夫婦愛の本質

心の光『最近は夜の生活がありません。』こういって沈んだ表情の若い奥さま。若い世代のセックレスは健全な家庭生活を営んでいるとは言い難い。

ただ単に肉体的欲望を満たすだけではないものが夫婦の営みであるのは誰もが承知するところでありましょうし、それだけに双方の精神的繊細な部分が大切なところでもあろう。

相談者と話していると、思いやりがありながらボタンの掛け違いをしている場合もあり、誤解をしているがゆえのレスもあり、致命的な関係による場合もある。

いずれにしても、本来の夫婦愛の在り方を理解していただくことで以前の夫婦になれたといって笑顔で報告にみえられる。

愛と慈しみの言霊

ふつう一般に、愛とは男女の愛、夫婦の愛とみてしまいがちですが、愛の本質は、愛憎の愛とは違います。

もちろん夫婦の愛、男女の愛も、愛の現れといえないことはありません。

顛倒夢想と矛盾だらけの世にあって、男女の愛は、人間生活に、希望と生きがいを与える役割を果たしているからです。(※顛倒夢想、てんとうむそう、自分にとって必要なことでも好き嫌いで為さない。)

しかし、本当の愛は、神の愛をいうのです。

神の愛とは、無私なる心、いつくしみの心、なさけの心、思いやりの心です。

丁度、2000年ほど前に人々に愛を説いたイエスは、「幸福なるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり。幸福なるかな、柔和なる者。その人は地を嗣(つ)がん。幸福なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と称へられん……」 といわれました。

これはどういうことかというと、心の貧しいとは、おごる心のない者。

柔和とは心のおだやかなこと。

その人は地を嗣がんとは、人々の心にも安らぎをもたらし信頼をもたせるの意味。

平和ならしむる者とは、争いを好まぬことをいっており、こうした心を持った者は神の愛をうけ、天国の住者であるというのです。

このような心は、自我が強くては生まれてきませんし、無私なる心、なさけの心がなくてはでてこないのです。

慈悲の心も、無私、なさけ、思いやりでありますが、愛もやはり同じなのです。

慈悲も愛も、ともに神の光ですから、同じでなければなりません。

ただ、愛は、その根本は慈悲と同じですが、働きとしては、「許し」であり、相互扶助であろう。

もし、この地上に「許し」という免罪符(一時的な罪に対する免除)がないとするなら、人間は、原罪(人間が最初に犯した罪)というカルマ(業)から、のがれることはできません。

つまり、聖書でいう原罪とは、煩悩という神の子の神性を汚す、想念と行為をいうのです。

嫉妬、怒り、偽我、欲望……。こうした想念は、神性であるべき己の心を毒します。

しかし、人間が肉体を持ち、相対的関係のなかで生活していますと、どうしてもそうした想念にとらわれてしまいます。

そこで、地上の人間を救うために、神は、愛の光を投げ与えてくれているのです。すなわち、「許し」という光です。

人間がその原罪を認め、ザンゲし、素直な心で新生しようとするとき、神はその人に愛の手をさしのべ、その罪を許してくれるのであって、求める心がなければ成されない。

もうひとつ大事なことは「相互扶助」です。互いに助け合うことがなければ、人は一人として立つことはできません。

私たちの生活は、多くの人たちの愛の上に成り立っています。

助け合う心は地上における光です。

慈悲を、縦の光とすれば、愛は、この地上界で手を取り合って横に連なる光であるといえましょう。

夫婦で争いの絶えない家庭の場合、理由はその家庭によって様々ではあるが、いずれにしても理由の如何を問わず、自我を通しては平和は望めない。

妻に対する思いやりに欠け、言葉が足らずに心が伝えられない夫、言葉がきつくて夫のプライドを削いでしまい手をあげられる妻。

夫婦喧嘩は100%片方だけが悪いということは少ないものであることは、これまで相談者の話を聞いてきたなかでわかることである。

愛の言霊

愛とは寛容である。包容力である。許すことである。
もし、この地上に愛がなければ、人の世は、水のない砂漠をゆく旅人のように、飢えと渇きに泣き、他をかえりみるいとますらないだろう。
愛は助け合い、補い合い、かばい合い、許し合う、そのなかに生きている。
愛は天の光りであり、あなたの中に宿る光なのである。
地上の灯、それが愛であろう。
闇夜にさ迷う人々の心に潤いをもたらし、生きがいを与えていくものである。
心の内から照らす愛は、正に灯台の灯といえよう。
しかし、愛に溺れてはならない。愛は自分に打ち勝つ者、向上を目指す者の心の内から輝きだすものだからだ。
闇夜(執着)の世界は自らの進路さえ迷わせる。
前途に何が立ちはだかっても解らないし、いつ足を踏み外すかも知れない。
焦燥感に襲われることだってあるだろう。
この闇夜を支配している、ならず者の群れ、下心、脅迫、強盗、迫害、暴行、詐欺、殺人、裏切り、不誠実などは、そのまま恐怖の世界であり、すべて満足することのない苦しみの世界である。
それは、光明を失った人々の、悪想念が作り出したものである。
闘争と破壊、暴力、武力がまかり通る世界といえよう。
慈悲深く、愛を施せる者は、自らが安らぎの心をつくり、人々の心に光明を与え、悪魔さえ支配し、正しい道、天の道をゆく者だ。
悪魔に勝る道は、慈愛の心と行い以外にないであろう。
悪魔は己の心の中に潜んでいる。
正道(執着なく調和して正しく生きる道)を悟って勇気と努力の実践に、偉大なる智慧が加わり、自らの欠点を修正した時、心の悪魔は滅びるであろう。
他人に打ち勝つのではない。
驕ってはならない。
己に打ち勝てる者こそ、真の勇者といえるのである。
人の魂は、転生輪廻という天のはからいから、一歩も外に出ることは不可能なのだ。
何故なら人は天の子であり、天の意識が内在されているからである。
天は無限の進化を目指し、無限の大調和を目的としている。
人の転生は、その目的のもとに永遠に続くだろう。
大自然の輪廻循環と全く同じで、人間だけが別ではないということである。
人がもし、この法則に反し、自我に身をおけば、その人は、その分量だけ、償いの労を課せられるだろう。
身の周りに様々な諸問題が発生し、不幸への道のりを歩むことになる。
これが作用と反作用の法則である。
己の人生が不幸だと思うなら、これまでの言動を省みるがよい。
人間は大自然の法に逆らって生きることはできない。
物質もまた、輪廻を繰り返している。
集中と分散という過程を通して、そのエネルギーは永遠の活動を続けるだろう。
それも、すべて外部からの縁の働きによるものだ。
原因と結果という法則を曲げることはできないだろう。
物質が変化していくという結果は外部からの縁という働きによって、はじめて為せることになるのだ。
その目的は、生命の転生輪廻を助け、あるいは媒体としての役割を果たしている。
つまり物質は生命維持のために欠かせない存在(媒体)だということだ。
生命も物質も、このように、転生輪廻という、天の法(大宇宙の意識)の下に、天の目的を果たすために生かされ、存在しているということである。
人は目覚めているときは、肉体を自分だと思っているだろうが、眠っているときは、肉体が自分自身だと思っていない。
他からの力を受けない限り、そのときは無自覚だといえるだろう。
肉体から魂が、降りて(離脱)いるからである。
親も、兄弟も、妻も、子供も、友人も、職場も、何もかもわからない。
五官の機能が、何も外界から受けないからだ。
しかし、鼻の穴も、耳の穴も、ちゃんと開いている。
ただ意思を動かすことができないのである。
目が覚めて、肉体の自分を自覚し、夫や妻のあることを知り、子供のあることを知る。
ということは、自分にとっては、この世の一切のモノは、自分の意識があって初めて確認できる存在であるということだ。
自分という意識がなければ、この大宇宙も地上世界も、自分の肉体も認知することはできないだろう。
この意識こそ、天(神)に通じた、本当の己の心ということだ。
不変の魂ともいえよう。

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