真実の言魂
暦のうえでは春とはいっても我が家の宅地にはまだ雪が一メートル以上はある。
雪が溶けて春一番に姿をみせてくれる福寿草の黄色く小さな花が楽しみだ。
福寿草は何年経っても福寿草として花を咲かせるが、ひまわりにはならない。
人間は何年経っても人間であり猿になることはない。猿が人間になることがないようにである。
人間は、この地上に人間として誕生されたのであり、ダーウィンの進化論のように類人猿から現代の人間に進化したとは考えていない。
このことを理解できるように説明するためには一冊の本になるくらいの記述となるだろうから、この場では割愛させていただく。
類人猿から人間になるなら、何故ゴリラや猿はそのままで人間にならないのか。
罪を犯せば犬になるとか、猫に生まれ変わるとかいう霊能者もいたが幼稚極まりない話しである。
ただ、知恵ある人間であるがゆえに、動物以上の欲によって苦しむのが人間であろう。
心がこの地上生活の様々な快楽を求め楽しめば、迷いと苦しみが生まれ、心が正道(偏りのない生活)を好めば、悟りと喜びが生まれてくる。
それには、八正道(八つの指針)の実践によって己自身の本性を悟ること、愛と慈しみによって人々に対する菩薩心の行為をすること、より心を浄化して安らぎと平和な社会を造り出すこと、それらを実行することである。
そのためには、執着を持たないことが必要だ。
肉体は人生という航路の乗り船にすぎず、いつかは捨てて去るべきものである。執着はすべて苦しみの因と悟らなければならない。
私達の意識、魂は、常に一定の場所にとどまることなく移り変わっており、すべてのものは、宇宙唯一なる意識の仕組みによる因と縁によって成り立っている。
そして循環の法則である転生輪廻の法に従っている。
心に生ずる悪の原因を摘みとり、現象化された悪の結果を良く反省し、その原因を除かなくてはならない。
善根を育て、正しい生き方を信じ、正しい想念と行為を実践し、常に反省の中から心を正道(調和された生活)に統一することによって、偉大な智慧の心は開かれて行く。
慈は、育てることであり、その慈の心をしっかりと修めることにより、むさぼりの心を断つことができる。
悲は、かなしみ助けることであり、相手の立場に立って中道(偏りのない生き方)の判断を忘れず、悲を修めることによって怒りの心を断つことができる。
喜は、他人の喜びを自分のことのように喜ぶことで、自己と他人にとらわれる心を断つことができる。
捨は、自分でなした行為の報いを求めず、また恩に着せず、恩と怨みのいずれの人に対しても差別をなくすことによって、とらわれの心を断つことができる。
その結果、人々に幸福と楽しみを与えることが慈悲であり、すべてに平等でへだたりをせず、人々に歓喜の心をもって向うこと、これが喜捨の精神である。
しかしこれを育てて煩悩に打ち克つことはむずかしい。同様に、正道を修めることは容易ではない。
正しい道を行くということは、人生の上での想念行為の一つ一つの積み重ねである。そしてその中に、不動の心は造られて行くということです。
心
私達がこの現象界に生まれてから経験した知識や、学校で学んだ知識というものは、より良い人生を送るための体験でなくてはならない。
しかし、たとえ人生経験の時間が、六十年になろうと八十、九十年になろうと、魂生命の永い転生輪廻の過程から見れば、一瞬の線香花火に似た、短かい経験にしかすぎないのが人生である。
人間は、永い転生輪廻をしている魂であり、その潜在意識の宝庫には、過去世において体験しておきた偉大な智慧が埋蔵されている。
この智慧も、人生航路における目的のための、私達の努力に、直感、インスピレーションや霊感となって現象化されるものである。
さらにこの偉大な智慧の宝庫を開く方法は、自分自身の心の鍵による以外に道がないのが人生である。
この鍵は、真理にもとづいた想念と行為であることは、幾度も説明している通りである。
この地上生活における現象界で学んだ知識は、ややもすると自己保存というエゴ(執着)のための道具になりやすく、またこれに溺れやすいのが人間でもある。
そうした結果、学歴やペーパー試験によって、人間の価値が判定されてしまい心が失われていても、試験が通れば社会的地位が与えられ、地位を得た者の中には権力の座について悪徳を貪る者もいる。
またそうした権力者と組んで利欲に関係する者など、自己保存をして他人のことなどかえりみない人間もいる。
しかしそういう人間も、権力の座をひとたび下りてしまうと、陸に上がった魚のように人生の無常を知ることになろう。
ちやほやしていた取り巻きも、いつか遠ざかる。腐敗した肉に集まる蛆(うじ)のような心を持っている人々も離ればなれになって行き、悪徳業者達は新しい相手を求めて散らばる。
人間のつき合いは、このようなものであってはならない。このような現象は、社会の指導者が外面的判断で人間の価値を決めてしまったために造られた心の歪みである。
現代の価値判断による学歴や知識がなくても、社会に出て一人前になり、ある者は職人となり、ある者はその道のスペシャリストと言われるような人間に成長している人たちも多いのだ。
心の尊厳を無視した知識偏重主義が、学力重視の採用構造が人類を物質文明の奴隷にしている事実を、認識しなくてはならない。
物質文明のために人類があるのではなく、人類のために物質文明は存在しているのであると声を大にして申し上げたい。
知性は、人類社会の調和と己の心の安らぎを目的として、自分自身の魂をより磨くためのものであり、自由と平等を求める自らの努力によって、一人一人が神仏の子たる自覚に到達するためのものでなくてはならない。
自由とは好き勝手なkとをしてよいというのではなく、秩序ある社会生活のなかで存分に行動し、マナーを心得た生き方の事だ。
人間には、教養という知識があるが、道を悟らない人にはそれが却って自分自身の抵抗を造り、苦しみの原因ともなっている。
なぜならそれは、心を中心とした知性ではなく、自己保存、自我我欲、すなわちエゴを満足するための触媒になっている場合が多いからである。
常に中道の立場で、自分の想念と行為を反省して、与えられた環境で積極的に実行、努力していたならば、地上生活の現象界で学んだ知性は、潜在意識の中に記憶されている偉大な智慧の宝庫と調和され、人生をより良く進歩させて行くことができる。
こうした生活をすることによって、私達の心の調和がとれる。
そのため、魂の兄弟達や守護、指導霊の協力があり、私達の魂はより浄化され、智慧の門戸は開かれて、自在の力を発揮することができるようになって行く。
学問的な価値は、このときにより正しく発揮され、職業のいかんにかかわらず、真理の道に通じて行くようになるのである。
悲しきかな、北朝鮮の現実、中国の偽りと傲慢な国家戦略など、心を失ってしまった知性は破壊と闘争を生み、原子爆弾は、人類の修行場をも破壊に至らしめる結果にもなりかねない能力を持っている。
志があって世に出ても権力と金に負けて道を誤まるのも政治の世界にはつきものであろう。
いまの中国の物質経済至上主義による高度成長は、公害を生み、農工業における農薬、洗剤、石炭、石油、ガソリン、鉱業、食品に至るまで、人生航路の肉体船を破滅させるような生活環境を造り出している。
これはすべて目先の利益を追求したための知の産物であり、心を失った物質文明の歪みである。
人類の知は、こうして自分自身の修行場をも破壊するような結果を招いて行く。
農薬、二酸化炭素、四塩化鉛、硫化物、その他の公害によって、多くの犠牲が出るのを見てから具体策を考えるようでは、真理の悟りにはほど遠い。
ここまで物質文明の奴隷と化した人類の姿は、哀れといわざるを得ない。
資本主義は、経済力によって企業を支配し、心を失って利益追及主義に陥り、労使の不満は階級闘争を生み、社会文明は上部層と下部層の階級闘争の中から発展して行くのだという、弱肉強食、のケニアの動物的そのものの考え方を、人類の中に造り出してしまったのである。
経済力で他の企業を乗っとることも可能な、資本主義の考え方は非情としかいえない。
企業は人々によって成り立っていることを忘れ、ある時代においては、人間は経済奴隷的な価値判断しかされず、一部の独占資本家のふところを肥やす犠牲者となったこともあった。
しかし作用があれば反作用がある。強者に対して弱き者は団結によって対抗し、階級闘争が独占資本や権力者の前に、立ちはだかるようになってきたのである。
多くの人々は、その肉体先祖の代々においても、その時代時代の権力者によるきびしい階級制度の中で虐げられてきた。
そうした心の闘争の歴史が、いつか、その人々自らの力によって自由平等の社会を目指し、造り出してきたといえる。
現代、自由平等であるべき時代においてすら、現実には団結という美名の中で個人の自由は無視され、多くの民衆は、新たに生まれた労働貴族という連中の奴隷に変わりつつあるのだ。
物を物と見る唯物論は、心を失った価値判断に立ち、その指導者達は智で造り出した階級闘争を民衆に強制し、あるときは武力、あるときは権力、組織、暴力をバックにして団結を保とうとしている。
人間は心の修行をする為に地上に降りていることを忘れてはならないのである。
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