あなたもできる意識の覚醒
霊的意識の覚醒は使命達成への第一歩。
私達は、誰もが神の子であり、人の心が理解できるようになり、さまざまな能力を発揮できる潜在的力を持っている。
ただ、その能力は人それぞれに内容も強弱も違いがあるだけだ。
この能力は、自らの想念と行為により、心の曇りを取り去ることによってできるものである。
しかし多くの人々は、神性、仏性を忘れているため、自分の心は自分以外には解らないと思っているが、決してそんなことはない。
心がの扉が開かれると相手の心の状態がわかるようになるからだ。
それには、日々の生活行為を反省する心が必要であり、心と行為の間違いが修正できていってこそ可能となるのである。
しかし自分の心を偽り、隠す人の場合はどのような悩み苦しみを持ってきても救うことはできないし、正しい意識の覚醒はできない。
このような人たちは自らを偽り、安息な生活を避け、人生の正しい道を逸脱した生き方を選んでいることになる。
真理は、誰も崩すことはできない。たとえ、一時暴力や権力によって否定されても、太陽が東から出て西へ沈むように、それはいつの日か迷える人々の心に、華燭(かしょく)の光となって安らぎを与えることだろう。
人間は誰もが潜在的に人生に対して真実の道を求めている。
真実に沿った法則の学びは人々の心を洗い、人生の価値を知り、人間は肉体舟に乗って今も航海しているという魂修行の途中であることを各人が認識されるであろう。
その過程において霊的意識の覚醒を自覚する人もいるのであるが、しかし大切なことは、霊的な道が開かれたことが悟りではなく、さらに現世において、より以上の使命を達することが覚醒した人々の修行である、ということだ。
霊的な覚醒は、正しい法(生き方)へのスタート地点であるにすぎない。
そして霊的な覚醒は永遠の生命(魂)を悟るための実証であり、決して欲望を満たすための道具にしてはならない。
むしろその後、己にきびしく、他人に寛容な心を持って、「実るほど頭の下がる稲穂かな」の諺のように、謙虚な心と行動をもって自己を律することが道(正道)である。
人間は、他の人より特技があったり、地位、名誉、家柄によって、優越感を持ったり増上慢になり勝ちである。
人はそうなったとき、心はすでに没落の一歩を辿っているということを知らなくてはならない。
良いことも、悪いことも、作用と反作用の法則は人生の理(ことわり)であり、厳然として生きているということだ。
人の心の針は、一念三千いずれの世界にも通じ、幸福になるのも不幸になるのもすべて自分が造り出す想念行為の結果の故である、と心に銘記すべきである。
意識とは魂のことをいう。
この意識は、私達の肉体舟の支配者であり、永久に変わることのない本当の自分自身である。
あの世とこの世を転生輪廻し、その環境に適応した肉体を持って、自分の魂を磨き、神仏の体である現象界(地上)を平和な安らぎのあるユートピアにするため、私達はこの世の肉体舟に乗っているのである。
昔から、魂という問題については、多くの人々によって語られ、私もまた聞かされてきたのであるが、実体は、あるようでないようで、はっきりと確信することはできなかった。
私は、現在まで本当の自分を追いかけてきたが、魂の問題については幾度も壁にぶつかったり、探求をやめようかと思ったこともある。
しかし魂という問題に関しては、宗教的な教義のなかで学問や形式で知ることは不可能だ、とわかった。
なぜなら、宗教的な智で、学んだ哲学で、このことを知ることができるなら、現代のような仏教哲学を説く人間、キリスト教を説く人間たちが皆、悟って霊的に覚醒しているはずである。
そのようにして真に悟り、真に霊的な覚醒をした人たちが仏教やキリスト教を説いてきたなら現代の宗教はもっと崇高な世界になっていただろう。
私は、正しい生活行為、即ち、偏りのない中道の生き方、執着のない行為のなかに調和した人の道があることを確信するに至ったのである。
奇跡的な現象が起こらなくなったことにしても、その原因は、人々の心が物質的、経済的な欲望に執着し、歪んで、神性の自覚を失い、偉大な智恵を出すことができなくなったことに起因している。
ということは一切の囚われ、我欲を捨てて人間本来の心になったときに再び奇跡はおこるのだ。
なぜ人間は考えることができるのだろうか、なぜ悩んで疲労するのだろうか、私達はなぜ眠っているとき聞くことも見ることもできないのか、などとさまざまな疑問がある。
起きているときと眠っているときの相違など、疑問はいつ果てることもない探求が続く。
私達が肉体こそ自分自身である、と思っていたことや、肉体先祖が私達の魂の提供者であるという説が、私の中で覆(くつが)えされていった。
分かったことは、肉体はこの現象界に適応するように唯一なる存在が造り、魂の修行舟として本能を私達に与え、子孫保存を計ったことなどであり、次元の異なる意識の世界こそ実在界の世界で、この現象界は実在界の修行場というふうなことだった。
私達は、自分自身を、その魂を、より高次元に進化させるためには、苦楽という人生航路が必要である。
肉体に乗ってしまうと、人間としての使命はおろか、肉体自体の眼、耳、鼻、舌、身、という五官に翻弄され、肉体の支配者は煩悩に覆われて自分自身を忘れる。
あの世で約束してきたことを、棒に振ってしまう人々が非常に多いのである。
先祖や家柄、地位、名誉、自分自身の肉体に執着を持ってしまう。まことに、愚かなる者は人間、といえる。
意識こそ、魂こそ、本当の自分自身であることを知り、肉体的な五官によって客観的にとらえた現象のみで己を忘れてはならない。
物質にはエネルギーが共存している。
仕事をなし得る能力を、エネルギーといっているが、私達はそれを見ることはできない。
そのエネルギー粒子の集中された物質については、計量や実験、データ、数学的に算出し、客観的にとらえることはできる。
しかし、肉体的な要素についてはその姿を目視することができるが、意識を肉眼で見ることは心眼の開かれた人以外には不可能である。
だが見ることができないのに、私達は精神的に悩んだとき、なぜ疲労するのだろうか。
私達は、肉体労働によって疲労することは当然である、という感覚がある。
しかし、疲労するということは、エネルギーを消費していることである。
肉体労働によって消費されたエネルギーは、動物、植物、鉱物のエネルギーを吸収することによって回復する。
唾液によって食道から胃の中に入り、胃液とともに消化されて血や肉や骨に変わって行く。
このとき、唾線から口中に分泌される消化液は、小さな消化を助ける黴菌である。
この黴菌は非常に微小なもので、恐らく私達の胃の中を広大な宇宙と思っていることだろう。
あたかも私達が広大な宇宙を眺めて驚いているように、肉体の細胞集団を、銀河系宇宙と同じように見ているかも分からない。
この小さな黴菌が一つ不調和を起こしても、私達の体は変調をきたすだろう。
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