呪縛の言葉

様々な相談と問い合わせをいただくのだが、ごく普通の日常的な出来事のなかにも深く原因追求していくと宗教問題にまでたどり着く場合が多々あります。

問題解決のための私の問いかけに、『我が家は浄土真宗で、新興宗教ではないから問題ありません。』と答えてきます。

『あなたは故人への供養をどのように考え、行っていますか?』とたずねると。

『私を見守ってください』と仏壇の前で手を合わせ『南無阿弥陀仏と唱えてます』といいます。

しかし、故人は遺族を見守るどころか、生前において、あることに執着があるために成仏できていないのであった。そのために夜な夜な霊現象を起こし、夢にまで出てきて悩ませているのである。

先祖に対して、あるいは亡くなったばかりの故人に対して『見守ってください』と手を合わせるのは、人は死ねば高い天国にいくものだという考えがあるからだろうが、実際は必ずしもそうではない。

故人、先祖に対しては決して願い事や私を見守ってください、等という思いをもって合掌してはならない。成仏できていない、あの世の住人にとってはそれが呪縛の言葉となるからだ。

お解りだろうか。能力のない者に、自分のことさえもできずに右往左往している者に物事を頼むとどうなるのかということです。

生前の心の状態が不調和であれば天国どころか、地獄に堕ちているいる場合があるからである。

不調和とは、足ることを忘れた生活のこと。だから不満が出る、愚痴を言う、怒りを持つ、妬む、などの心をもった生き方をするこという。このような精神状態の人は、いつも心が曇っている為に光明の世界に入れないといえよう。

このような意味から、この世とあの世は別物ではないということ、いつも連動した、深く関わりのある世界であるということだ。色即是空、空即是色という般若心経の一説がそれを表現している。

今日は日本人のものの考え方、古来からの文化や伝統のなかで出来てきた心理的な特性について述べてみます。

現代仏教の始祖であるインドのゴーダマシッダルタ釈迦牟尼世尊(お釈迦様)は「諸行無常」「煩悩」について説かれた。

形に現われている現象はまさしく時と共に変わりゆくのですから常では無い。つまり無常である。

片時として一定の姿をとどめることはない。自分のものだと思っている肉体もやがて朽ち果てて灰となる。

日本人はこの「諸行無常」という言葉から「この世ははかないものである」という、悲しい淋しい感情を生み出してしまったが、本来の真意は、形あるものはやがてその姿を変えて繰り返すという宇宙の循環の法則、生命の輪廻転生をいったものである。

淋しく、悲しいもの、儚(はかな)いものという、そういう考え方をしてしまったのは般若心経の中にある「色即是空 空即是色」を一切は空に帰する、なくなるのであると解釈してしまったことによる。

もっとも空(くう)を無(む)に帰することであると最初に解釈したのは竜樹という僧侶であった。

この竜樹の誤った解釈が日本に伝わってきて日本人の「はかない」という感情を作り出した。

それは、桜の花を見て「美しい」と思う人よりも「やがて散りゆくはかなきもの」と感ずる人の方が奥床しく上品な高等な文化人であるというような風潮にもみることができる。

中国から伝わってきた仏教は無霊魂論、一切は空に帰するというのであったから、日本仏教はこの世限りの生命と見て霊魂は永遠に存在することを認めなかった。

例えば茶道の心得として使われる「一期一会」という言葉がある。

「人生は無常である。今日は主人となり客となって茶の手前を楽しむことが出来ても、この茶会が終わって別れると、明日はどちらかが死なぬとも限らない生命であるこの茶会がお互いにこれっきりの機会であるかも知れない。

今生でたった一回きりのこの機会を大事にしなければいけない」という思いを持って、主人はお客の後ろ姿が見えなくなるまでこの機会を持つことが出来たことを感謝するというのが「一期一会」の心得であるとされている。

ここにも人生のはかなさを泌々と心の奥で味わうという、はかなさを楽しむ心がある。

外国人にない日本人だけの心理的な特性である所の悲しさを悲しむ、寂しさを寂しがる、はかなさをはかなむという感情は「諸行無常」という言葉がつくり出したものであろう。

この「諸行無常」はまた「あきらめ」の感情を生み出した。

「あきらめ」の感情の中にあるものは、人間の運命は既に生まれてくる前に決められているのであって(こういう考え方を宿命論という)、どんなに努力してもどうにもなるものでもない。

それはもはや忍従(にんじゅう)して諦(あきら)めて従うより外はないという、人生を改善しようという努力を完全に放棄した無気力な姿勢といえるだろう。

このような心を生み出したのが武士による士農工商の封建支配体制であった。

こうした「はかなさ」と「あきらめ」の上に生まれて来たのが法然(鎌倉時代初期の僧侶)、親鸞上人(鎌倉時代中期の僧侶)の念仏信仰であったが念仏信仰がまた「はかなさ」と「あきらめ」を増幅してしまって現在に至っている。

景気のいい時には威勢の良かった人が、ひとたび挫折すると、とたんに意気消沈して自殺するというのも「あきらめ」の感情からである。

そこには、運命は人間がどんなに努力してもどうにもならないものだという考えがある。

もっともこの「あきらめ」の感情は、いつどこで戦いが始まって討死するかも知れないという鎌倉時代以後の武家政治によっても培われた。

武士は一歩家を出ると夕方には死骸になって帰るかも知れないという、とにかく毎日毎日が死を予期し覚悟することなしには生きられなかった社会体制もまた「あきらめ」の感情を生み出した。

しかし、現在はもう封建的な武家政治時代ではない。

一つの時代の中で、その時代に適応する為につくり出された信仰や道徳は、時代が変わったら変わることが当然なのであるが、現在の日本人の心情の中には、未だに封建時代につくられた信仰や道徳が流れている。

親不孝の息子が出来ると、どうしてそうなったのか原因も知ろうともしなければ、何とかしなければならないと思うことはあっても、現実にはこれが運命だと諦めて何もしようとしない親。

嫁と姑との不調和があると、これも運命だと諦めて、身体は息子夫婦と一緒に暮らしていても、心の世界で逃避して、心の中で自分だけの世界をこしらえて、そこに逃げ込んで孤独を楽しんでいる悲しい年寄り。

「後生の一大事を願え」という浄土真宗は、み仏の名において苦しみを強制し、現実改善への努力を失わしめてしまった。

「あきらめ」は信仰の救いとは全く正反対の心情であることに気づかなければならない。

坊さん達が説いている『南無阿弥陀仏』と唱えることで救われると説いていることは一時の気休めであって本来のお釈迦様が説かれた生老病死に対する人間の生き方や知恵による救いではない。

南無阿弥陀仏の意味は阿弥陀仏という悟られた方の教えに帰依(順守)して執着のない生き方をします。ということであるが、南無阿弥陀仏と何べんも唱えるということは『阿弥陀様に帰依します』と、同じことを繰り返し唱えていることになるのだ。

その光景を想像したら滑稽としかいいようがない。帰依をするなら日々の生活の行いを大切に当たり前の生き方をしなさいと阿弥陀様がいいたくなるだろう。

結局、日本人の心の中に流れている所の武家政治と諸行無常感によってつくり上げられた「はかなさ」「あきらめ」の感情が正しく整理されない間は日本人は正しい信仰を持つことは出来ない。

日本の宗教界には古来の教義自体が間違っていたり、矛盾していたりするところがたくさんある。

ある宗教では「現実を見ず実相を見よ」という教えをしている。現実に改善しなければならない問題が一杯あるのに、実相を見なさい。この教団は実相を見る教えである」といって現実の間違いを改革し改善しようとすることは悪いことであるという結論になってしまっている。

それはしかし、この教団だけでなく、どこの宗教団体にもあることだと思っている。

先祖からの古い宗派だから間違いがないとか、お題目を故人の前で唱えて送るからこれで良しとする。念仏を唱えるからこれで良しとする。本当にこんなことで故人の祭祀ができていますといってよいのだろうか。

要は、祭祀の仕方、先祖供養のあり方は宗教的儀式のなかにあるのではなく、一人ひとりの心づくしの問題だということである。

パフォーマンスに囚われては事の本質を見失ってしまうということだ。

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