでいると、そのことに囚われて足元に咲いている小さな花にも目が向くことがなくなるものです。
私たちが振り向くことをしなくても受動的生物である木々の緑はこの地上にどれほどの恵を与え人類のみならず、あらゆる動物や、昆虫、魚類、その他の生命体が恩恵にあずかっていることでしょう。
しかし木々は自己主張をしません。与えられた環境下で百年、千年と生き続けます。計り知れない慈愛です。
それは魚類も動物も全ての生命がおなじことです。私たち人間はあらゆる生命の犠牲の上に肉体生命を維持できているのである。
そして太陽が存在しなければ地上の人類は生命活動ができません。熱すぎても冷えすぎても人類は生命活動ができません。
現代の科学的理論だけで太陽の恵みと現況をどこまで解明できるのでしょうか。
地球に届いた光線の分析をできる、あるいは表面温度、中の温度を予測推定する程度でそれ以上は近づくことも触れることさえできないのです。
つまり太陽に関しては科学的限界がありその域を超えていないのである。
太陽系は太陽を中心に様々な天体が寸分の狂いもなく同じ軌道を周り続けています。地球もその天体のひとつです。
太陽は熱と光を、月は引力を以って地球に影響し海の満潮、干潮となります。
地球は重力を以って地表上での人類の存在を可能にしています。
このようにマクロの世界では太陽が原子核になり他の地球や月、火星、水星、木星、金星、海王星、冥王星、彗星、未発見の星などが電子にあたります。
ミクロ(極微)の世界ではこの地上に存在するあらゆる物質が原子として存在し原子核があり電子があり、電子は軌道を狂うことなく旋回しています。
マクロ(極大)の縮小版ともいえるでしょう。
実は科学的物理自然現象も4次元以上のあの世の仕組みとして3次元以下の物質世界つまりこの世を創りだした結果といえます。
光の投影に影があるように、あの世の投影がこの世という意味です。
太陽系は単なる自然現象としてできあがったものではなく大宇宙の意識が形として数々の天体を創り出したのです。この意識こそ絶対唯一の天(神)と呼んでよいでしょう。
神とは宇宙の意思であり愛と慈悲以外のなにものでもないのです。宇宙が神の身体であり神殿です。
そして太陽は神の肉体細胞でもあり神殿ともいえましょう。
さらに地球こそが神の細胞であり神殿といえましょう。
月しかり、その他の天体しかり、宇宙空間に存在する全ての天体は天(神)の創造物であり細胞であり神殿なのである。
人体は小宇宙といいます。人間の身体は太陽系の天体と働きがとてもよく酷似しています。
太陽が心臓にあたり地球はじめ他の惑星が人間の各臓器にあたる、心臓から送り出された血液は栄養分と酸素を含み各臓器を通って全身の細胞に行渡り再び心臓に戻る。
太陽とその惑星も狂いのない関わりを保ちながら数十億年の時を経て尚、今も狂いがないのです。
大宇宙、大意識の偉大さに感謝せずに何に感謝をするのか、ご本尊や、曼荼羅に感謝することではないだろう。
こうして宇宙レベル、地球レベルで物事を考えて見るときに人間同士の争い人種間の争い、国同士の争い、宗教、宗派どうしの争い、なんと愚かなことでしょうか。
さらに地上に金ぴかの数億、数十億のお金をかけて社殿と称して建築物を誇り信者から金品を吸い上げることに血眼になっているなどは本来の神を敬うこととは逸脱したものです。その建築物はすべて民衆から吸い上げたお金でしょう。
本来の神は社殿やそこかしこに閉じ込められて祭られるような狭い教義の実相ではありません。それだけのお金があれば飢餓に苦しむ人々を相当数救えるはずです。
一部の教団幹部の甘い汁になっている現実があることも否定できない事実です。どこの宗教、教団でも調和と愛と慈悲は定番ですが、しかし本当の調和や愛と慈悲とはどのようなものでしょうか。
信者から様々な名目でお金を集めることが正しいことでしょうか?
信者の勧誘を推奨することや強要することが正しいことでしょうか?
宗教家同士が争うことが正しいことでしょうか?
宗教に没頭して家庭内騒動や不調和があって相談に来るケースがあるのは正しいことでしょうか?
宗教に入信している者同士が教団内で競争している意識を愚かとは気づかないのだろうか?
教義では立派なことを教え、学びながら家庭内や社会生活では言行不一致。
何も宗教に関わらない人でしっかりと人間として家庭や社会生活を営んで調和できている人たちがいる現実。これは考えなければなりません。
愛や慈悲は必ずしも教団の教義で学ぶに限ることではないでしょう。
毎日の生活や行動の中で気付くことが大事であり、それが一番必要ではないだろうか。
赤ちゃんが産まれるとお母さんは穏やかな優しい笑顔で、ごくあたりまえのように母乳を飲ませます。美しい光景です。
このときのお母さんは赤ちゃんに乳を飲ませた代金を請求するでしょうか。
何の欲もなく乳を与え、飲んでいる赤ちゃんの顔を見て笑みを浮かべ、与えたお母さんも喜びを表している。これが究極の愛であり慈悲でしょう。
これが無償の愛です。真実の愛とは他人に対してもこのようにありたいものです。
人間同士が奪い合わずに相互に与え合う、このような生き方ができないのだろうか。
愛と慈しみの心は分別や教義や思想や哲学や学問以前の天(神)の子として人間の本質であるはずです。
どのような人間であっても人から産まれた人の子であり、それはそのまま天(神)の子です。相手を許す心が愛でしょう。罪を許す心が愛でしょう。困っている人に手を差し伸べることが慈悲でしょう。
それなのに何故、人は相手を攻撃してしまうのか。それは自我以外のなにものでもない。
我欲です。執着です。自我、我欲、執着これはいったい何でしょうか。
我欲は怒りとなって現れます。これは反省しなければなりません。
足ることを忘れた際限のない欲望、例えば食欲でもそうです、健康を維持するには腹八分目がやはりベストです。それを節度のない食べ方をして間食までするから肥満にもなり病気もしやすい、内臓も休むときがない、これは食欲を通り越した貪欲(どんよく)でしょう。
貧しい欲と書いて貪欲と云います。心の貧しさを云うのです。
摂食障害の過食症で相談に見えた方が幼少の頃からの心の傷を解放できたら過食症が治ってしまった事実は心の闇を改善できたからです。曼荼羅に向かって勤行することを勧めていた教団の指導には疑問以上に呆れてしまいます。
このような事実をみればわかるように心が作用する人間の不健康は根本から心のトラウマや心の癖を見直すことが必要だということです。
生命活動を維持するだけの、働くに必要だけの食欲なら調和された心身といえましょう。自我心は足ることを忘れた際限の無い欲望です。
欲は満たされなければ愚痴になり言動に現れます。不満となり、妬みとなり現れます。怒りとなり現れます。自分の心の未熟さを知らねばなりません。
心が渇(かわ)けば潤いのない砂漠と同じようなもので緑も生えにくい。
心ない者は足を引っ張るが、愛のある人は手を引く。欲は増やしてよくないが、愛はどれほど増やしてもよい。また預金通帳の数字を増やすことより信用を増やす生き方をすることである。
人生に辛いことがつきものだが、幸せと思えることも気づきさえすればたくさんある。でも愛がなければ心が砂漠のように渇いたままだろう。渇愛とは愛を求める者の渇いた心のことである。
だが愛と慈しみは人間が天からいただいた心の永遠の宝珠である。
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Posted by kansindo