執着は「最後」にでる・裸で生まれ、裸で帰る

2020年3月7日

「与えられた時間」を精いっぱい生きる
祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらわす・・・・・・・・・・。
よく知られた『平家物語』の書き出しです。
どんなに勢い盛んなひとも、必ず、衰えを迎えるのがこの宇宙の定め、生者が滅するのもまた、理(ことわり)と教えてくれています。
この世に生を受けた瞬間にすでに決められているのが、唯一、どなたも漏れることなく必ずその生は死を迎えるということです。
健康に留意すれば病は避けられるかもしれないし、大の病がが小になるかもしれないし、心持ちしだいで老いを遠ざけることも不可能ではないかもしれません。
しかし、死を免れることはできません。
だから、人間は死を恐れる。
では、何が死の恐怖をもたらしているのでしょうか。
この世に対する執着です。
この肉体に対する執着です。
「もっとやりたいことがある」、「築いた財産を残して逝きたくない」、「別れがたい人がいる」、「まだやりたいことがある」、「まだ死にたくない」……。
病と闘って痛みや苦しみに耐えている人にとっては「この苦しみのままに死ぬのは怖い」という気持ちにもなるでありましょう。
私の従兄弟は43歳で骨肉腫に侵されて発症わずか一年で家族を残してこの世を去った。
見舞いに行った私の前で彼は泣いた。「俺が何を悪いことをしたのよ」と。
温かいやつだった。
私は何らの掛ける言葉もみつからず、ただ黙って彼の手を握りしめることしかできなかったが、その3ヵ月後に今生の別れとなった。
今でも時折、子どもの頃に一緒に布団に寝たこと、一緒に遊んだことが昨日のように思いだされるときがある。
存命であれば65歳のいい親父であろうに。
私は生きてこそいますが、死の覚悟をした死の寸前までいきましたから理解はできるのですが、死は理屈抜きで不安になり、怖い想いもするであろうと思います。
しかし、理由の如何を問わず、この世に思いを残していればいるほど、死を落ちついて受け入れることはできません。
執着心が強ければ強いほど、死への恐怖も増幅します。
それが我欲ならばなおさらです。
我欲とは、己自身の偏った欲望のことであり、感謝の心を忘れた執着の心にほかありません。
生きざまという言葉があります。
その人がどのような生き方をしてきたかということですが、その生きざまが如実にあらわれるのが、死を迎えようとする瞬問です。
そう、死にざまが生きざまをそのままに映しだすわけです。
私もやがてくるであろう死に際、しかも、死にざまはごまかしようがない。
かつて私の師に聞いたことがあります。
何人もの人間に引導を渡し、お浄上に送ってきた僧侶が、自ら病に冒され、病状が悪化の一途をたどり、余命いくばくもないという状態になったとき、「死ぬのは嫌だ。死にたくない。なんとかしてくれ」と生にしがみつき、凄まじい形相で息を引きとった人がいたと。
私の師から聞いた話も凄惨な話しですが、人生、仏道修行に明け暮れたはずの私の知人の僧侶が「なぜ?」と周囲から思われるような、自ら入水して命を絶ちました。
彼は、30年ほど前にはともに語らい、酒を飲んだ友でありましたが、貧しさと、淋しさと、孤独のなかにあって、最後に入水を選んだのでした。
わたしは実際、僧侶のそんな死にざまを眼にしています。
人品骨柄(じんぴんこつがら)申し分なし、とまではいかなくても、それほど欲の深い人間ではなかったのですが、不運もあり、居候の僧侶として寂しく、貧しい酒浸りの人生を絶ちたかったのかもしれません。
人間、たとえ僧侶であっても、医師であっても、七転八倒の苦しみのなかで死んでいくことも、珍しいことではありません。
66歳ともなると葬儀に参列する機会も多いものです。
財をなしてさんざん賛沢な暮らしをしてきた人の葬式は、総じて寂しいものです。
生前身につけていた指輪や腕時計など、値打ちのありそうな宝飾品はすべて外されます。
棺のなかのご遺体は、何も持たされずに旅立つのです。
寂しい話ですが、それが現実です。
裸で生まれ、裸で帰る理は誰も変えることができません。
よい想念を持ちたい
生前は見えなくても、それがそのひとの人生の総決算です。
地位や財産や名声などとはかかわりなく、人間の掛け値なしの価値を死にざまはあらわします。
周囲には平凡な生き方と見えても、あるがままに、自分を偉く見せるでもなく、他人に迷惑をかけることもなく生きてきたひとの死にざまは、穏やかで安らかなものです。
を従容として受け入れる気高ささえ感じさせます。
この世に思いをまったく残していない、ということではありません。
その思い、想念がよいものなのです。
「家族を残していくのは心残りだけれど、頑張ってしっかり生きていって欲しい。ずっと見守りつづけているから」そんな想念は、この世の家族を天上界から見守りつづけます。
しかし、「なぜ蓄えた財産を白分のためにもっと使っておかなかったのか、心残りでならない。自分の死で家族は贅沢三昧することになるのか」といった我欲、悪念はいけない。
悪霊となって家族に取り憑き、不幸をもたらす元凶にもなり、死者自身の死にざまも醜悪なものとするのです。
もちろん、どんな想念を抱くかは、どう生きたかにかかっています。
ちょっとは磨きをかけてお返しする
死後の世界があることを信じ、肉体がなくなっても魂は生きつづけると思っていれば、この世の人生もいい加減なものにはできません。
魂を曇らせない生き方、少しでも魂が磨かれる生き方をしようとつとめるはずです。
私たちの命である魂も肉体も、親やご先祖、そして神仏からお預かりしたものです。
生まれてきたからには自分の命だからと、ぞんざいに扱うことは許されません。
死とは、そのお預かりした命を神仏にお返しするだけのことです。
しかし、汚しに汚した命を神仏にお返しするのは心苦しいと思うのです。
大切に扱い、少しは磨きをかけてお返しするのが、人間の本分、生き甲斐というものではないだろうか。
親から、ご先祖様から、神仏さまからお預かりしたこの命は、この世で生きるにあたってはそのまま受けとることです。
生まれつき重篤な病気を背負った命も、障害をともなった命も、病気をしたその体も、そのまま受けとり、お返しするそのときまで一所懸命生きたい。
そこに死の恐怖などありません。
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