般若心経(心行)の真意
千鶴子 よりコメント: 2013年7月19日 8:39 PM
千鶴子と申します。
いつもブログを拝読させて頂いております。
感謝しております。
本日投稿してくださいましたテーマの最後に書いてありました、『般若心行ついて述べてみたいと思います。』とありましたが、是非とも解説をしていただけませんでしょうか。
私は特定の宗教団体に属してはいませんが、お経の中身には関心が強くあり、同時に葬儀のあり方やこれまでのご法事、読経についても何かしら疑問をもってきました。
観童さまのご意見に感銘しております。
何とぞ般若心行の解説をしてお願いいたします。
さて、今回は般若心経の解説をする前に、心経の活用の仕方について述べさせていただきます。本文の解説については次回に譲ることにいたしましょう。
般若心経の漢字は当て字です。むずかしい顔をして通ることはありません。
要は、その心を学ぶことが大事であって、真の心の在り方とは何か、真の宗教とはどういうものか、真の信仰とはどうあるべきなのか、そして、悟りの道への方法はいかにしたら良いか、ということであり心経とは心行なのである。
般若心経(心行)
般若心経というお経の名は、かなり一般的ですし、書店には解説した著書がたくさんあります。
しかし、むずかしい漢字が並び、何だかすべてを否定しているようで、一般的には解りにくいものでもあります。
にも拘わらず、あるお寺の坊さんが、普通の言葉でお経を上げたら、「お坊さん、漢字で書いてあるむずかしいお経のほうが、解らなくてもありかたいような気がする。あれをお願いしますよ」と、仏前にかしこまって坐っていた職人風の主人が、読経の方法の指定をしたという話しがあります。
この話しで思うことは、永い習慣とはおそろしいものだ、ということです。
漢文調の読経でなくては感じが出ない。そんなふうに仏教は変わってしまったのです。
法事や葬式、仏前、仏閣での灯明や線香その他の小道具と同じように、お経もまた儀式の附属品のようにされてしまっています。
しかし、本当の仏教とは、そのようなものでしょうか。
私はこうした仏教の在り方に、大きな疑問を持っている一人です。
私は、知り合いの仏教の専門大学で学ばれた、プロの宗教家のお坊さんに聞きました。
「般若心経を仏様に供養すると、どんな功徳があるんですか」と聞いたことがあります。すると、「般若心経はありがたいお経ですよ。どの宗派でもこのお経を読誦していますし、神仏に通ずるお経ですからね。写経も功徳があるようです」という答えでした。
そして般若心経の心は、[無我だ]とつけ加え、「無我とはわれを無にすることで、これが仏教哲学の根本だ」とも解説するのでした。
そして「空」とは、「むなしいものだ、無だ、あると思えばない、ないと思えばあるという表現しかできない、不可思議なものである」ともいうのです。
おそらく、語っている本人も解ってはいないのでしょう。
このようなやり取りは禅の手引書にもありますし、禅のまんが本にもあります。
しかし、仏教におけるお経の中身を、いかに学問的な智で悟ろうとしてもできないでしょうし、私はむしろ、心経は、心行であるべきだ、と思うのです。
つまり人々は、心経が、心と行ないの在り方を説いていることを忘れ、読誦(どくじゅ)することによって理解しようという、無駄なことをしているのです。
単なるそうした勤行は、心も伴わず実践もないから、かえって苦しみとなります。
実践とは、お経を読むことではなく、その意味を良く理解して、生活行為の柱とするとき、そこにこそ価値があるのです。
心と実践を失った仏教は、すでに仏教ではない、といえるでしょう。
しかしあるお坊さんは、「一所懸命に、毎朝毎夕、般若心経を読誦したり、写経などをすれば、必然的にその意味も解り、心がおだやかになります。ありがたいお経文です」といいます。
それでは、胃けいれんや喘息で苦しんでいるときに使う、頓服薬のようなものではありませんか。
心経とは、決してそんなものではありません。おだやかにならない原因を除くための、心と行ないの在り方を教えている。心の物差しなのです。
さて、それでは般若心経についての説明をしましょう。般若心経はまずその題からして、大切な意味を持っています。
この意味も理解せずに中味をとやかくいっても始まらないので、きょうはその解題から入ることにしましょう。
摩訶般若波羅蜜多心経(まかはんにゃはらみたしんぎょう)
摩訶般若波羅蜜多心経は、古代インド語を中国流に当てはめた当て字です。
そこには、ゴータマ・プッタの正しい教えを歪めてしまった、永い歴史があり、インドからチベット、中国と渡って行く間に、その国々の習慣や言語などの相違のため、学問的な智だけで判断して、その教えの実践をしないままに難しいものを作り出してしまった、ということでしょう。
人間を、人生の苦しみから解脱(げだつ※悟り解き放つ)させる方法を説いたもので、これをプッタ・スートラといっていました。
プッタ・スートラ即ち、悟りへの道。悟りへの教えです。
つまり、日常生活の一瞬一瞬の中で、偏らない心と正しい行ないを実践する。
そのときに、私達の心の窓は開かれて一切の執着から離れ、ある者は過去世を思い出し、現在の毎日の生活がいかに大切であるか、それゆえに人生の目的と使命を自覚せざるを得なくなる。
そういった悟りへの道の教えなのです。 とすれば、他力信仰の観が否めない大乗仏教によって、悟り得るかどうかは、自明の理といえることでしょう。
悟り得るはずがないのです。
私達は、毎日の実践活動の積み重ねによって、苦しみから離れ、執着を断ち、心の不調和な自分が作り出した曇りを晴らしたときに、心の内より慈愛の光によって満たされ、安らぎの境地に到達することができます。
ところが仏教は、中国に渡ってから学問仏教に変わってしまい、智と意でゆがめられてしまった、といえるのです。
情、すなわち心は、学問仏教の哲学化された内部に埋没されてしまい、今、人々は、その真理を探し出すのに苦労しています。
つまり仏教は、日常生活の中に生かされていないのです。お経をあげたり、神社や仏閣にお詣りしたり、先祖をおまつりする、そうした形だけが今の信仰になっていますが、大切なことは、仏教という教えによって、正しい生活を行なうことなのです。
その心と行ないを実行しないで、何で仏教の本質を悟ることができるでしょうか。
むずかしい仏教哲学を、素人に解るはずがないと嘲笑する、プロ宗教家がもしいるとしたならば、私は聞いてみたい。
「インドのゴーダマーシッダルターは元々、宗教家であっただろうか。武家の息子でした。
イスラエルのイエス・キリストは宗教家であっただろうか……」と。一般庶民の息子でした。
ゴータマ・ブッダも出家した当時は、バラモン教のサマナー(出家者)や在家の人たちから、素人では深遠な神の道を知ることはできない、といわれたことです。
しかし、その中にも、マハーバラモンのババリーなどという人は、自らの愛弟子のビンギャーを始めとしてマイトレイヤーら十七人を、ブッタのもとへ送り、その心を学び取らせるため、パラナシーのカパリーというところからはるばるグリトラクターの地に送った、という事実もあります。
イエスもユダヤ教や他の教徒から迫害を受けたことは、周知の話でしょう。
つまり、インドにおいてその時代にもプロの宗教家の中には、生ぬるい宗派にもの足りず、自ら道を求めて実践した人々もいるということです。
ここでいいたいのは、プロの宗教家も、プロ意識を捨て、素人の言葉にも耳を傾けることのできるような心の広い人間になるべきだ、ということです。
インドを走るガンガーの流れが、今も変わることなくベンガル湾に注いでいるように、宇宙大自然の真理の法則は、時代の変化によって変わるものではありません。
かつての、戦乱の時代には無学文盲の、その環境の人々を救うため、生命の不変を教え、心の平和を与えるため、やむを得ず他力本願という方便を用いて人々を導くこともあったでしょう。
しかし、それは一時の方便に過ぎないことです。真理の法則は、人間の知恵によって変えられるものではない。
だから、仏教を食い物にして、ヴェールをかぶせて他力信仰を教え、信者を盲目にしてしまった人達も、真の法を知ったならば、その罪は自分に返ってくることを思い知らされることでしょう。
つまり、理解できないから、かえってむずかしいものに作り変えてしまった、というのが真実の姿のようです。
般若心経は、現代の自然の法則をもって対照し、正しい人生の道標として残されているものです。
玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)は、長安の都から遠く南天竺を訪れ、仏教を求めて、悪戦苦闘の末、遂に仏法の神髄に触れ、心と行ないの大調和に達して、あの大般若経の中から、般若心経を集約したのです。
本文266字、題字10文字。それが、精華です。
だからそれは、悟りの境地に到達しなかったら、完成されなかったといえましよう。
知識と智慧とはちがうものです。
生活と心の調和がなかったら、得ることのできない仏智であったといえるのです。
しかし後世の人々は、容易な他力本願に道を求めたときから、生活体験をとおして理解することを怠り、無限の可能性をもった自己を見失ってしまいました。
例を引けば、現在、世界で社会問題になっている公害も原発のトラブルも人間が作り出したものであり、文明という人間の生活の知恵に、人間自身が溺れたからです。
それを修正するのは、やはり人類の自力によるしかありません。
心の中に作り出したスモッグも同じことがいえるでしょう。
自力によってのみ、他力が得られる、ということを知るべきです。
他力によって自力が完成されることはない。
いただいた心の光は失われやすいが、自ら悟って内から輝きだした光は生涯にわたって消えることはないのである。
般若心経も、内容を理解するための読誦(どくじゅ)であり、理解するための写経であるならば良いのです。
しかし般若心経を読誦し、祈ることによって救われると思うのなら、それはその本旨から遠くへだたってしまうということです。
このことは般若心経の意味が理解できれば容易に納得できるでしょう。
内容の意味を知った心と生活、それ以外に本質に到達する道はないのです。
般若心経によってご利益を得ようと読誦することは、発声練習と、自己逃避、自己満足にしかすぎません。
偉大な般若心経の中にある正しい教えを、泥沼の中に入れてしまうということは、ダイヤモンドをドブに捨てるようなものではありませんか。
ゴーダマ・プッタの教えは、偉大な心と行ないの教えであり、それが経文となっているのです。
次回は般若心経の具体的な解説を述べてみたいと思います。お待ちください。
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