親の夢・生きざまの背中


子ども、それは私が通ってきた道。
子どもは未熟でいいかげんなものだが無限の可能性を秘めている。
何度も失敗を繰り返し、戸惑い、経験を繰り返し、少しずつ大人になってゆく。
それでは親ってどのような存在だろうか。
実は、いちばん迷っているのは親である。
子どもが抱えているさまざまな問題、例えば、引きこもりや少年犯罪などの殆どは親の問題でもある。
私の少年時代はとても貧しい生活だが、母は強く毅然としていた。
いま、本当の意味で強い母はどれくらいいるだろうか。
我が子のことになると人にはすぐに向きになるお母さん。
代わりに子どもを平均的価値観やマニュアルにはめ込むことに熱心な“監督お母さん”が目に付く。
競争はダメだと言いながら、まわりと比べ、子どもの先回りしてレールを敷く。
こうして社会が子ども中心に回り出してから日本はおかしくなった。
社会は大人が柱になっていればこそ子どもたちに手本を見せられるものだ。
子供中心の家庭生活に偏るのではなく、大人が中心になった家庭生活が正しい子供の教育となることを忘れてはならない。
今の日本の家庭環境も社会構造も子ども偏重主義に陥っている。
だから私は言いたい。子どもを監督するその情熱を、親は自分の夢に注ぎ、喜々とする輝く目を、そして背中を子どもたちに見せよと。
親が夢を持ってこそ子どもが夢を持てるようになるだろうと。
子どもたちよ、大人のいう事ばかり鵜呑みにして聞いていてはならない。
大人が言うことに疑問をもち、迷う時間を十分に持て。
迷う時間は無駄ではない。それが青春時代だ。
就職率がどうのこうのは一流企業だけの話しである。中小企業は人材が欲しくても希望する若者がいない。
なぜ皆が一様に一流企業とばかり考えるのだ。
将来の目標が定まらなくても焦ることはない。
私は中学の時に、荒れた家庭環境にやり切れなく、何もできない自分を責めて一度だけ死を決意し橋の欄干を超えたことがあった。
手を離せば川に落ちる。自殺をもくろんだが死ねなかった。お袋の顔が浮かんだからだ。
しかし、世の中なんとかなるものだ。失敗だらけの人生だったが、やり直せば生きられる。
プー太郎生活もあえて批判しない。しかし、長引けばリスクがあることを忘れてはいけない。
自分で選んだのだから被害者発言はしてはならない。
自分を弁護しても前には進めないからだ。
自己責任こそ社会のルールであろう。
私のような学歴とは程遠い人間が、社会の一員としてスタッフと共に働き、人の健康に携わっている。
私には高学歴も金も何もなかったから、必死で生きただけである。
汗を流した分だけ喜びがあることを知った。
日本は今、大きな転換期を迎えています。
外交や経済や国内事情を見るにつけ、目先の利益、自己保存が国民にも政治にも見える。
日本がここまでの経済大国になった大きな要因である真面目さと高い技術力を持った低賃金の労働力は世界に出てしまって逆輸入するに至った。
いわば国内の働き場が失われたのである。
個人も同じです。経済の成長期には右肩上がりで、みんな一緒に豊かになっていた時代には、人と同じことをしていさえすれば、自分も同じように成功できました。
残念ながらそうした時代はすでに終わったのです。
しかし、日本はまだまだ残された能力ををたくさん持っているのに、自分が失いつつあるもの、すでに失ったものをただ嘆いているだけのような気がします。
失ったものを数えていては前に進むことができなくなる。
それは人生もそうだが心も同じだ。
特に心が病んでいるときの人間は過去にこだわっている。
残された機能を120%活性化させる。
潜在している機能を再発見することで新たな機能を発見する。
頭がなければ汗を流せ。
足がなければ手を使い切ればよい。
手が利かなければ考えればいい。
金がなかったら自販機でジュースを買うな。
余分な糖分や添加物を摂取しないだけ健康にも良い。
喉が渇いたら水を飲め。
コップ三分の一の水を見て嘆くのではなく、「ラッキー!まだ三分の一も残っている」と、目を輝かせればいい。
体で稼ぐと頭が働くし、知恵が出る。
知恵は苦しみがあることで生まれてくるものだ。
喜びを深く味わってみたいと思うなら先ず、選ぶより汗を流すことをしてみよ。そのときに何をしたいかが見えてくる。
きょうも最後までお読みくださいまして心から感謝もうしあげます。またの訪問をお待ちしております。ランキング参加しております。、下のバナーをポチッとクリックして頂ければありがたいです。^_^;