試練と病気・調和の法則

禅定瞑想

心の悩みを抱えて相談に来る方々のなかには、いわゆる『生真面目すぎる』人も少なからずおられます。

偏らず真面目な人はそれが長所といってよいだろう。しかし、生真面目というのは「非常に真面目過ぎて融通が利かない」ことをいいます。

つまり長所がバランスを崩せば短所となる。アンバランスとは偏った心であり、欲念、邪念、執着、拘りでもあり、これを仏教的には煩悩(クリック)と表現している。

良かれと思われることも偏りすぎると心が苦しくなる。これが人間の心の仕組みだということを忘れてはならない。

私の相談者へのアドバイスはいつも心を調えるための方法を具体的に示すという内容に尽きる。

それでは正しい法則すなわち正法とはどのようなものなのかとなると、それは人間の心のあり方、生き方のことであり、そのあり方の基準は大宇宙の摂理、秩序、調和に沿った、偏らない生き方のことである。

自分では正しく生きていると思ってはいても、第三者から見た場合に疑問を持たれたり、指摘されたときに初めて間違いであったことに気づくこともあるだろう。
正しい心の基準というものは曖昧であってはいけないし、人それぞれの正しい基準が違っていては正しい基準とはならないのです。
真の正しい基準は個人の基準ではなく、個人の価値観によって異なった基準ではなく、決して人種、国の違いによって、民族の違いによって異なるようなものであってはならない。
すなわち真の正しい基準とは不偏であって根底には愛と慈しみがなくてはならない。
従って、どれほど正しいと声高に叫んでも中道から逸れた愛と慈しみの欠けた法則は正法とはいえないのだ。
人間、生きているからこそいろんな試練や逆境があるし、また、逆に試練や逆境があるからこそ生きているともいえる。
人生80年として一日24時間のうち約8時間は眠っているとすれば、生涯のうち26年は眠っていることになる。
80歳の人の言葉はいくつもの苦難を乗り越えてきた体験に満ちていて説得力もあり、納得させられるものだが、80年の人生が100%幸福ですということはなく、三分の二は苦労の連続だともいう。
となると、52年は苦労との戦いだということになりますが、幸せと思える時間が人生の三分の一というのは素晴らしく、上出来な話しではなかろうか。
人間は苦労のなかでこそ、試練や逆境のなかでこそ心が広くたくましく成長するものである。
きょうは試練と病気について考えてみましょう。
我が心の師はいいます。
『真に正しい生き方を調和の法則に沿って実践すると、当初は好結果が与えられる。だが、つぎの段階では、本人の心を試すが如くに迷いを与えるような小事件が、人によってはつぎつぎと起きてくる。
また、さまざまな欲望が不思議と出てくる。道を志す者は、必ず魂のステップアップの為にあらゆる試練を超えなければならないのだ』と。
正法(正しい心の在り方、生き方の法則)を知ると心が変わります。
心が変わるとその人の病気が治ったり、環境が急に変わってよくなったりします。
すると、正法はすばらしいということになります。
これで自分は正法がわかったと思って、人にも伝えます。周囲の人達も、あの人はよくなったと認めます。
ところが、その人がいつしかまた病気をしたり、なにか悪いと思われるような現象が起
こってくることがあります。
前はよくなったのだからと思ってやってみても、今度はなかなかよくならないという状態になることがあります。
そうすると、正法ももうダメだと思ってやめたりする人がありますが、これは残念なことです。
どうしてそういうことになるのか、それをよくわかっていないといけません。
確かにその人は心が変わったために一時はよくなります。
しかし、それだけでなくて、を求め志す人の場合、その人に宇宙の法則、唯一なる存在の意識の実在を悟らせるために、あの世の光りの天使たちや、指導霊、守護霊が協力してくれ、試練も与える場合があるということだ。
つまり、正しい心の在り方、生き方がまだ完全にその人のものになっていなくても、あの世からの協力によっていわゆる奇跡(必然)が起こります。
ところが、あの世からの協力があったことに感謝しないで、治ったのはすべて自分の力だと思って慢心して感謝の心を忘れてしまいまい、謙虚さを忘れてしまいます。
すると、その謙虚さを失った程度に相応してまた病気が再発したり、環境の変化が起こったりするのである。
一所懸命に正しい生き方、心の在り方を実践しているように思っていても、なかなかよくならない。
自分の心の中に慢心を生じて、唯一なる存在への感謝、自分の心のガイド(守護霊、指導霊)への感謝も忘れているのに、教わったこの法則がダメだと思ってしまう。
ここに道を志す者、法則を知った者の落とし穴があります。
正法(正しい心の在り方、生き方の法則)がダメなのではなく、『最初の奇跡は私達があの世から援助したのですよ。今度は本当に自分一人の力でやってみなさい』といわれているのです。
実は、それがその人の力を本当に引き出そうとしている試練であり天から与えられた慈悲なのです。
だから最初の時よりは、なお一層に敬う心、謙虚な心になって感謝を深め、調和をめざして真剣に偏りのない調和された生活を実践して、本当の自分の心を引き出さなければいけないのです。
大抵の場合、調和の法則を知ってよくなると、「ああ、これでもう自分はりっぱになったのだ」と思い込んでしまって、増長慢にいつの間にかなってしまいます。
それなら今度は自分の力だけでやってみなさいといって問題を出されるのですが、自分はもう調和の法則がわかっていると思い増長慢になった人は、少しも自分の心を深めようとしないものです。
初めの時はよくなったのにと思ってやるけれどもよくならない。そうすると、調和の法則はよいと思ったけれども、やはりダメかなと思います。
まったく自分の心のあり方を忘れてしまって、調和の法則がダメであるかのように思ってしまうのです。
こうなると、折角、調和の法則の縁に廻り会いながら、初めての時はあれほど感激したのに、もうなんにも感激を示さなくなって堕落してしまうということになります。
するとまた、前世のカルマを越えきれないでカルマを重ねてゆくということになるのである。残念なことです。
ですから、調和の法則を知って一回よくなったが、また悪くなったという人には、このような説明をして、ますます心を深めて実践し感謝してゆくように指導をすることになります。
我が心の師は「業の活動は時が経つと静かになるので、それまで調和の実践をしながらじっと待つしかない」、「こうして一歩一歩欠点と業の修正が実を結んでゆく」といっておられます。
問題を解決しようとして夢中になればなるほど、つぎつぎにまずいことが起こり、反省しようと思えば思うほど、心は落ち着きがなくなる。そうしてだんだん心を狭くしてゆくということがあります。
『志を忘れず時を待つ』ということは非常に大事です。
例えば、腹が立ってどうしようもないという時でも、時が経つにつれてだんだん平静になり、しまいには「なんだ、あんなことで腹を立ててしまって……」と思うものです。
調和の法則を知ったがためにかえって苦しくなったという人がありますが、そういう人は早く完全な調和法の実践者になりたいという焦りの心があるからです。
早く完全者になることを願うことはよいことであっても、そう一足飛びになれるものでもありません。やはり順序と段階があり、何でもかんでも一緒にやれるわけではないのです。
放っておくと時とともに自然に解決してゆくものもあるし、その時にはわからなかったことがだんだんわかってくることもあります。
「時を待つ」ということは、すべての果実には熟する時があるように、いろいろな条件が整わないと実現しないことがあるということです。
人間の心が成長するには時が必要なのである。
あせる心の中にはいつも「まだダメだ、まだダメだ」という心があり、それは「ダメだ」ということをいつも心に描いていることになるし、心に描いたことが実現してゆくのですから、あせる心はますますダメな状態をつくり出してゆくということになります。
ダメ焦り連鎖して心を狭くしてしまうのです。
あせる心をなくして「時を待つ」ということは、ダメだと連続的に思う心を中断する、なくするということになります。
あせってダメだと思う心をなくすることが「時を待つ」という智慧の効用ですから、「時を待つ」ということの大事さを知ることです。
そのことを「放っておくと、ついには全く現われなくなってくる」ということです。
だから、何ごとでも、うまく事を運ぼうと思ったら、焦ってはならないのです。
以上のことの次に大事なことは、我が心の師がいう、
『実践の過程の中で、よく現実的事柄を見極めないで、無理矢理に霊的因果関係に結び つけて考えようとしがちだが、それは間違いである。
霊的因果関係は無関係ではないが、主体はあくまで現実的な心にある。従って、まず現実の想念のあり方を八正道(クリック)に照らし、原因を突き止める努力が大事である』ということ。
これまで様々な悩みの相談に応じてきましたが、中には霊能者やカウンセラーといわれる人たちに頼って相談したが、問題が解決するどころか逆に霊的な問題があるといわれて大枚をはたいて何も解決せず、恐怖心が増しただけだというケースが多々ある。
「あっちが痛い、こっちが痛い」というと、すぐ「それは霊が憑依している」というような指導をするのは問違いです。
 病気の原囚には大きく三つあります。

一、肉体的原因

肉体的、生理的に無理をした場合その人の精神力によって肉体の耐久力には限界がありますが、その限界を越えるとやはり病気します。

例えば湿気の多い所で年百年中仕事をすると、どんな健康な人でも肉体の生理作用を害して神経痛になったりします。

どんなに心のきれいな人でも、空気の悪い所に長時問いると気分が悪くなり、ついには失気を失いかねません。

だから病気の人を指導する場合は、肉体的、生理的に無理してはいないか、ライフスタイルに問題はないか、食生活に偏りがないかということを確認しなければならないのです。

二、心の原因、

肉体的、生理的な原囚を考えた上で、今度は心の原因を考えてゆきます。この時に
考えなければならないのが、次の二つのことです。

I、原因・結果の法則

2、類は類で集まる、波長共鳴の原理

心が明るい人は健康で病気になりにくいものです。心が暗い人は病気をつくってしまいやすい。だから病人は心が暗いのですから、その心の暗い原因はどこにあるかを究明しなければなりません。

例えば、うつ病で相談にきた方が、精神科では『家庭の問題は家族で話し合うことです。』といわれたと言いますが、それは精神科でなくても友達に話しても同じことです。

具体的にどのように相談することが望ましいのか細かい提案があるわけではないといいます。相談者は具体策もなく思案に暮れて為すすべがないから相談しているのである。

カウンセリングというものは、マニュアル化された通り一辺の流れでは根本的な原因、核心部分にたどり着くことはできないものです。

三、霊的原因

「霊的原因ではないか」と考えるのは最後であって、いきなり最初から霊的原因である、憑依されているというのは間違いです。

憑依は単独で起こるのではないので、心の暗い状態が永く続いた時に、あるいは何かに強く執着したとき、また霊的能力や超能力が欲しいなどという欲望を持って一心に修行したりした時に憑依してくるケースが多いものですから、まず心の原因を調べて、つぎに霊の憑依ではないかと考えるべきです。

心が暗いから「類は類で集まる」の法則によって憑くのですから、心が明るくなると自然に憑いていられなくなって離れてしまうのです。

「主体はあくまでも現実的な心にある」ということ、その人の心のあり方、 生活が、八正道に適っているかどうかを考えることです。

一度改善された人が、なぜダメになってゆくか、この理由を知ることは大事なことである。

調和の法則をすばらしいと思い、自分はそれを正しく実践していると思っていて、いつの間にか次第にその法則をはずれて、結果的に病気になったりする。

それは正しく実践していると思いながら、いつの間にか道をはずれてしまっている場合が多いからなのです。

悪くなった原因をなんでも憑依霊のせいにするのも問違いであるし、よくよく注意しなければならないことである。

反省はどうするか、心を浄化する方法

「反省」ということの混乱を避けるために述べておきましょう。

自我意識がめばえてくるのは五歳頃からです。その頃から自他の区別がはっきりしてきて記憶に残ってゆきます。そうして知らず知らずのうちに親不孝をしたりしてしまうわけです。
何故、親に感謝しなければならないか。

生まれた子供が一番心の安らかさを感ずるのは親のふところに抱かれた時です。

その心の安らかさは、悟りを開いた時の心の安らかさに通ずるものです。

母親に抱かれて母乳で育った子供は情緒が安定していますが、母親の胸に抱かれることが少なくミルクで育った子供は、母親の胸に抱かれたことによる心の安らかさを昧わっていないから、自閉症やノイローゼなど、また、情緒不安定になって落ち着かなくなるのです。

このことは世界の医学者や精神科の専門医が研究や追跡調査をされて、その結果を論文に記したり、著書で発表しています。

人間はいくつになっても母親をなつかしく思い出すものであり、その時なんともいえぬ心の安らかさを感じます。

それは母親の胸に抱かれた時の安らかさの記憶が心の底にあるからです。

ですから、本当の悟りを得るためには、この親に対する感謝を持ち、その感謝の心を持った時の心の安らかさを通して、一切のものの創造主でたる宇宙の意識を認知できるということを知らなければいけません。

だから、親に感謝せず、親不孝したままで悟ったという人は一人もいないのです。

調和の法則を知った人達が一番先にしなければならないことは、なんといっても親に対する感謝です。それは義父母に対しても同じことです。

自分の親には感謝できるが、配偶者の父母には感謝できないというのであれば、それは調和の法則に逸れた偏った価値観でしかないということです。

人間の心の奥底にある一番強い深い記憶は、母親に関することです。

反省というと、一歳から五歳までのことを思い出しなさいといっても、思い出せるはずがありません。

そういうことよりも、私達は生まれてからだんだん成長してくるに従って、どんなに親に愛されてきたかを思い出させて、親に感謝することを教えてゆく方がよいのです。

そのことを思い出すことによって、人の心は浄化されてゆくのです。

正しい言葉の遣い方、「正語」。

人に指導する立場にある人は言葉の遣い方も勉強しないといけません。強化合宿の大義名分のもとに暴言を吐いたり、体罰とか暴力とか論議されていますが、調和の原点が間違っていることに気づくことが先でありましょう。

調和法の出発点は「親に対して感謝する」ことである。

親のことを思い出した時に生ずる心の安らかさが、悟りに通ずるものであることを大事にできないようでは何をかいわんやである。

調和法の基礎原点である反省は、先ず、なにを置いても親に対する感謝から始めることである。親、特に母親に対する感謝は、胎児であった時の心の安らかさにも通ずるのであるということだ。

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