人生の妙薬


傲慢
十数年間、仲のよい二人の女友達がいた。一人は相手の歩調に合わせることを知っている穏やかなタイプのAさん、誰にでもフレンドリーに接する物怖じしない自己主張の強いタイプのBさん。
この二人は、些細なことから仲たがいすることになって以来、お付き合いは消滅した。Bさんの強烈な言ってはならないような一言が人のよいAさんの心を打ちのめしたのだった。
人間、さしたる問題のないときは仲良くいられるが、何か事が起こると自分の主張をし、自分のことを省みず、相手を攻撃してしまうこともある。
人間は順調なときには見えない一面が、問題勃発したときにはっきりと表面化するものだ。人間性や、人格の評価は困難なときに、どのように対応するか、生きるかで評価が決まるのである。
いつの世も家庭内でのトラブルや社会の中での人間関係、仕事上のトラブル、そして病気による心の浮き沈みや死に直面した人、経済的な悩みなどの諸問題に懸命に努力をしながら生きる人もいるし、不満や愚痴に明け暮れている者もいます。
少し順調にいっている時は油断しやすく心に隙ができやすいために驕りや傲慢な言動になりやすいのも人間であろうし、そのことによって事態が悪化することも多々あります。『好事、魔が多し』という言葉が如実にそれを言い表している。
逆境の中にあれば、周りみな妙薬』という言葉があります。逆境の時の苦労、辛抱はすべて後になって自分の糧、肥やしになるものだということですが、しかし逆境の渦中にあるときは、苦しさゆえになかなかそのことに気づけないものだ。
かといって逆に順境のときには驕りから多くのものを失いやすく、やはりそのことに気づけないものである。
良い時こそ自分の足元をしっかり見据えて生活していかないと、必ず落とし穴に落ちることを身を以て体験することになるだろう。
人生に試練はつきもの、逆境のときには不満や愚痴や怒りをあらわにし、またそれを人にぶっつける生き方は更に自分に返ってくるし、結果はますます自分の環境を悪化させるだけである。
しかし、このような時こそが人間の器を成長させるチャンスでもあることは間違いない。
成功するものと、しないものを二分するものがあるとすれば、それは才能ではなく逆境や試練から学べるかどうかではないだろうか。
私自身、いま思えば人生の岐路は生きる過程においてあらゆる場面で遭遇してきたが、逆境や試練を乗り越えず避けてきたら今の私はなかったと確信するに至ったのである。
逆境が偉業を成すこともある。逆境や不遇の状況に置かれていると、つい後ろ向きな考えになってしまうものです。
ですが歴史上にも、身近な人のなかにも、環境が恵まれない中で自身の分を知り心安らかに、ひたすら努力して生きる人もいるし、偉業を成した人もいる。
先人たちの不遇や逆境を学びの糧とする生き方は多くのことを気づかせてくれますが、いざ自分がそのような環境にあるとき教訓を実践できなければ所詮、絵に描いた餅で終わることになる。
人生には、幸せな運命もあれば、禍や不幸や様々なトラブルもやってきますが、『思考は現実化する』つまり人間は自分が考えているような人間になるということだ。
『原因と結果の法則』は古来より因果律として真理が説かれてきたが、全ては私たちの心の為せる業(わざ)であって心は創造の達人といえるだろう。
私たちは心があり、その心によって思いという力を用いて自分の人生を形づくり、そのなかで様々な喜びやまた悲しみを自分で生み出しています。
その人生や喜怒哀楽を生み出すプロセスはの三つからである。
で色々思うこと。
で色々しゃべること。
で色々やること。
ということは、思いと、言葉と、行動で
    行動 このように心が発信元だということがわかります。
そしてこの心、口、体の三つの中でも、最も重要なのはです。
なぜなら、口や体の行いは、心が元になっているからです。
人間は心が思わないことを言ったりしないし、心が思わないことをやったりもしないでしょう。
口が悪いことを言ったら、それは心が命じたこと。
体が悪いことをしたら、やはり心が命じたからです。
その意味で心の想念の仕方を言葉や体より心を重要視するのは大切なことです。
未来の自分を知らんと欲すれば、現在の自分を見よです。
秋に豊かな作物を望む自分が今、何をしているのか。
「未来の運命を知りたければ、現在の自分の思いと姿を見つめたい。」
本当の自分の心はどんな姿をしているのか。
「自分のことは自分が一番よく知っている」と、みんな思いがちです。
ところが、本当は、自分ほどよくわからないものはありません。
たとえば、ギリシャのデルフォイの神殿には、2000年以上昔から、「汝自身を知れ」という格言が刻まれているとされています。それほど、自分自身とはわからないものなのでしょう。
日本でも、ことわざに「なくて七癖」と言われますが、どんなに癖のない人でも七つの癖があるといいます。これを私は、心の傾向性といっている。
では、「自分の癖はどんなくせ?」と聞かれたら、すぐ答えられるでしょうか。
おそらく即答できない人が多いでしょう。
「じゃあ、あの人のくせは?」と聞くと、「あの人なら、あれとあれとあれと……」
といった具合にいくらでも指摘できます。
私たちは、人のことはわかりますが、自分についてはまったくの無知なのです。
自分自身がわからなければ、私たちは本当の意味での向上も進歩もありませんから、気づきもないでしょうし足元にある幸せにも、心の内にある幸せにも気付けないでしょう。
人間生きている以上は幸福にならなければなりませんが、先ずは真実の自己を知ることが非常に重要なことです。
約1000年前の源信和尚は、『よもすがら仏の道に入りぬれば 我が心にぞ たずねいりぬる』という歌をよんでいます。
夜を徹して一筋に仏の教えを学べば自分の心にたどり着くということですが、最後は自分の心が知らされてくるのです。かつてお釈迦様が悟られて如来となられたように。
では、真実の自分の姿をどのように知ればいいのだろうか。
世の中には、自分の心をうつす鏡が3枚あると言われます。
1―他人という鏡
2―自分という鏡
3―覚者という鏡
の3枚です。
では、これらは一体どんな鏡で、それぞれ、どんな自分の姿が映し出されているのだろうか。
1-他人の言動はあなたを反映した結果の行動。
2-常に自分を客観的に見れる自分。
3-1、2、から自分の心を省みて偏らず中道の心にできたとき、一切の執着から離れて宇宙即我の境涯になった自分。
人生の妙薬は逆境や試練の中にもあるが、自己を知ることで、永遠の妙薬を手に入れることができるのである。
浅はかで愚かな者たちは、
自分自身にたいして敵のように振る舞う。
悪い行ないをして、苦難の結果を得る。
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