肉体細胞の意識

健康

腹式呼吸法の勧め

私が主催する『心と体の健康教室』では物心両面、つまり、肉体の健康と心の健康をメインテーマとして、参加者の体験談を交えながら、様々な角度から学習しております。

きょうは肉体的な健康のために必要な心の在り方について述べてみたい。

胃腸その他の内臓は

『私は胃が弱くて少し食べ過ぎたり、食べる物によってはむかつくし、朝、目が覚めるといつも胃が痛い』といっている人がいた。

本人はいろいろと試みていたようだが、これといった成果は得られず為す術がないというから、この人に腹式呼吸を毎日、寝る前に五分間だけしなさいと勧めたら、以来、胃が痛いと言わなくなった。

腹式呼吸の最大の良さは、吸う息によって交感神経を、吐く息によって副交感神経をというように交互に働かせ、それが心身のバランスを調えることになるという点である。

つまり、医学的にいえば、呼吸と自律神経は直結しているということだ。

特に、吸う息よりも、吐く息に意識を傾けることがポイントで、これが副交感神経、つまり、体を弛緩させる効果で、いわゆるリラックス効果である。

例えば、息を10数える間に吐く場合は5で吸うようにする。心肺機能は個人差があるから、自分のリズムで始めることが大事です。

3で息を吸う人は6で息を吐くようにすること。慣れてくると10で息を吸い込み、20で息を吐くようにもなる。この状態になると、呼吸をしているのがほとんどわからない状態にまで進歩している。

腹式呼吸のポイントは、胸を膨らませたり、肩を上げたりしないで、吐く息でお腹をへこませて、吸う息でお腹を膨らませること。

そして、意識は臍下丹田(へその下)におくことです。この呼吸法は肺や心臓をはじめ、各内臓の機能アップと注目すべきは自律神経のアンバランスを調える効果が絶大であるということです。

なぜ臍下丹田(へその下)に意識を置くのかといえば、上気した体のエネルギーを下に下げる目的と効果があるからだ。

私たちの日常生活は頭で生きる傾向にあるために、どうしてもエネルギーが上気しやすい。

禅の世界でも呼吸は重要視されているように、それを実践している僧侶は健康者が多い。

胃のなかに酸が多いと、胃酸過多になって血液まで酸性化されるのだが、そのため肉体的なアンバランスが造り出されて、諸病の原因を造り出すことにもなる。

逆に、無酸性になっても、同じことがいえるのだが、やはり調和されたものが大事であり、食物も、偏ったものは肉体的アンバランスを造り出すものだ。

その証拠に、好き嫌いの多い人々には、病弱の人々が多い。

それは、食べ物に対する感謝の心が足りないことでもあるが、食べ物を口にできることがどれだけ有り難いことであるかということを学ぶ必要があるだろう。

なぜなら、米も、麦も、魚類、牛肉、豚肉、鳥肉、野菜類、果物も、すべて生命を持っていることを理解して心に落としていないからだ。

彼らは、私達の肉体を維持するために、自らの生命を提供し、万物の霊長に身を呈しているということを、私達は忘れてはならないだろう。

その生命を投げ出して提供している者に対しては、感謝する心はもちろん、いる行為が必要だということだ。

この場合、報恩とは、それを無駄にしないということであろう。

またそれを、生活の苦しい人々に対して、差し上げることも大切なことだ。

なぜなら、私達は、血や肉や骨になってくれる動植物を無駄にしてはならないからだ。

食事のときに、合掌して食べることだけが感謝ではないし、心による感謝と、行いによる報恩が大事だということである。

また食物に対して、美食や食べすぎ、不摂生を慎まなくてはならない。

胃腸を始めとして、各諸器官にとっては、朝昼夕と、極力、定まった時間の食事が大事だということ。

寝るときになって、胃のなかに食物を送り込むことは、酷使によって胃も疲労してしまい、肉体的なアンバランスを造り出してしまうということになる。

また、何かにつけて外へ出かけ楽しむことは悪いことではないが、しかし、その都度外食をして美味しかったと喜んでは、徐々に体がふくよかになっていく。

病気をして健康の有難味を悟ったはずの人でも時と共に病んだことを忘れ、外食に舌づつみをうっているものである。

こういうと、ニヤリとして思い当たる人もいるであろうから気をつけるが良い。

心と体の健康を願う者はシンプルな食事と生活という原点を決して忘れてはならない。

人間は小宇宙という言葉をごぞんじだろうか。

太陽を中心として各惑星が相互に関連して働き太陽系を構成するように、私たちの肉体にも意識はあり、各臓器にもそれぞれに意識がある。

胃腸は胃腸としての意識を持っており、体の主(あるじ)である心の判断で勝手に食べ物を送れば、胃腸は機能することに限界が生じ、休んでしまうことがあるだろう。

やはり彼(胃腸)を大事にしてやることも、健康を保つために最も必要なことである。

また肉体の船長である魂・意識の中心の心が病んだり、知が先走ったり、肉体がついて行けない場合にも、心と肉体のバランスを崩してしまうということを私達は知っておく必要がある。

肉体も心も、不二一体である。ということは心と身体が調和されてこそ人間であるということだ。

胃腸のコンディションも、調和された心と肉体のバランスによって安定されている。

私達が呼吸している大気中の酸素の量も、21%が必要で、少なくては体の保存ができないし多すぎても良くない。

公害によって、酸素が欠乏して、肉体的な不調和を造り出している人々も多いだろう。

樹木、草、野菜などが光合成、炭酸同化作用によって外に出している酸素が欠乏しているのである。

人類は、観光地開発、宅地造成などによって、草木を除き、自然破壊を造り出し、工場や自動車の排気ガス、飛行機の排気ガス、亜硫酸ガスというように、文明が造り出した廃棄物が原因になり、調和ある大自然を破壊している。

その事実に、私達は目をそむけてはならないし、公害防止のための自分にできる行動を起こさねばならない。

小さなことではあるが、車からのタバコの吸い殻や空き缶のポイ捨ては良心に任せるところである。

近年は改善されたとはいっても、かつての日本でも文明によって造り出した廃液などが影響し、野菜、魚類まで正常ではなくなっている時期があった。

文明の利器である原発も福島の爆発によってゴーストタウン化している街や村の惨状は住人が戻ることを許さない。

人々の肉体の維持も危い現実になっているのだ。

宇宙は、すべてに調和された相互関係を与えているが、万物の霊長である人間が、それを破壊しているのである。

私達は、自らの心に眼を向けて、大自然を守らなくてはならないであろう。

嗅覚については、どうだろうか。
もし、嗅覚など必要がないとしたならば、ガス会社で事故を起こしても、私達はガスの洩れていることが解らないだろうし、ガス中毒死をしてしまう。

逆に、嗅覚が発達しすぎていたならば、どうだろうか。悪臭ばかり鼻について、これも大変であろう。生きていられないことになるかも知れない。

やはり、中道である中ほどの嗅覚によってこそ、安定した健康を保てるといえる。

仏教では、仏前に香をたく。

これは、釈迦牟尼仏の時代、またそれ以前からの習慣の名残(なごり)であるが、現代のような風呂に入る習慣がなく、人々の体臭もきつく、互いに迷惑をこうむっていたからのようだ。

特に修行者は、森や林のなかで生活をしているため、毒虫などに襲われることが多かったことから、それから身を守るため、薬草や、木の実の汁などを身体に塗っていたから、よけいに臭かったのだろう。

その体臭を避けるために、香をたいて、匂いを柔らげることが、他人に対する礼儀であり挨拶であったようだ。

水浴をしても、温浴をするということはなかっただろうから、こうした習慣が、香をたくという形式になってしまったようだ。

このように嗅覚も、中道調和されたものでなくてはならないということだ。

では視覚はどうだろうか。

私達の視覚の範囲は、虹の七色の世界だけしか見ることができない。見えない世界のほうが、はるかに多いのだ。

空中に飛び交っている電波、赤外線、紫外線など、全く見えないが、しかし、それらは存在している。

こんなふうに、肉体的、物質的世界ですら限界があり、私達は満足に見ることができないし、手さぐりの状態のなかで生きているのである。

まして、次元の異なった意識の世界などは、ほとんどの人間が見ることはできない。

あるような、ないような世界を、身に感じることはむずかしいものだ。

また私達の視覚が、赤外線や紫外線、X線などをとおして見る能力があるとしたならば、

美しく調和された自然界の色彩、景色も、全く異なった世界になってしまうことだろう。

人間の姿を、もしX線の目で見たら、皆、骸骨にしか見えないのですから、それこそ大変なことになってしまう。

やはり、極端な赤外線や紫外線をとおして見るのではなく、虹の美しい色彩の世界だけで人間はよいのである。

こうしてみてみると、神は完全なるかたちで人間を造ってくれたと畏怖するしかない。

私達には調和された、もっとも良い周波数の世界だけ見えるようになっているのだ。

これも、神意というべきであろう。

だが、私達の眼は絶対的なものではない。

大自然の、調和された色彩だけでも見ることができるということは、幸福なことである。

これも、考えようによれば、人間に与えられている特権かも知れない。

美しく花咲くのどかな春、樹林の緑濃い日射しの強い真夏の海、山、黄金色に実った稲穂が海原のように波打つ秋の田園、また紅葉の美しさ、白銀の林や森の冬景色、色とりどりの四季の美しさ、大自然の移り変わる風景は、心のなかまで豊かにさせる。

それらを、自然のままに見ることのできる眼、それはやはり調和であり、中道であるといえるのだが、それ以外に、「正しい」とする、偏りのない中道の生活を楽しみ、執着から離れ、自らにきびしく、他人に寛容な心を持って生活をしている人々は、光明に満ちて、慈愛の光に包まれるため、心が開かれて行く。

そして、心の眼が開かれると、さらに大自然の美しい光景を見ることができるのである。

さらに、次元を超えた世界の風景を始め、あの世で生活をしている人々の生活もわかるようになるのである。

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