心のステージアップ法

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「観照」という文字を国語辞典で調べますと、 「主観をまじえないで物事を冷静 に観察して、意味を明らかに知ること。」と説明してあります。
それでは自己観照とはどういうことかとなると、自分で自分をみつめること。
それは他人をみるように、他人に接するような態度で自分自身を客観的に感情的にならず、冷静に観察してみること。
つまり、自分から離れて第三者の立場で自分自身を眺めてみるということだろうと思います。
何かしら問題が発生したり、自分にとって都合のよくないことがるとすぐに感情的になったり、相手の立場を考えずにものを言ってしまう。
こういうことは皆さんも見たり、聞いたり、直接そのような場面に出くわしたことがないだろうか。
私自身も未熟者ではありますが、感情的なやり取りは、お互いにとって決して気分のいいものでもなく、お互いのためにもなりません。
そうなるとお互いが素直な気持ちで対処するということがとても大事だということがわかってきます。
私自身も、仕事を通じて人を育てる立場にありますからわかることですが、学ぶことに関して、不必要なプライドや、人の前で恥をかきたくないという気持ちや、先輩だから後輩からは言われたくないとか、人から良く見られたいとか、こういった心というものは、実は自己保存の心であって、学びや進歩にはとても邪魔なものでしかありません。
人間、素直な心を養うためには、たえず自分の心の動きということを忘れずに、自分自身を客観的に観察し、正すべきを正してゆくことが大切だと思うのです。
自我や我執、エゴ、カルマ、業という言葉があります。
これらは同義語と理解していいかと思いますが、人間は、意識しないまでも、つい自分自身にとらわれるというか、自分にとらわれるほどに自分で自分がしていることを正しく観ることができないことが多いものです。
ところが、人は「自分のことは自分が一番知っている」といいます。
たしかに自分の心の内を他人がうかがいしるということは難しいということはいえるでしょう。
そういう意味では他人よりも自分のほうがよく知っているといえます。
しかし、自分の考えや行動が果たして独善ではなく、自我我欲の言動ではなく、道理にかなっているのかどうか、社会的にみても正しいことかどうか、また人間としての心の機微に適したものかどうかをみてみると、これはまた別だと思うのです。
こういったことになると、むしろ、他人のほうがよくその人物を解っている場合が少なくないでしょう。
どうしてかというと、自己中心的という言葉が示すように、人間は、どうしても知らず知らずのうちに自分中心に、あるいは自分本位にものごとを考えがちになって、他者からみたときには随分おかしいことでも、本人にとっては一生懸命に考え、それを正しいと信じている場合が多いからです。
こうなると、自分自身にとらわれた自己本位の考え方を押し通そうとすればするほど人間関係も、物事も円滑に運ばなくなってきますし、遅かれ早かれ必ずといっていいほど問題が発生したり、他者から批判されたり、人が離れて行ったりすることになってきます。
こういった自分にとらわれた思いや行動というものは、他人が傷つけたり、あるいは自分が傷つくということになってくるでしょう。
更に、その考えが社会の正義を脅かすようなことであったり、共同社会の幸せに背くようなことならば、やがては我が身を滅ぼしてしまうことにもなりかねません。
しかもその人が、社会の指導的な立場に立っていたならば、単に自分を滅ぼすだけでなく、指導される人びと全体の思考や人生を間違った方向に導くことになり大切な人生を誤らせてしまうことにもなってきます。
特に、私が宗教家や思想集団の指導者を厳しい目でみるのはこの辺の理由があるからであります。
かつてのヒットラーやムッソリーユ、あるいは旧日本の軍部指導者の考え方のなかにも、こうした自己中心的傾向のために暴走して戦争を起こしたことは否定できないと思うのです。
つまりそういう人たちは、自分の考えこそが絶対に正しいと信じこみ、知らず知らずのうちにエスカレートし、自己本位の勝手な考えなり行動に陥っていることに気づかなかったのでしょう。
あるいは、気づいてはいてもエゴの為に、あるいは保身のために引き下がれなかったということもあっただろうかと思います。
その我執が、自分だけでなく周囲の多くの人びと、あるいは国全体を迷わせ、そこに多大の損失と犠牲という不幸を招くことになってしまったのだといえましょう。
こうした経験は大きすぎる犠牲者を出しましたが、私たちの日頃の生活の中でお互いに多少なりとももっているのではないかと思います。
さて、それではどうすれば自分自身にとらわれない素直で謙虚な心づくりができるのだろうか。
先ずは「観照」を心がけたらどうでしょうか。
これは、冒頭に述べたように、いわば自分の心をいったん外に出して、その出した心で自分自身を見直してみる、つまり客観的に自分で自分を観察することを心がけるということです。
昔から、鹿を追う者は山を見ずという諺が示すように、目先の利益 を追っている者は、それ以外のことが見えなくなり道理を忘れてしまうことがあります。
ということは、一 つのことに夢中になって、他のことに余裕がなくなること。
山の本当の姿は、あまり山の中に入りすぎるとわからなくなってしまいます。
山の中にはいろいろな草木もあれば、石ころもある。それらも山の一部ですが、しかしそれだけが山の姿ではありません。
山の全貌を正しく知るには、やはりいったん山から離れて、外から山を見るということもしなければならないと思うのです。
遠くからばかり山を眺めていてもその山の細かい様子はわかりません。
こうしてみると、やはり、どちらか一方に偏ってしまった状態というのは事の真実を見失うということだろうと思うのです。
自然の世界の成り立ちや出来事は、そのまま人間の心についても、これと同じことがいえると思います。
自分では気づかなくても、誰しもそういうことをある程度はやっているかもしれません。
例えば、自分が何かを夢中になってやっているとき、フッと我に返る場合があるように、自分は何をやっていたのだろうと、冷静に思い返してみるというようなこともあるでしょう。
それをいつも冷静にできるように心がけ、また普段の生活の中で実際にやっていくわけです。
もちろん自分の心を内から外へ出し、そしてそれを眺めるということは慣れないうちはなかなか難しいことです。
しかしそれを心がけ、継続して訓練していくことによって、しだいにできるようになってききます。
要は、そういう自己を観照、つまり客観的に自分の考えや行いを観ることによって、自らのとらわれ、執着、自我、我欲、エゴ、自己中心などに気がづく習慣を増していくということです。
自分自身を正しく把握することは、自分本位に陥らずに、偏りのない判断力を身につけるということでしょう。
そういった意味で、この「観照」は、拘り、執着のない、謙虚で素直な心をつくることになります。
そうしてその謙虚で素直な心をしだいに高めていきますと、つねに物のほんとうの姿、すなわち実相を正しく把握することができるようにもなると思います。
最後に自己の観照とは、素直な心を養うための一つの実践手段であり、人間対人間の相互関係をよりよくする最高の訓練法であり、ステージアップ法だと思います。
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