目に見えない大切なもの
「おかげさま」
車、家、土地、お金、その他の物と、かつての私がそうでしたが、人間どうしても目に見えるもの、手に取ることができるもの、形のあるものを大事にし、それが優先されてしまう傾向があります。
実際は目に見えるものはわずか数パーセントにしかすぎないのだが、この手に入れた「物」で幸福の多寡をはかるようになったのはいつの頃からでしょうか。
溢れ返る物を買いあさることに夢中になり、物に囲まれて感じる幸福。
物があるほど幸福、価格の高価なものを持つことが幸福と思えば思うほど悲しいことで、本当の幸福はそこにはないように思うのです。
人間にとって本当に大切なものは、実は目には見えないもののなかにあるのではないだろうか。
物に代表される目に見えるものなど、大切なものからすればせいぜい5%から10%あるかどうか、その5%~10%に振り回されて生きているとすれば、悲しいかな、これもまた現代社会の一面かもしれません。
かつての日本人は目に見えないものに対する畏敬の念を強く持っていました。
感謝は声にしてあらわすところがありました。
いまは「お天道さま」という言葉自体がほとんど死語と化しています。
その結果、目に見えるものしか信じないようになり、社会から品格が薄れています。
金を儲けるためならどんな手段に訴えてもいい。
自分が成功するために他人を陥れてもなんら痛みを感じない。
地位や権力を利用して不当に欲しいものを手に入れる。
そんな感覚が社会にはびこっています。
そういった現象は、心を説く宗教の世界にも蔓延しています。
モラルは地に落ちたというほかはありません。
「おかげさま」という心もすっかり影を潜めてしまっています。
一日の終わりに感謝の気持ちを捧げて眠りにつくということを忘れたくはありません。
何もかも自分一人の力でなし得ている。そんな傲慢さにとりつかれているひとの多さが目立つのは悲しい。
しかし、生きているということはさまざまな「おかげさま」に支えられているということでしょう。
この世に生を受けることができたのは両親のおかげ、育つ過程にいろいろあったとしても両親はじめ数多くの周囲のひとたちの「おかげが」あったはずです。
いまの自分も、もちろん、仕事の面でもプライベートな部分でも、たくさんの「おかげ」をいただいて今があります。
もっといえば、この世に「おかげさま」なしに成り立っているものなど、ひとつとしてない、といっても決して過言ではありません。
現在、わたしたちが享受している文明も文化も、経済も、思想も哲学も、あらゆる科学も、先人たちがもたらしてくれたものです。
偉大な功績の背景にはあの世からの協力もあります。
そろそろそのことに気づくべきです。
とりわけ、両親に対して、今の自分の周りにいて関わりのある人たちには「おかげさま」のこころを持たなければいけません。
都合のいいときだけニコニコで、意に沿わない時は牙をむくというのではお話しになりません。
人間には情というものがあります。
とりわけ両親はじめ、兄弟姉妹の絆は深い情で結ばれているものです。
すでに故人ちなっている肉親がいればそれは「おかげさまで気づかせてもらったよ、ありがとう」と感謝の心をむけて供養としなくてはならないでしょう。
このような「おかげさま」という心は誰に対してもむけていきたいものです。
※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。
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