宗教我・カルトからの解放

小岩井一本桜
きょうは、前回に続きヌミノーゼ心理の現実についてお話しいたしますが、ブログ上で公開できないような教団の不実や教祖のスキャンダル事実もあります。
しかし、表に出ないことが多いのは被害者が公に晒(さら)されることを避けることに原因があり、結局は泣き寝入りとなっているのである。
ヌミノーゼ心理の解決
狂信盲信している者はその人(教祖等)だけを見て、その人がどういうことを説いているかを問題にしない。
実際は説いていることが間違っていて、疑問を持ちながらもその人を信じようとするのだが、ここに信者のヌミノーゼ心理というものが働いている。
その人がどんなに非常識で、社会の良識、良俗に違反した行為をしても、それは我々凡人には理解し難い神聖な行為であると見るか、またはそんなことは布教のための手段、宣伝で実際ではないと美化して考えようとする。
神格化された教祖の非を認めることは、自分の信仰が間違いであったということになるし、それまでそれを絶対に正しいと信じてきただけにその間違いを認めたくないから心はいつも不安であり、空虚になってくる。
その心の空しさをごまかすために、人に対して押しつけがましい高圧的な態度を取るか、または相手が強いと見ると同情を求めるような泣き落し戦術に出て、相手の立場をよく理解して、しみじみと話し合うというようなことは絶対にしなくなる。
仮に、そうしたいと思っても実際はできないのである。そうして奈落の深みにはまっていくことになる。
神だと思われたい教祖と、神だと信じ込もうとする信者の間には、決して正しい心理状態は生まれることはない。
ますます心の自由自在さを失って狂信盲信するようになる。
もともとスミノーゼ心理になっているときは、冷静さに欠け、知性の欠如した感情的にのみ物事を考える傾向に陥っているため、まともに話をすることは非常にむずかしい。
ヌミノーゼ心理になるのは女性が多いし、男性では男らしさのない、煮え切らない、優柔不断の、女性的タイプの男性がよくなる場合が多い。
このような人々を正常な心理状態に引き戻すためには、本人が堕ちるところまで堕ちて、その間違いに気づくまで放任するか、くりかえし正しい生き方を知らせる以外はない。
正しくない教祖によるスキャンダル、誤ったカルト宗教に関わっている信者たちは教団内の嫉妬、嫌がらせ、誹謗、中傷などの実態を知りながらもそこから去ろうとはしない。
そして心身もボロボロになり、家庭生活も荒(すさ)んでどん底まで堕ちて、ようやく教団内の不誠実な実態を身を持って知ることとなるのだ。
しかし、もともと知性も智慧もどこか見失っている人が多いのですから、当然時間のかかることである。
ヌミノーゼ心理による熱狂的なメシヤ信仰は、いずれ冷却期が来て反省しなければならず、やがて消滅してゆくものだ。
神格化された教祖達の取巻きや側近となる人物は、男らしい男はほとんどいない。
女性的要素の多い男性が多いから、その教団のあり方が歪んでくるのは当然である。
ヌミノーゼ心理とエゴイズム
宗教団体も、立教当初は純粋で清潔であるが、信者や会員がふえて組織が大きくなると、教義を広めることよりも組織を維持することに重点がおかれ、会議でも、教義を云々することはなく、いかにして組織を拡大するかが主として協議されるようになる。
およそいかなる組織であっても、その組織を混乱させる原因に「エゴイズム利己主義」があり、、宗教団体の組織の場合は、エゴイズムの上に「ヌミノーゼ心理(畏怖と魅惑という両義的な感情をともなった体験)」がプラスされますから、一般の組織の混乱分裂よりも、その様態は複雑である。
エゴイストは、他人のことはおかまいなしに自分自身のことしか考えないし、だから常に自分の存在を脅かされてはならないと、自分を守ろうとして身構える。
元来、人間は愛の主体であり、他との関係なしには自分の存在はありえない。
しかし、エゴイストは、他人を思いのままに支配しようとして権力を求めると同時に、常に他人が自分をどう評価するかを気にし、いつも誰からかほめられていないと気が落ち着かないようになる。
また、自分の実力とは無関係に、実力以上に人に見せかけようとする自己顕示縱が強く、故意に自分を立派に見せようとして自分に都合の悪いところは無視し、他から指摘されても一切それを認めようとはしない。
そして人の立場などは一切考えずに、自分に都合のよいように人を動かそうとする。
他の人に対しては、その人の欠点だけを探してそれをクローズアップし、長所は決して認めようとしない。
それだけでなく、自分白身を誇張し想像して、他の人がどんなにすばらしくてもその人を悪い人、欠点の多い人であるかのように勝手に想像する。
そしてその想像をつづけているうちに、本当にそうだと信じ込み、その人を心の中で軽蔑することによって誤った優越感を楽しむようになる。
慈悲・愛を口にしながら非常識な言動をし、人を中傷して陥れようとする人達は、ヌミノーゼ心理にプラスするエゴイズムの人達で、そういう人達の集まりでは、人の悪口をいい合い、人を中傷して楽しむということになり、お互いに長所を認めて褒め合い、愛し合うということは一切なくなる。
エゴイストは、他人の中傷を、事実を確かめることもせず、簡単に信じ込む。
その人がエゴイストであるかどうかは、その人が他人の中傷を喜んで聞くか、人の欠点のみを情報として集めていないかをみればわかる。
また、他人が自分をどう見ているかを常に気にしているから、人目を引くような服装をし、自分に追従する人のみを喜び、少しでも意見をいう者は遠ざけるようになり、人を人として思わない傲慢な態度をとるようになる。
真の自己の確立は、どこの集団に所属していなくても得られるものであるが、多くの人の場合、現実には、必ずなんらかの集団に所属していて、その中で安心感を得ようとしている。
この心理は、宗教団体においては、他の宗教団体を無視するか、低く見るか、敵対視するかという心理状態を生み出し、ヌミノーゼ心理とダブって「宗教我」を生み出す。
この宗教我が強くなると、他の宗教団体の信者や会員と親しく話し合うということは全くなくなり、相手を蔑視することによって、自分の宗教が立派であると考えるようになる。
人間は宗教に限らず、有力な集団に帰属していることは、それだけその人の社会的信用を高めることになる。
たとえば、トヨタとかソニーとかナショナルの社員であるというと、中小企業の社員であるというよりは立派であると見るのが、日本の社会の風潮というか現実でもあろう。
しかし、このような見方をするのは日本だけで、外国では必ずしもこのような見方はしない。
どちらを選ぶかというのでも、たとえば宗教の場合でも、どちらが信者や会員が多いか、どちらが神殿が大きいか、どちらが立教が早いか、ということで選んで、どのような教義内容であるかということはあまり問題にしない傾向があります。
エゴイストとヌミノーゼ心理は、自分が信仰している宗教団体の長所とか美点を不当に拡大し、ありもしないことまでデッチ上げて信じ込み、また信じ込ませようとして、他の宗教団体のことは、その欠点をないものまでつくり上げ、数え立てて悪くいう。
これらの考え方は全く正しい法則に反することであって釈尊が説かれた「正見」(正しく見る)に反するものである。
日本人は自立性に乏しいところがある。それは信仰のなかにも依存信仰や、他力信仰、ご利益信仰として色濃く反映されていることをみれば理解がいくのではないだろうか。
自分の心の内に神が存在できるということを悟ることであり、教祖が神なのではなく、神社仏閣に神が座すのではないということを知らなければならない。
先にも述べたが、ヌミノーゼ心理やエゴイズムに陥っている人は、自分が熱くなっているうちはどうにも手の施しようがなく、どん底に堕ちていかないと気づけないものである。
しかし、そうなる前に自らの思いや、言葉、行動を省みて改める勇気と決心しかない。

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