恐怖のマインドコントロール・信仰の正邪
心の国境
第一章宗教の現状
宗教を否定したら人間を否定することになるのではないかといえるほど古来より人間の心と生活に宗教が関わっています。
だが、この宗教こそが根底にあって人間同士が殺戮(さつりく)にまで駆り立てられていることも世界的な事実である。
宗教を悪と見るのか、必要欠かざるものとみるのか。
宗教によって心救われる人もいる一方で、宗教によって被害に遭い、また人を殺(あや)めることもある。
要は、宗教をもつことが問題なのではなく、正しい宗教かどうか、正しい法を説く宗教か指導者であるか、営利を目的としたものでしかないか否かであろう。
現代の世界の状況をみると、資本主義思想と共産・社会主義思想の二極に大きく分化されているといってよいのではないだろうか。
しかし、これまでの史実をみてのとおり、思想によって世界人類の心が平和になることはまずないと思われる。
例えば米ソの対立は思想の対立です。
世界が最終的にユートピアになるためには、根底にある宗教の対立、人種の差別による対立がなくなり、国は違えど、障壁としての心の国境がなくならないといけません。
現在行なわれている戦争の原因も、要するに根底にあるものは、宗教の対立です。
宗教の対立を解消するには、世界の人口の三分の一が正しい真理(神理)を知ればできるでしょう。
世界で問題が発生して内戦や隣国との戦いをしているところには常に宗教的背景があります。これは過去における史実も現代も変わらない。
信仰をもっている人たちのなかにもある、信仰の矛盾を感ずるというのは、その信仰が間違いであるからです。
宗教に疑問を持った人たちは立ち上がらなければなりません。
きょうここに掲載する内容は、宗教の間違いと真の正しさに気づく足掛かりになればとの思いからであります。
一、今まで無信仰であって、これから信仰しようという人への宗教選択の基準として。二、既に信仰しているが、その信仰に疑問を持っている人への気づきの道しるべとして。
信仰に疑問を持つ人へ
ふしぎな日本人
少し古い統計で申し訳ありませんが、平成12年末(2001年)現在で日本にある宗教法人の数は18万2千ほど登録されているとあります。
そして法人登録されていない宗教団体となると更にその数は膨大な数で把握しきれないでしょう。
宗教法人がこんなにたくさんあっていいのでしょうか。
日本人くらい、宗教について曖昧な民族はありません。
大抵の家には神棚があって、仏壇があって、子どもが生まれるとお宮参りをして、死ねばお寺でお葬式をして、クリスマスだというとクリスマスケーキを買ってきてメリークリスマスとケーキをほおばる。
病気だとか、不幸だというとどこかの新興宗教に入って、さらに良く当るという霊能者がいるとそこにいって拝んでもらう。
「先祖に苦しんでいる者がいるからその人を供養しなければあなたがたに災いが起きてきます。」
「子供さんの人生はそう長くはないでしょう。」
「この子の悪しき運命を変えるには徳を積むことが最も最善の方法です。」
「先ずは財を捨てることから始めなさい。」
「手持ちの預貯金の半分は寄進すれば悪業を消すことができます。」
「あなたの先祖はそれだけ他人を犠牲にして贅沢をしたのですからその因果を消すことは相当な覚悟が必要です。」
等々とこういった誘導に恐怖を感じて思いのままに操られてしまうのである。これらはご都合主義のマインドコントロールでしかない。
金の亡者となった教祖や指導者、霊能者、占い師たちは邪悪な霊達の支配下にあり、目先の当て事が非常に得意で好きであり、あの手この手で迷える人々を扇動していくのである。
人間はこの当て事にとても弱いものだ。
相談者の見えないものに対する不安感、恐怖心からご利益主義、他力本願への依存心もいいとこである。
気づいた時には結構な大枚をはたいて儲けさせてはじめて危機感をもってから気づく人もいる。
懐が寂しいどころか借金までして貢いでも気づけない被害者もいる。
人生をどう生きるかはすべて己自身の心に内蔵されていることであって、そのことに気づいた人たちは自助努力によって厳しい生活環境下にありながらも幸せを実感しています。
さて、西洋の学者が、「日本人はわからない」という原因の第一は、このような信仰に対する曖昧さだといいます。これは私のアメリカ人の友人の話でもあります。
なぜ、信仰に疑問が起こるのか
「あなたは今、幸せですか」「幸せになりたいと思いませんか」「その病気から救われたいと思いませんか」どこの宗教団体でも信者を勧誘する時にいっている言葉です。
幸せに対する考え方は定義がありません。幸せは考えるものではなく、感じるものだからです。(過去の投稿もご参照ください。)
人間はみな幸せになりたいという思いはあるのですから、その呼びかけは決して間違いではないでしょう。
だが、信者になった人がみな幸せになるかというとそうではありません。
幸せになったという人もいれば、一向に幸せにならないという人もいます。
また、最初は幸せになったという人でも、しばらくするうちに解決できない問題が起こってきて、教えられた通りにやってもうまくゆかないということが起こってきます。
その上に、寄付をしろ、信者をふやせ、冊子を買え、本を売れ、集会に出てこい等、ノルマを課せられ、いろいろな枠をはめられてそのために苦労します。
「こんなことなら信仰しない方が余程ましだった」という悩みをもっている人は実に多いのである。
悩みが起こるのは、本山や本部が悪いのか、信者が悪いのか
信者が悩みを持つと、「信心(信仰)が足らないからだ」と、どこの宗教団体でもいいます。
ほんとうにそうなのでしょうか。
本山や本部、或いは講師の方が間違っているということはないのでしょうか。
信者だけが間違っているのでしょうか。
「一所懸命にやれば疑問はなくなる」ともいいます。ほんとうにそうでしょうか。
新興宗教はなぜやめる大が多いのか
今ここで代表的な新興宗教団体の名称を挙げることは控えます。
いろいろな宗教団体がありますが、今はどこの宗教団体でも、入会する大よりは脱会する人が多いのが現状です。
なぜ、やめるのか、というと、一所懸命にやってみても疑問がなくならないからです。
熱心にやればやるほど苦しくなるからです。
それに、今の新興宗教の信仰には金がかかります。
信仰するのにそんなに金が必要なのでしょうか。
「お金のない人は信仰できない」というのが新興宗教をやめた人の口ぐせでもあります。
宗教産業となった新興宗教
私は30年ほど前に宗教団体の実態を知ることを目的に、いくつかの宗教団体を意図的に覗いてみました。その中には犯罪を犯した教団もあります。
表ざたにはならなくても、訴訟などの裁判沙汰を起こされている教団は結構あります。名前を列挙すれば一桁ではおさまりません。
そしてこれまで宗教被害にあった相談者の話しを聞いてきましたので、多くの新興宗教の内部事情も少しは把握しているのですが、実に巧妙に名目をつけて信者からお金を吸い上げます。
毎月の会費、奉納金、毎月の先祖供養、故人一人に月いくら、春と秋の彼岸の先祖供養、元日と大晦日の特別祈願、毎月の講演会費、毎月の新聞代、本代等、その外、特別の行事があるとその都度寄付をさせます。
たくさん寄付するほど功徳がある、といわれるから競争的に寄付をする盲信者。
果たしてたくさん寄付をするほど功徳があるのでしょうか。
邪悪な教団の言っていることは『口説く』であって『功徳』とはほど遠いものでしかありません。
功徳は、先ずは己の心を調えることが成されていなければならないでしょう。
心を調えるとは、自分の心にある「自我」即ち不満、愚痴、怒り、恨み、嫉み、などの不調和な想念がどれだけ捨てられているかです。
そのうえで日頃の生活で愛の実践ができているか、他に対して慈しみの心を以って実践できているか否です。
自分の名誉や、偽善のために行った善行は、真心で積む功徳とは遠く及ばない行為でしかない。
為して望まず、ただひたすらに行う。
無償の善行こそ己の心の財産となるということだ。
新興宗教をやめた人達が一様にいうのは、「こんなに金がかかっては信仰もできない」ということです。
何故、宗教被害者に目を向けるのか
なぜ今こうして私が宗教に関して書き記すのか、そして手を差しのべているのか、それは外でもありません。
「こんなに苦しむのであったら、むしろ信仰しない方がよかった」といって、信仰したが故に苦しんでいる人に気づいてほしいからです。
それともう一つは、信仰はしたいが、どんな信仰をすればいいのかわからない、と思っている人々に、正しい人の道に気づいてほしいからです。
勿論、病気や不幸で悩んでいる人々にも望まれれば手を差し伸べます。
これまで信仰していた宗教をやめさせて平和な心で生活できている人たちがいます。
盲信、狂信していた人たちが人間らしく、自然状態で家庭生活ができるようになった事例があります。
疑問や矛盾が起こるのは、その宗教が間違っているからです
信者が疑問を持つと「信心が足りない」と指導者がいいます。
私は新興宗教団体について少しばかり研究してみました。
その結果、信者が疑問を持つのはみな、その宗教団体の教義或いは指導方針に間違いがあることがわかってきたのです。後に説明します。
過去の投稿記事を参考にしてください。
『間違った信仰の恐怖』2013年10月19日投稿
『信仰と読経にもつ疑問』2013年7月19日投稿
『神秘力と危険な宗教』2013年3月31日投稿
『邪宗教から抜け出せない理由』2013年5月6日投稿
宗教の分類
なぜ十八万五千もの宗教法人ができたのでしょうか。これからまだどれくらいふえるかわかりません。
宗教とは神仏をまつり、信ずることだと普通考えられていますが、十八万五千も神仏があり、また、これからも本尊としてまつる神仏がまだふえていくというのはいかがなものであろうか。
日本の宗教を大きく分けると五つに分類できます。
第二章宗教の分類
啓示宗教
知的宗教
民族宗教
土着民俗宗教
憑依宗教
以下説明します。
一、啓示宗教
真実の神、仏の啓示によって始められた宗教、例えば、釈迦、キリストが神仏の啓示をうけて説かれたそのままの宗教です。
啓示宗教には一貫性があります。神さまや仏さまのいわれることが途中でくるくる変るというようなことはありません。くるくる変るのは正しい神仏の教えではない証拠。
二、知的宗教
代表的な国内の知的宗教といえば「〇長の〇」です。教祖の頭脳で知的につくり上げられた宗教ですから、教義が途中でくるくる変ります。
釈迦、キリストの教えも、最初は正しかったのが、後世になってくると、説く人の知によって歪められて、説くことが変ってくるようになったといえます。
「〇〇宗」も、教祖の頭で考えてつくられた宗教ですから、説くことがくるくる変ってきています。
三、民族宗教
その民族特有の宗教、例えば日本神道がそうです。神道は日本民族特有のもので、他の民族は神道は信じません。他の民族には他の民族特有の宗教があります。
四、土着民俗宗教
その地方だけの特有の信仰があります。痔の神さま、はしかの神さま、縁結びの神さま、安産の神さま等、実にいろいろの神さまがあります。
ご神体も石であったり、木であったり、他を受け入れやすいという一面は良いのですが、日本人はなんでも神さまにして拝む癖があります。
別府の地獄湯には温泉でワニを飼っていて、そのワニは三メートル位の大きなものですが、昼寝しているワニの背中にお賽銭が一杯のっているということがありました。
大阪の阪神地下街の人工の川(トレビの川)にもお賽銭が投げ入れてあります。土着信仰は、日本人のこうした、なんでも拝むという心が生み出したもので、こんなものは、ほんとうの宗教とはいえません。
五、憑依宗教(別名霊能宗教)
日本の霊能者のなかでも、動物霊や地獄霊に憑依されている人は多い。動物霊の言葉や地獄霊の言葉が、観世音菩薩とか不動明王だとか名乗って出てきます。
動物霊や地獄霊の支配を受けていても病気治しくらいは簡単にやります。病気をよく治すからといってそれだけで信じてはなりません。盲信、狂信は必ずあとから大きなトラブルに突き落とされることになります。
その教祖が動物霊や地獄霊に憑依されているのではないかということを簡単に見分ける方法は次の通りです。
1、金銭に汚くなる。
2、傲慢になる、驕り高ぶる。
3、言うことがくるくる変る。
4、言うこととやることが一致しない。
5、いうことを聞かない者には「罰が当る」といって脅迫する。
6、肌の色が健康色でない。
7、服装が派手になる。常人と違った特別の服装をし、飾りたがる。
9、物欲が派手になる。
10、二面性があり、起伏が激しい。
このような教祖のいうことは信じないことです。
第三章 正しい宗教の判断の基準
正しい宗教であるかとうかを判断するには、まず第二章に示した宗教の分類によって判断した後、次の十ヵ条によって判断することです。
一、正しい宗教は大神殿、大殿堂を造らない。
宇宙創造の神が、人間が造った神殿の内にのみ居られると考えるのは間違いです。
二、正しい宗教は偶像を礼拝しない。
ご神体として人間の手でこしらえたものが神仏であるはずがありません。どうしても人間は祈ることにおいて対象物をほしがるけど、人間が神仏をこしらえることはできません。
三、正しい宗教は金銭で救われることを説かない。
寄付をたくさんすれば救われる、会員をふやせば救われる、本をたくさん買えば救われる、本部にお詣りするほど救われる等と説く宗教は邪教です。
四、正しい宗教は教祖を神格化しない。
教祖を神さま扱いする宗教は邪教です。人間が神さまになることは絶対にできません。
教祖が間違ったことをしても、側近は間違ったことはしていないといって信者を押さえつけます。こういった言動が教団内にあるようならその教団は間違いなく悪の巣窟になっている。
五、正しい宗教は「罰が当る」といわない。
神さまが罰を当てられることは絶対にありません。人に恐怖心を与えて信仰させようとするのは人間の都合で語られたことであって営利、名誉、地位に固執した邪教です。
六、正しい宗教は、易、人相、墓相、印相、気学等の運命学を説かない。
心が変ると運命は自然に変ります。自分の心を変えるのは自分自身です。自分が運命の主人公です。
宗教団体のなかにも現実に易や、家相、墓相、気学を駆使して霊能だとしているところが存在しています。
七、正しい宗教は説くことに一貫性がある。
説くことがクルクル変るのは正しい宗教ではありません。クルクル変るのはご都合主義です。神さまや仏さまのいわれることがクルクル変るというようなことがあるでしょうか。人間でもいうことがクルクル変る人間は信用されないでしょう。
八、正しい宗教は世襲制度をつくらない。
教祖の家柄に必ずしも立派な宗教指導者が生まれるとは限りません。白分がつくった教団を子孫に継がせようとするのは欲望からです。しかし、現実に世襲教団が存在しています。
お釈迦さまは自分の子供に釈迦教団を継がせるというようなことはされませんでした。
九、正しい宗教は儀式や護摩供養をしない。
最近、〇〇密教の〇〇宗では信者たちが白装束で祭りごとに参加し、教祖がさかんに護摩供養を説きますが、すべてお金が先に立った行事として仕組まれています。
お釈迦さまは護摩供養をしてはいけないと説かれたのです。
何百本護摩供養をしようが、己自身の心がきれいにならないと救われません。護摩供養はしなくても、心をきれいにする方法はいくらでもあります。
たくさんの金品や供物をしたからとい救われるわけではありません。
実際にこの宗教に属していた方がいくら護摩供養をしても救われることなく苦悩ししていたのですが、今は脱会もし、自分の心を取り戻して日々の安らぎと幸せを感じながら暮らしています。
安らぎは自分の心の在り方にあることを私とのカウンセリングによって気づいただけである。
正しい宗教は「水子が祟る」といわない。
水子が祟ることはありません。水子供養をさせたり、水子地蔵をまつらせたりする宗教は邪教です。そんなことに惑わされてはなりません。
まだほかにも判断の基準がありますが、例えば最初から「素直に信じなさい」といっている宗教は、おかしいところがあるから疑問を持ってはいけないというのだと考えた方が正しいのです。
信仰してしまってから聞違いだったと気づくよりも、信仰する前によく調べることです。
今まで、どんな宗教が正しいのか、その判断の基準を教えた宗教はありません。
第四章 正しい教えとは
正しい教えとは、神がつくられた大宇宙大自然の真理であり、宗教はその真理を説き、その真理に発した道徳を教え、正しい秩序ある社会をつくり、人間が幸せになる道を教えるものです。
神は生命を創造し、物質を創造し、生命は生命の法則により、それぞれ循環と因縁、因果の法によって存在せしめられることになっています。
それゆえに、生命の法則を説く宗教と、物質の法則を説く科学とは表裏一体となり、切り離すことはできないものとして存在しているのです。
これを物心一如、色心不二、心身一如ともいいます。
宗教家が大宇宙の真理を知らず、科学者もまた無知であるためにその背景に存在する意識というものを避けてきたのである。
宗教と科学とが一体であることを知ることによってはじめて真の人間性が開発され、大宇宙大生命即ち神と調和し、人々の心は安らぎ、地球上に極楽浄土が完成されるでしょう。
極大の大宇宙世界から、極微の原子世界に至るまで、一貫した法則によって支配され、その中に人は心を持って存在しています。
心とは意識であり、魂であり、霊です。
仏法によって生命の不変を説かれた釈迦も、大生命大自然の真理を説かれたキリストも、大自然の真理に到達された偉大なる先覚者であったのです。
大宇宙は神によってつくられました。
大宇宙は神の意識の表現体です。
即ち、この意識を神と表現ます。
「大宇宙の意識は智慧と慈悲とを持つ一大生命エネルギーの根源であり、万生万物を存在せしめ且つ生化しているのです。
真の正しい教え(法)とは、神がつくられた永遠不変にして普遍的な道に沿ったものでなければならないのです。
それは必ずしも宗教の世界にだけあるものではなく、私たちの毎日の生活の中に、右にも左にも上にも下にも偏りのない心で生きること。
即ち、不満や愚痴、感情的になった怒りの心を持たない、恨みや妬みのない足ることを知った生活のなかにこそあるということです。
どのような信仰をもっても、またどのような霊能者に依存しても、どのような占いをしようが、自分の感情を理性と知性によってコントロールできずに子どもに向けて暴発させるようでは信仰など何の意味も持たないだろう。
信仰は外にあるのではなく、自分の心のうちにすべてがあることを悟らなければならない。次回は明日(2月3日)に投稿(実例)を予定しております。
タイトル『霊能者の常套(じょうとう)手段・脅しの話術』
※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。このブログを他の方にも読んでほしいと思われた方は下のバナーをポチッとクリックして頂ければ幸いです。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません