葬儀


致死率100%、人間が必ず通る道です。
近年、葬式の様相が目に見えて変化をしてきています。
その形態は自由葬、直葬、家族葬、密葬、と様々な言葉で表現されている。
大きくはふたつに分類できそうで、ひとつは、これまでどおり葬儀のご案内をして、大勢の会葬者に来ていただくもの。もうひとつは、いわゆる「家族葬」です。
家族葬といっても、ほんとうに家族近親者だけで行うものから、親戚には来ていただくもの、親しい友人には来ていただくもの等さまざまで、会葬者も数人程度から数十人程度までと幅がありますが、趣旨として「義理の会葬を辞退したい」ことが原則にあるようです。
「密葬」という言葉もよく聞かれますが、これも、「家族だけで見送る葬儀」「告別式を後日改めて行う場合の家族の葬儀」等の場合に使われていますので、密葬と家族葬との明確な境目は示すことができないようです。
また、病院から直接、火葬だけをする「直葬」も増えていて、一説では、20%近くの人が全く葬儀を行わず、火葬のみ行っているとも言われています。
このような世相をみるとき、もちろん大げさな葬儀が必要だとは思いませんが、葬儀ひとつのなかにも、故人の遺志、遺族の思いが表れてきます。
故人への悼む心が希薄だから極力、簡単に済ますのではないかとみる人もいれば、盛大な葬儀だけが意味を成すものとは思えないとする考え方もあります。その辺の是非は読者の価値観や判断にお任せしましょう。
一方では宗教儀礼を伴わない、「無宗教葬」「自由葬」と呼ばれる告別の会も増えてきています。「普段、信仰とは無縁で生きてきたのだから、宗教儀式は無しで。」というのも、ひとつの選択のようです。
「葬儀」は、亡くなった人の「命」に関わる厳粛なものであり、遺された者たちの「死」を受容するための大切な作業であると言えるでしょう。また生前に親交のあった方々への礼儀を含めたところもあります。
本来は規模の大小も、宗教の有り無しも、本質的には大事なところではないのです。どのような形式であれ、葬儀を通して、人間の「心の痛み」を受け止め、共有することができるかどうかが、大切な問題ではないでしょうか。一人の人間の死は様々な波紋を呼ぶものです。
同時に死は、新たな旅立ちでもあります。実際のところは死者は眠ってなんかいません。
古い話しになりますが、昔は、地域共同体の中で、どんなに仲が悪い間柄であっても、火事と葬儀だけは無条件で協力をした習慣があります。村八部でも、残りの二分が火事と葬儀、というわけです。
行政も変化と同時に地域共同体が形を為さなくなり、また緊密な近隣関係を好まない人が多くなった現在、それに代わって、葬儀業者が葬儀の全てを請け負う形になってきました。
地域の人たちの「葬儀」に関する知恵や経験を得る隙もなく、葬儀業者に全てを委ねることになりますが、実際のところ葬儀業者は、故人のこれまでの人生や価値観について何も知りません。
葬儀業者としては一定の形式を用いなければ、短期間で儀式を執り行うことができないし、繁栄をはかることもできませんから、「みなさん、こうなさいます」「これが習慣ですから」「これは決まりごとですから」と誘導することも起こってきます。
理解も納得も充分とはいえない状態のまま、「それが習慣ならば」、「決まりごとならば仕方ない」と、言われるままに葬儀が施行されることになります。
葬儀も終わり、どうやら落ち着きを取り戻した頃、「こんなに費用が掛かるとは思わなかった」とか、「あれで、ほんとうに良かったのだろうか」という疑問が沸いてきます。
このようなことにならないためには自分たちの葬儀にかけられる予算も打ち出しておくことは大事なことです。業者によって虚栄心をうまく駆り立てられて競争心をくすぐられ世間の予算に合わせることは全く必要のないことです。
葬儀の費用だけではなく戒名料の場合も近年、問題視されてきました。数十万は珍しくなく、数百万の戒名料を支払ったケースもあります。『故人は世に名を残した立派な方です。それに相応しい戒名をつけて弔いましょう。』と、よいしょの言葉を僧侶に言われて、いうがまま戒名を頂いたら200万の請求がきたという実話があります。
言葉は悪いが、ぼったくり、です。これなども人任せと言っては失礼かもしれませんが遺族の虚栄心、競争心を巧みに利用した商業主義の戒名料としかいえません。この辺に寺離れの根本原因があるようにも思えます。
しかし、これまでの荒廃した仏教界の営利主義に疑問をもった人々は、ようやく気づき始めました。本来、人間の生き方や死に方を導く立場にある宗教家たちの金や物に支配された物欲、金欲の矛盾に。
衣をまとえば金の盲者も形にはなる。私たちは故人の意思を尊重しながらも自分たちの立場で最小限の葬儀を営み、そこに心を尽くしていきたいものである。
 

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Posted by kansindo