邪宗教から抜け出せない理由
私はこれまで宗教に入信して苦しんでいる人、金銭的負担を強いられている人、被害にあっている人たちのマインドコントロールを解き、正しい家庭生活を送るための智恵を授け、呪縛から解放するためのお手伝いをしてきた。
そういうなかで何度か聞いてきたことであるが、〇〇〇会信者である幹部が人の前では法を説き、いい先達であるが如くにふるまっているのに、家に帰ると躾という名目のもとに子供に暴力をふるっている、あるいは亭主関白で妻に威張り散らしているエゴイストがいる。
『うちの教祖様は生き神様だ』といっている信者がいるかとおもえば、『我は神なり。』と自ら神を宣言する教祖もいる。
巷の霊能者といわれている人間、教団の大小を問わず、教祖のなかには自らを神の化身であると言わせるように教化している者もいます。
1991年の時点で正会員数約30万名と公表して憚(はばか)らない教団、〇〇の〇学の教祖も、あの世の至高の神である自分の本体である〇〇・〇〇〇ーレがこの世の救済の為に自らが下生したと説いている。
しかし、この教祖、宗教を立ち上げた当初から今日までご本尊も変わり、教義も変わって定まらないどころか、裁判問題までおこしているが負けている。
近年は政治にまで関わりだして信者を擁立したものの誰も当選はしていない。政教分離どころか、政教一致の行為は何おかいわんやである。
ここまでくると、気違いに刃物という諺のいう非常に危険な人間であり、悪質なカルト宗教の実態を露呈している。
また、そのような能力などまったくないのにあの世の高次元から霊言だといって著書をたくさん出しているが読んでみると矛盾も多く、内容的にも一貫性がない。
しかし、それでも書店の棚では他の著書より多く積み込まれている宗教のコーナーである。
金銭的な被害者も実際に多く、どん底まで落ちてはじめてその実態に気づかされて脱会した人たちも全国のなかには多くいるのである。
救済の為に下生(あの世の天上界からこの世に生まれること)したと説いている人間が、自分の写真を高額な価格で信者に買わせるだろうか。
数十万、数百万のお金を寄進させるものだろうか、少し考えればわかることを信者らは解らないのである。
きょうは、この分からなくなっている信者の心理について述べてみたい。
邪教から抜け出せないヌミノーゼ心理
先ず最初に申し上げておきたいが、教祖を神格化している宗教は邪教であるということ。
教祖は、どれほど悟って魂のステージ(霊格)が高くても神でなくて人間であるということ。
神理を正しく知っている教祖は、周囲が神格化しようとするとそれを許さないし、周囲が神格化することを許し、自分が神様になって有頂天でいる教祖は、神理がわかっていないということだ。
教祖を神格化し、盲信狂信をして、正しい知性と理性、あるいは批判精神を失わしめるのがヌミノーゼ心理である。
だから、ヌミノーゼ心理を克服しないと、正しい宗教の信仰はできない。
かつて400年ほど前にヨーロッパで、神の名によるきわめて残酷な宗教戦争が行なわれたことがある。
カトリック教から分離したキリスト諸派であるプロテスタントとの間で起きたことであるが、政治的利害も絡み悲しい戦争となった背景があった。
さて、日本の新興宗教の信者で、これが信仰をしている人達のやることであろうかと思われるような、非常識きわまりない、非人情、非人間的な折伏(勧誘)や、他の宗教の信者との争いなどが行なわれたのも、ヌミノーゼ心理を持っていることが原因といえるだろう。
ヌミノーゼ心理はなぜ起るか。
人間は、なにか神秘的なものに憧れ、できればそういう力を自分も持ちたいと思うものである。ところが、そういう心は、自分を自分で信ずることができない自立性のない心の弱
い人に多いところも否定できない。
具体的には劣等感、罪悪感、無力感、無能力感などを持っている人の場合が多い。
また反面、無力感、無能力感、劣等感などの反動、裏返しとして、神秘的な力を身につけて、その力を人に誇示し、あるいは利用して権力を持ちたいと思っているような、極端に自己顕示欲の強い者ほどヌミノーゼ心理に陥りやすい。
だから、ヌミノーゼ心理に陥る者は、いわば一種の精神的アンバランスな人間であって、健全な心の持ち主とはいいがたいのである。
このようなヌミノーゼ心理に陥った精神アンバランスな者を、日本の宗教団体は、信仰が純粋であるといっているが、とんでもない間違いを犯している。
『病気が治らないのは信心が足りないからだ』、『生活が豊かにならないのは拝まないからだ』、『疑問や不信をもってはならない』と正しい判断力や疑問をなくさせて、盲目的に狂信させる宗教は邪教であり、正しい批判精神をなくして盲信狂信させるのがヌミノーゼ心理である。
ヌミノーゼ心理に陥った者の集団では、神秘力を身につけて自己顕示したいと思っている権力志向型の者が神秘力に憧れていて、無力、無能力感を脱し切れず、力強く自分を指導してくれる者が現われることを待っている気の弱い者を、思いのままに支配するという現象が起ってくる。
かつての〇ー〇真理教もそれの最たるものである。
ヌミノーゼ心理とエゴイズム(利己主義)
強力に教祖を神格化し、教祖の力を背景にして自分の権力欲、支配欲を満足させようと思っている者は、しきりに教祖の機嫌をとって、そうでない者、そこまでしきれない者達を支配してゆくという支配体制が、組織の中に現われてくるものである。
そうして、本当は教祖自身の間違いであっても信者達は、「教祖がそんなことをいわれるはずがない。側近が悪いのである」という形の批判が出てくるようになるのだ。
ヌミノーゼ心理は、次のようなものに心をひきつけられる心理状態から、その人の心の隙に起ってくる。
深い崇高なもの。尊厳で偉大なもの。人に祝福を与え、それを犯す者には罰が当ると考えられているもの。人を畏怖戦慄させるもの。なぜかわからないがゾッとするようなもの。うす気味の悪いもの。人を恐れさせ遠ざけながら、なんらかの点でひきつけるもの。ありふれていないもの。見なれていないもの。日常のレベルを超えたもの。
このような力を持っている者があると、その人物にあやかりたいと思い、また、その人物を異常に神秘化し、神格化し、絶対化して、その人物と自分とを一体として見ようとする自己同一化が起る。それがヌミノーゼ心理である。
ヌミノーゼ心理が起ると、各人はそれぞれに、教祖が本来はそのような力は持っていないのにもかかわらず、こういう力も持っていられるはずだと勝手に想像し、その想像を現実のものと錯覚し、その錯覚から起る異常神秘力を持っているものという想像は、ますます膨れあがり、そのため、盲信狂信がさらに進むことになる。
そしてその人物を神聖視し、神秘化し、これに反対する者、従わない者を、神に対する反逆者すなわち悪魔だ、異端者だ、敵だとみて、神の前にはそのような敵の存在は一切許されないとして、批判者を排除、抹殺しようとする。
このような現象は組織のなかでは起こりやすものであるが、以上のような心理が起るから宗教戦争、また宗教団体間の闘争は、残酷なものになるのである。
神と信じている教祖への自己同一化が、女の人の場合には、貞操を捧げることになんの抵抗も感じさせなくさせる。
それどころか、むしろそれを喜びとするようにさえなるのであるが、教祖の中には、それを利用して、神を喜ばせると罪が消えるという口実で、女性を犯す者が出てきたりする。
一人の人間として愛をもって人を愛するのではなく、神という美名のもとに悪用した行為は論外であろう。
こういう場合は教祖に貞操を捧げた女に全く罪悪感は起らないのであるが、教祖達が女性スキャンダル問題を起すのはこのような心理状態からである。
女性が教祖として神格化されると、男性が奉仕することになる。だから女性の教祖の周囲に集まる男性に、男らしい男がいることはない。
自分が信じている信仰を一番正しいと信ずるあまりに、自分の信仰以外の信仰をしている人が敵にみえたり、不幸にみえたりするのは、その人がヌミノーゼ心理に陥っているからとみてよいだろう。
ヌミノーゼ心理に陥っている宗教家は、他の人や他の教団の話は絶対に聞いてはならぬといい、違反するとその行為は神にそむくものであるとして、「罰が当る」という。
このように考えてゆくと、現在の日本の宗教団体の指導者、幹部、信者でヌミノーゼ心理に陥っていない人は殆どいない、といってもよいかもしれない。
自分を神であると思っている教祖は、自分のいうことがすべて神の言葉だと考えているから、外の人の話は聞いてはならぬといい、昨日いったことと今日いったことが違っていても、それもわからなくなってしまっている。
ヌミノーゼ心理は偏向・倒錯心理
神格化された人物への信仰(メシヤ信仰)は時間とともに狂信盲信化される傾向にある。
神格化された人物が語ること、また、そこから出た情報は、すべて正しいこととして無批判に信じられ、信じない者は神の敵であり、「罰が当る」と勝手に思い込むから、いったん信じ込むと、なかなか離れられないことになる。
離れることへの先に不安を感じ、見えないことへ恐怖するのである。
神格化された人物を少しでも傷つけるか、また否定すると思われる情報、また、狂信盲信している人達を自覚させ、批判力を与えると思われるような情報は、頭から「悪魔の声」だとして拒否するか、無視しようとする。
だからして、ヌミノーゼ心理者の集団の中では「悪魔だ」といわれた人の方が正常だということがいえるのだ。
そうして誰が考えても正しい意見をいってる人達が、その教団をやめてゆくという現象が起ってくる。
ヌミノーゼ心理者の集団では、正しいこと、真実であることが拒否され排除され、自分達に都合のよい情報だけを集め、そういう情報を提供する人間のみを重要視し、信用するということになる。
この心理状態が強くなると、正しい健全な情報は通らなくなり、正しい意見をいう者は発言を封じられ、遠ざけられ、寄りつけなくさせられる。
そしてますます閉鎖的になり、公開の場で第三者を交えて話をするというようなオープンな態度は絶対にとられなくなる。
教祖を神格化し、その神に仕える聖なる使徒、と自らを考える弟子達は、自分達に反対意見を述べる者を神に対する反逆者だとみなし、神に反逆する者はその存在を許さず、滅ぼすのが正しいと考えるから、その排除の仕方は、計画的で執拗で陰険だ。
ヌミノーゼ心理を持っている者も良心はあるのであるから、内心間違っていたと気づいたとしても、その間違いを認めて修正するほどの勇気も持たないから、依然として自分を正しいと思わせようとして虚勢を張るし、自分の非を突かれないように身構えて人を疑う心が強くなり攻撃的になる。
内心、すでに自分の非を認めていても、それを公表して修正する勇気を持たない者は、常に周囲から「あなたのやっていることは正しいのです」といってもらわないと不安になる。
それでいつも取巻きや、親衛隊を連れて歩くということになる。一人で歩くことはこわいのだ。
また、ヌミノーゼ心理は偏向した倒錯心理であるのに、そのことに気づかず、自分を神の味方だと信じているから、自分達に同調しない者を敵だといい、「悪魔」だという。
そのようにして自ら敵対関係をつくり出していながら相手が自分を攻撃すると考えてしまう。
その宗教団体にヌミノーゼ心理になった信者がふえてくると、そのヌミノーゼ心理になった者達が自分達に都合の悪い者を排除しようとして混乱が起り、やがて分裂することになる。
こういう時に神格化された教祖は、必ずヌミノーゼ心理の集団を正統派とするから、そういう教団では内部に混乱が起るたびに正しい意見を持つ信者は排除されて脱会してゆくことになる。
教団組織、宗教団体が永くなるとどの教団でも腐敗堕落してゆくのはそういうわけである。
「メシヤ信仰」はヌミノーゼ心理がつくり出したものだ。
メシヤ信仰はいつの場合でも混乱と争いを生み出し、起ってば消えしてきた。そのことは西洋の「メシヤ信仰」の歴史が教えている。
ヌミノーゼ心理者は、いかに自分を正当化しても、絶対に調和ある世界をつくり出すことはできない。
自分は神の側に所属する聖なる使徒であって、相手はまだ神の恩恵にあたらないかわいそうな者であると見るから、相手に一方的に話すだけで相手の話を静かに聞こうという心の余裕など全くないのである。
宗教の有るべき姿としては、メシヤ(教祖)信仰ではなく、下記三項目の行いでなければならない。
(1)自らの心を調和するために学ぶ教義であること。
(2)人の道の実践であり、推進することを第一義としなければならないということ。
(3)唯一の存在である神への感謝を忘れたら宗教ではなくなること。
以上、信仰を持つ人々へ向けては警鐘として述べさせていただいた。
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