短気な若者
肉体は魂を磨く道具である
私の知り合いに腕の良い大工職人がいる。彼の作業場はいつもきれいに掃除が行き届いていて整頓され、とても気持ちが良い。
あるとき弟子が作業しているときに、下に置いたノミをまたいでいった姿を見て『こらっ!自分の大事な道具を下に置いてまたぐな。』と叱っていた。
私は、なるほど!と思った。色々な道具にはそれぞれ持ち主がいる。その道具を活かして大事に使い切ることもまた立派な仕事をするため条件であろう。
腕が良く、立派な仕事をする職人さんは道具を大事にするということをこの大工さんから学んだ。
私たちの肉体は自分の持ち物ではあるが、しかし、肉体が自分ではない。
真の自分とは肉体を動かしている自分の魂であるということはこれまで何度も話してきました。
日本仏教が「あきらめ」の無常感を説いてきたのはこの肉体を人間だと思う錯覚から生まれて来たものだということは前回のコラムで述べた。
蓮如上人の『あしたには(朝には)紅顔ありて、ゆうべには白骨となれる身なり、あわれというも、なかなかおろかなり』という白骨の文章は、もっとも日本人の無常感を端的に現わしている。
灰になって終わりになるのは肉体という物質であって人間そのものではない。
この人生は、肉体という道具を使って如何にして魂を磨くかという一つの舞台である。
一つの舞台での表現が終われば、また次の舞台に登場して魂の表現をするのである。
心の広く大きな人は、舞台全体を自分の魂の表現の場として舞台全体に広く大きく表現するが、心の狭い小さい人は、広い舞台の上の片隅で小さくしか自分を表現しない。
日舞などを見ていてもその様子はよくわかるだろう。
その人の性格、ものの考え方もまた、その人の心の大小の現れである。
地球のどこかで悩み苦しむ人があったら、その人の悩み苦しみを自分の悩み苦しみとして感ずることが出来るという人は、全人類と自分とは一体だという大きな愛の心を持っている人であり、隣の人が悩み苦しんでいても何とも思わないという人は狭い心の持ち主であるということである。
心の広い人は、時間の流れにしたがって昔から現在へと歴史的なものの見方、考え方をするが、心の狭い人は、歴史的なものの見方、考え方が出来ない。目先のことしか考える力がない。
憑依された人も歴史的な見方、考え方が出来ない。初めと、中頃と、終わりと、言う事が違うという教祖や指導者は歴史的な見方、考え方の出来ない心の小さな人であるか、または憑依された人である。
そういう人の言っていることは、今言っていることがこの次には簡単にどう変わるか分からないから非常に危険である。
真理は永遠不変であり不滅なのであり、したがって、これまで気づかなかった発見があるのは由としても、時代を経て歴史が変わっても教義がくるくる変わるということは有りえないのだ。
そのような宗教ははっきり言ってニセモノである。
『日蓮さまをご本尊としているが、拝むとご利益が凄い』といっていた若者の話しを聞いたが、これなどはその最たるものの代表である。
このような言葉を言わせる教祖の教義そのものに問題があることは容易に理解できるでしょう。
仏教の教えは自分の生き方を執着のない、調和されたものにするための教えであって、それが実践できたときにはじめて善果が現れてくるものだということ、これを以ってご利益とするものだという事であろう。
ご本尊を拝して南無妙法蓮華経とお題目を並べてご利益が有るとする教えは仏教の教えとはいえない。
この若者は真面目なだけに融通がきかないし、短気なところが問題点なのはわかっていた。
『○○君、あなたは法華経を学んでいるのだろう?』
『はい。』
『ということは心を学んでいるということだね。』
『はい。』
『平常心是道という言葉があるように、心を騒がせず怒らずに人に接する、働く、生きるということが分かるね』
『はい。』
『君の働きは、せっかちで、いつもイライラして短気を起こすから心拍数も上がりやすく疲労しやすいのだよ』
『ああっ~それで疲れやすいんですね。』
『そうだよ。いかなる時も心を動揺させず冷静になることを忘れず仕事をしてごらん。それができたら君は更に成長するよ。』
『わかりました。ありがとうございます。』
この若者が通っている宗教団体は若者の出入りが多いと聞いた。
しかし、拝めばご利益があると指導する宗教は無限の可能性をもつ人間の力を依存型の人間にしてしまう間違った宗教でしかない。
狂ったようにご本尊に額(ぬか)ずきお題目を唱えている光景には動物霊に支配された一団の気の毒な姿が見える。
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