心の安らぎ
結婚して20年になるという45歳の女性。ご主人が殆んど口をきいてくれないといって相談にみえた。
『主人の仕事は営業職であるため、仕事では結構こまめに会話をするというが、家に帰ると必要最小限度のことしか口にぜず、何を考えているのか、何が不満なのかもわかりません。』
『こんな状態で結婚当初から生活してきましたが、これから先もこのような暮らしをするのかと思うと胸が苦しくなります。』
この女性は知性に優れた方であったが、家庭の幸せには恵まれていなかった。
私は、人に変わることを望むのではなく、自分のこれまでの生き方、すなわち価値観を見直すことを前提に会話のやり取りをした。
彼女はようやく自分の価値観に偏りがあったことに気づいてくれ、泣き続けた。2時間がすぎていた。
来た時の暗い顔の表情が消え、笑顔がこぼれて素敵な女性になって帰っていった。
後日、この女性から『おかげさまで主人と会話ができました。』と連絡が入った。
生きることの苦しみ、老いていく事への不安、病をすることへの苦悩、死ぬことへの恐怖心、私たちは生涯を通して悩みが尽きることはない。
しかし、人生における苦悩というものは、同じ環境のなかではあっても、100のものを50に、50のものを25に減らすことが可能なものである。
気づいたときには、苦悩も、幸せと思えることも、悲しみも、喜びも、全ては自分の心の内から発するものであることがわかる。
あえて幸せ探しをしなくても、不必要な苦悩を減らす術(すべ)を学ぶことによって心の内にある幸せに気づくことができるのです。
おわかりだろうか?幸不幸はすべて自分の足元、すなわち心の内にあるのであって、他にあるのではないということが。
人生を安らかなものにしていくためには、一つの基準が欠かせないことをこれから述べておきたい。
さて、正しい法則とは、大自然の理のことであり、万古不滅の理、すなわち宇宙の法則をいうのであって、天の法則(リンク)と表現したい。
ものには、すべて、循環という法則があり、その法則自体が、万物万生の存在を教え、大自然において、それぞれが生存できる環境を造っている。
それは、大いなる天の慈悲であり、愛といえるだろう。
地球は、太陽の周囲を回っている。
少し科学的な説明になるが、電子顕微鏡でみるような極微の原子も、核を中心として核外電子が、丁度太陽の惑星と同じように回っている。
一日が終われば、やがて明日がやってくる。
人は、生まれて、やがて死ぬ。
そしてまた時を経て生まれくる。
大自然を美しく飾る草木も花も、今が真っ盛りの桜もいつまでも芽生え、咲き続けることはできないものだ。
また、私達の心の在り方と生活の在り方にも、この自然の法則と同じような現象が現われ
てくる。
善の行為は、善の結果として循環し、悪の行為は、悪の結果となって現われてくるのである。
このような法則を、循環の法則という。
人間の日常生活も、こうした法にのっとった営みが大事だということだ。
正しい行為は、正しい結果として、その人の人生、健康、環境を整えてくれるものなのである。
それは、大自然の運行が、如実に示してくれていることであり、狂いのない天体の運行があればこそ、私達人間は、この地上での生活ができる。
慈悲と愛についても同じことがいえる。
法則が正しく運用されているから、太陽の熱は冷えないし、地球は定められた軌道をはずすことなく動いていることができるのだ。
地上での生活も、太陽の変わりない熱と光のエネルギーがあればこそ、可能となる。
慈悲とか愛というと、人はいかにも人間的な行為、人間的感情を連想するが、実は太陽も地球も、人間と同様に、心を中心として動いているのであり、慈愛とは、その意味でもいえることなのである。
大自然は、ものを語らない。
人間は、ものを語る。
語る、語らないということは、言葉を発することだけが語るのではなく、営みそのままが語っていると見なくてはならない。
そして、人間には喜怒哀楽があるが、大自然は私達にわかるようなかたちでは感情を示さないが、しかし、自然もまた、まさしく生きているのである。
四季の移り変わり、風雨、寒暖、台風……すべて生きていることの表現である。
現象世界にあるものは、すべて生命を持っており、生命があるということは、意識を持っているということである。
花も動物も同じことである。
私達が愛情をもって接すれば、花も動物もその人の意思に沿ってくる。
それは、意思が互いに通じ合うからだ。
花には花の精がある。私達の心が浄化されると、その花の精とも交流が可能となる。これは事実である。
否定する人達は、自分で体験をしないからわからないのであって、それは否定する根拠にはならないだろう。
地球という大地も同じことがいえよう。
大地は、人間をはじめとして、地上や地下に生命を生かし続け、支えている。
それは、全く辛抱強く、あらゆる生命を生かし続けている。
大地に表情がないかというと、それもちゃんとあるのだ。
私達が旅行などで、知らぬ土地、景色を見て歩くとき、その土地、土地に、霊囲気があることに気が付かないだろうか。
大地は受動的であり、私達人間は能動的に造られている。
従って、人間の感情想念、いわばそこに住む人達の意識の調和度、心の持ち方によって、
その土地の空気はつくられているといって良い。
争いの多い土地は荒れ地となり、作物も育だないところが多く、そして、村や町も荒んでいる。
反対に調和に満たされた場所は、綺麗で明るく、ゆったりとしている。
人気のない大地は、それでは、どうであろうか。
やはり表情を持っているはずだ。
私が相談を受けて、とある新興住宅地に出向いたことがあった。訪問した玄関先で感じ取ったのは、見えない人たちが行き来する光景だった。
その霊波動を辿って団地の奥まで入って行って気づいたのが縄文時代の土器、その他の出土品を保管する施設があったことだ。
人気のない団地の奥は、山林で行き止まりなのに生活観が伝わってきたことに納得がいった。
気候や風の流れによって、さらりとしたところもあるかと思えば、現在は人気はないが、その昔、人類が居を構えていたところは無数にあり、そのようなところは、かつての住民達の心の波動を残し、明暗、美醜の空気をかもし出しているものである。
このように、大地といえども、生命を持ち、感情を抱いているのだ。
火山、地震、地すべり、陥没など、大地そのものは、ときとしては怒り、狂うこともある。
人間の勝手な行動、邪悪な欲望想念が造り出した霊圧も物理的現象の原因となることを知っておくべきであろう。
私達は、大地という生活環境に在って、太陽という熟、光の変わりないエネルギーを受け、生かされているのであるが、この地上での目的さえも、人間は、肉体に乗ってしまうと忘れがちになるのである。
そのことを考えるならば、私達は、そこに大自然の意識であるところの、天の偉大な慈悲と愛ということを、感じないわけにはゆかない。
私達は、大自然の生命に調和し、天の心を心とした、慈悲と愛に生きる意義が、これまでの説明によって、ご理解をいただけたと思う。
人間の価値判断というものが、何を基準に、何を標準に定められるべきかを説明したい。
まず、価値の概念について考えると、ものに値打ちがあるのは効用があるからであり、お金の値打ちは、お金があれば何でも自分の欲しいものが買えるからだ。
無人島でお金に関係なく自然な一人暮らしをするなら、何億の財宝があっても何の価値も意味もないだろう。
このように、価値というものは、効用があると同時に、相対的なものだ。
人間の値打ちというものも、この意味では相対的である。
悪い人がいるから、悪くない人が良く見えるのだが、善人だけであれば、善人がわからない。
近頃では、人間的にはどうであれ、金や地位、名声あるいは才能がある人には、善人、偉人というレッテルを貼りたがる。
「……何だかんだといっても、あの人は大した者だ……」ということをよく耳にするだろう。それは何に対する評価であるか、冷静に考えてみる必要がある。
人間の評価を単純に受けとり、それは間違いだと薄々感じながらも大勢に流されてしまう。
そしてまた、人間の成功、不成功を、単に、運、不運だけで片づけるといった傾向もある。
地上における価値の性質は、このように比較という相対的であるが、同時にそのときの、時代的背景によっても価値観はクルクルと変わる。
例えば、仇討ちは、武士の時代の昔は美談であったが、今では、殺人罪に問われる。
親のためには、娘は売春を強いられても仕方がなかった。
しかし現代では、子供に主権があるし、売春そのものも禁止されているから、無法の行為以外にはそんなことはできない。
このように、価値観や常識というものは、時代背景、社会構造によって違ってくるのだ。
私達はしかし、状況によって、つまり時代背景や、思想あるいは社会構造によって人間の道という価値観を変えてはならないだろう。
つまり正しい法則は、いつ、どこでも、誰にとっても不変であり、誰も変えることはできないということである。
この正しい法を心の糧として、毎日の生活に生かしたならば、私達は常に、迷うというようなことはなく、正しい法則の道を歩んでいれば、苦しみから解放され、天の子としての大いなる境地に到達することができるのである。
このときに、私達の心は、大宇宙の心と調和されて、本来の安らぎの境地に到達でき、慈愛の光に包まれて、自由になるのである。
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