天国と地獄の行き方


一つの家のなかに天国と地獄がある80代の老夫婦と50歳の息子夫婦4人の家族があった。子供二人は県外の学生である。
老夫婦はお爺さんが現役の頃は高給取りで、お婆さんは結構な贅沢三昧の生活をし、我を通し、いつも夫婦で言い争いをしていたようだ。80半ばを過ぎた今でも言い争いは健在のようだが、当人たちはそれが苦しみの元になっているとは気づいていない。
この家族は心が穏やかで調和された嫁さんのお陰で天国が造られているのだが、時として老夫婦だけは自己中心な言い争いで怒りをあらわにし罵倒しあって地獄をつくっている。
苦しんでいる時の私たちは、昨日のこと、過去のことに心を引かれ、また明日のこと、先のことを心配して不安な気持ちになっています。
ある程度の予定や計画に関して先のことを考えることは必要な場合もあるのですが、余りにも先のことに囚われ過ぎてしまうと苦しみとなってしまうものである。
時間には過去と現在と未来がある。そして、この地上に自分があるということは、その人には必ず過去世があったのです。
当然ながら、人間の魂には過去世、現世、来世があります。
人間は偶然に両親から生まれてきたのではない。
過去世とは、私たちが今生活しているこの現世界からいうと、あの世であり、またかつて自分が地上で生活した前世のことである。
私たちはいま苦楽の人生を学習しているが、現世に生れる前は、実在界(あの世)すなわち天上界で生活していた。地獄界からは生まれてくることはできない。
私たちはあの世とこの世を往復して輪廻するのです。
その人生における生きざまは人それぞれですが、前世において、暗い想念を持って地獄へ行き、そこから魂の浄化に努めてようやくの思いで天上界に進化した者もいるでしょう。
地獄界に堕ちた者も、死ぬ前には、人生の目的を果たせなかったが、それでもこの地上における生活があったのである。
人生の目的がなんであるかを気づけず、また知らずにあの世に還る者たちは多い。
人類共通の最大目的が魂の向上にあり、地上の楽園建設であることに悟れなくても、心の調和された人は、魂が慈愛の光りに満たされているため、その人の心の調和度に比例して天上界に返っていく。
つまり、死後におけるあの世での居住地は魂の調和度いかんにかかる摂理となっているのです。
人間は、過去の世において体験した色々な知識と記憶は魂に刻まれて、不調和なことは業となり、調和されたことは慈愛となり残っていく。
しかし、この3次元の地上に出た瞬間に、魂の90%の意識が潜在意識となってしまうために、私たちは過去世の事を思い出すことが難しくなってしまうのだ。
体験してきた、過ぎしあの世とこの世が、過去世といわれている世界ですが、これは転生輪廻していれば当然のことではないだろうか。
CDのように人間の魂、すなわち意識のなかには、厳然として、過去世の記憶が記録されているのです。
この地上界は、最も個体的な、それだけに不安定、粗雑な粒子の世界で、そこに住む人々の霊的波動の状態によって変化しやすい。
つまり、悪は不調和な霊波動を造り出して影響を与えるし、善は精妙な調和された霊波動を造り出して影響を与えることができるのである。
何故かというと、この地上界は、万物の霊長である人類が調和された地球を完成するための目的で、天の意志によって肉体を持って地上に出てきたからである。
しかし、その人間が、己自身の使命や目的を忘れてしまうために、心を乱し、物に執着し、金に執着し、名誉や地位に執着し、不調和になり、そしり、怒り、嫉み、恨み、あらゆる欲望と闘争と破壊の渦を造り出してしまう。
このような愚かさを、私たちは悟らなくてはならないだろう。
この地上界に出た先祖のなかには、地獄界に堕ちて厳しい修行を余儀なくしている者も多い。
彼らは死の際に、地上に残してきた物や人への執着心が強い者たちで、その為に地獄霊になったり、憑依霊として、同じような心を持っている地上の人間のなかに乗り込んで、この世の人心を乱したり、治安の不安定にまで影響した世相を造り出してしまうのである。
人間の心は『一念三千』と仏教では説明しています。
つまり、心の針は、その人が何を思うかによって、暗い地獄界にも、光明に満ちた天上界にも自由に通じることをいっている。
それだけに、思うこと自体、中道を根本としなくてはならない。ということはこのような理由による。
それはこの地上では魂の10%の表面意識で、五官を通して判断するために、次元の異なった世界を知ることはなかなか難しいからである。
それゆえに、この地上界は、物質と生命が混在した『不二一体』の世界であるといえよう。
あの世、すなわち地獄や天上界においては、潜在意識が90%と、この地上界とは全く逆の意識状態であるため、他人にも自分の思っていることが表面化して解ってしまう。
それだけに、あの世においては、肉体や物が無い分だけリスクも少ないが気づきも小さく、修業と言う目的を果たすことが難しいのである。
この地上に下生して肉体に乗ってしまうと、魂の90%は潜在してしまい、わずか10%の表面意識だけで盲目同然の意識であるため、他人には心のなかを知られることが少ないし、また他人を偽ることができ、それだけに、自らを正しい心の尺度で判断して行動しなくてはならない。
従って、私たちの魂の修業の場としては、この世は、あの世に比較して適しているといえよう。
本来、次元の異なった世界からの通信メッセージを、受信はできるが、それはその人の心の調和度によって大きな違いがあり、普通は非常に困難なことである。
それはこの地上3次元の場から考えても明らかである。
鏡に映っている人に声を掛けても通信はできないし、映画のスクリーンに映し出された人々に声を掛けても通信することはできないのと同じことだ。
三次元の私たち観衆からはスクリーンの人は見えてはいるが、2次元世界のスクリーンの人からは、私たち3次元の人は見ることができない。
ということは、私たち3次元の地上世界から4次元世界のあの世にコンタクトするには私たちの心が4次元世界と同等、もしくは、それ以上の霊性まで精妙にアップされなければできないということが理解できるであろう。
あの世とこの世は、このように遠いところでもあり、近いところでもある。紙一重の表裏の世界だ。
つまり、それは意識の世界であるからだ。
しかし、心(魂)の修業ということを考えれば、この地上世界には、私たちの肉体を維持、保存できる環境の一切が提供されている。
これこそ、天の心、すなわち、慈悲と愛の現れだといえよう。
私たちは、この意味で、今の環境に感謝することが当然であるし、この感謝の心を、報恩という行為にすることが人間の道なのである。
つまり、自分にできるかたちで人類のために奉仕することが大事ではなかろうかということだ。
例えば、生活ができたならば足ることを知って、余った分は、人々の為に報恩という行為で現さなければならないということです。また知恵を提供するもよかろう。体で奉仕するもよかろう。技術を提供するのもよいでしょう。
魂の向上は、心の安らぎであり、客観的には、囚われの少ない精神状態である。
心の安らぎは調和であり、調和度が増すにしたがって、この地上は、平和なユートピアとして、精妙化されていくといえよう。
きょうも最後までお読みくださいまして心から感謝もうしあげます。またの訪問をお待ちしております。ランキング参加しております。、下のバナーをポチッとクリックして頂ければありがたいです。^_^;
  23日14:00現在、悩み・苦しみ・迷い・では第2位、哲学思想は6985サイト中の第115位です。いつもポチッとクリックをありがとうございます。