自己を愛することが信仰の原点
バランスのとれた正しい生き方は自己を愛することから始まる
宗教をやっていて信仰を持っている人がよくいう言葉に「人の為に、世の為に」ということを聞くことがよくあります。
また、特に信仰をもっていない人でもこのようなことを言う人もいます。
「信仰は自己を愛することから始まる」
こういうと、特に信仰をもっている人からは、それは間違っている、慈悲とは他者を愛することだと反論されるかもしれません。
これまでの宗教は、随分と他者を優先して愛と慈悲を説いてきました。
もちろん、他者を愛するということも大事なことです。
だが、他者を愛することが大事だからといって、自分自身は粗末にしてもよいのか、他者は人から愛されて幸せになったとしても、自分自身が苦しみ不幸であれば、本当の幸せはどこにもありません。
このことは自分と他人の関係においてもそうだが、自分と家族の関係においてもいえることです。
これまでの宗教家の大きな過ちといえることの一つに、「他を愛するとか、慈悲を施すことばかりを強調して、自分自身を大事に愛することを教えなかった」ことにあるでしょう。
その理由、背景には、本当の愛や慈悲を説こうとすれば布施や寄付の奨めをできなくなるという都合もある。
宗教で暴利を貪るような教団ほど、あるいは霊能者ほど、真実の愛や慈悲は説けない構造になっているのです。
教えのままに自分のことをさておいて、他人の為に慈悲だとか、愛だとか、喜捨だとか寄付だとかやって無理をしている人たちは、人に施しなさいといわれて人のために布施し、教団に寄付しても、自分自身では幸せにならなかったという人がたくさんいる。
そして家庭内がいつもトラブルが絶えない、家族のなかで争いがある生活をしている人たちをみてきました。
救霊と称して何かあるとすぐに先祖や本人を浄霊するというシステムはお金が際限なくかかるように仕組まれている某教団の実態をみてきたが、まったく禍こそあれ、救霊などできていない。
人生の幸不幸は霊能力にあるのではなく、人間力にあるということを悟らなくてはならないでしょう。
ことわっておかなければいけないが、ここで「自己を愛する」というのは、利己的、自己中心的な愛ではなく、自分も他も同時に幸せになるという「真実の愛」「絶対的な愛」のことをいいます。
このことについて経典からひとつの事例を紹介してみましょう。
マツリカー。上の花の写真はジャスミンの一種で、日本では茉莉花と書く。
夏の夕べ、真つ白に咲く芳香の高い花です。
釈尊が祇園精舎におられた時の話である。
場所はインド、コーサラ国の王であるパセナディは、マツリカーという妃とともに、城の高楼にのぼっていた。
王はふと王妃をかえりみていわれた。
王、「マツリカーよ、あなたは自分自身よりももっとも愛しいというものが他にあるか?」
妃、「王さま、わたしは自分自身をいちばん愛します。自分自身よりも愛しいものなど、とても考えることができません。王さまには、ご自分よりももっと愛しいものがおありでございましようか」
マツリカーは大商人の娘であったのを自分が認めて妃にしたので、マツリカーはきっと「王さま、わたしは何よりも王さまをいちばん愛します」といってくれるであろうと期待していた。
ところが、期待に反して、マツリカーは自分自身ほど愛しいものはないといったのですから、王は肩すかしを喰ったようでいささか面白くなかった。
常識的に社会通念として考えた場合、自分がいちばん愛しいということは利己主義だと解釈することの多いでしょう。
だが、そうなのであろうか。
王もよくよく考えてみると、どうも妻のマツリカーが答えたことが正しいような気がしてきた。
しかし自信がない。
幸いに近くの祇園精舎に釈尊がおられたので、二人で行って聞いてみた。
釈尊、「人の思いはどこにでも飛んで行くだが、その心がどこに飛んでいこうと自己より愛しいものを見つけることはできない。
それとおなじように、他の人々もまた自己をこよなく愛するものである。
されば、自己の愛しいことを正しく知るものは、他の人々を害してはならぬ」と答えられた。
愛とは相手に対する深い理解
自分自身を大事にできるのは自分自身しかない。
自分自身を正しく大事に愛することができる人こそが幸福になるのであり、自分を粗末にして愛さなかった人が不幸を味わうことになっていくのです。
自分を正しく大事にする人は、人をも大事にすることができるものです。
ここでいう正しくというのは、自己中心的なエゴの自己愛ではなく、偏りのない、拘りのない、執着のない、バランスのとれた心で自分を大切にできるという意味である。
自分自身を自分が愛すると同じように、他を愛し、他を大事にすることが本当の愛であろう。
利己主義は表面は自分を愛しているようであるが、実際は人から嫌われ軽蔑されて自分を不幸にするのであって、こういう利己主義の自己愛が強い人ほど他人を裁き、自分の不幸を他人のせいにする傾向が強いものです。
自分の生命を大事にしなければならないことがわかっている人は、決して他の人の生命を粗末にするようなことはしないし、してはならない。
私たちは、自分が自分自身を愛すると同じように人をも愛さなければならないと思います。
釈尊がいわれたのは、自分が自分を愛する愛と、自分が人を愛する愛とになんら差別があってはならないということを説かれたのです。
自分を正しく愛することができる人がまた、他の人をも正しく愛することができるのであるということだったのでしょう。
さて、自分自身の心の中に苦しみや悩みをつくることは、自分で自分を愛することになるのであろうか。
自分が不幸になるような心を持つことは、真に自分を愛することになるのであろうか。
このことを考えたら、宗教団体が「神仏を愛せよ」という言葉のもとに、教団の都合によって信者の心に苦しみを与えていることは真の愛であろうか。
むりして寄付せよということが愛になるのであろうか。
毎月これだけ本を買えということが愛なのであろうか。
やめて行く信者の背後から、「恩知らず」とか「罰が当たる」という言葉を浴びせることは愛なのであろうか。
これは実際に有ったことをここに書き記しているのであって、根拠のないことをのべているのではありません。
ともかく、信仰をもっていた方がこれまでなんらかの苦しみと悩みを心に感じたとしたら、その信仰は間違ったところがあるということです。
自分自身を愛するならば、心に苦痛を感ずるような宗教は、自分自身を愛するが故に勇気を以てやめるべきであります。
そうして、真に心の安らぎを得られる道を求めることであると思う。
だから、真の信仰には、取るべきものを取り、捨てるべきものを捨てるという勇気が必要になるのです。
信仰をやめさせたケースは多々ありますが、それによって不幸になった人はおりませんし、逆に宗教に入信したことで人生が狂い始めた人たちはとても多い。
疑問を持ちながら、苦しみを感じながら、「恩」という言葉や人間関係等にとらわれて、信仰をしている人は、正しく自分を愛することを知らない人たちだといえるでしょう。
教祖や霊能者たちが、釈尊が説かれたような真の愛、慈悲がほんとうに心に落ちていたら、信者の心を苦しめるような教えを説き、運営をすることは絶対に出来ないはずです。
しかし、現在の宗教団体の信者の多くが内心、疑問を持ち、心に苦しみを持っているということは、その指導者たちが神理をわかっていないということと、宗教を商売の道具にしているということであろう。
だから私は「自分を愛することに勇気を持ちなさい」と申し上げたい。
自分を卑下したり、不必要な劣等感をもったり、他人同士を比較したり、自分と他人を比較して他を批判したり、逆に劣等感に陥ったりすることは自分を愛することと相反することなのであります。
心に疑問を持ちながら惰性に流されて信仰しても、疑問を持っている信仰が自分の心に安らかさを得ることは絶対にない。
罰が当たるといって後ろから脅す宗教が正しい宗教であるはずがない。
自己を知る
「罰が当たる」といわれたらその人は心をおののかせるであろうことを考えたら、愛の心があればそういうことは絶対にいえないことだとわかるはずです。
正しい宗教か否かを判断する基準は、教えと運営に矛盾がないことである。
正しい信仰をするためには、間違ったことは信じないという意志の明確さと、正しいと思うことはどしどし実践するという勇気を持たなければいけないでしょう。
教団のせいにばかりしていては自分の成長などあろうはずがありません。
自分を愛するということは先ずは、自分を知ることから始めなければならないでしょう。
それが「自己を知」るということです。
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