信仰者の苦悩
質問へのお答え
先ず、人間の意識活動は、その全体量のわずか10%しか表面にでて働いていないということについてはこれまでもブログ上で述べてきました。(想念領域・(表面意識・潜在意識))
通常は、このわずか10%の意識活動のため人間は先のことがわからないことのほうが多いということ。
それと、人の心の癖、つまりカルマというものが、ちょっとや、そっとで修正しにくいところに他力の発生、即ち依存信仰の原因があるということ。
こういう理由からすれば、神仏や教祖に向けた祈り(願い)や念仏が、こうした人間の弱さから生まれ、今日の信仰形態が、仏教、キリスト教を問わず、他力に変形していったのも、無理はないと思われます。
しかし、無理はないといっても、他力という、依存した心、精神では、気づきや、本願(悟り)を絶対に得ることはないということも覚えておかなくてはなりません。
なぜならば、人間の心の歪みは何かに委ねるという他力では修正できないし、また、心はそのようにはできていないからです。
人間の魂は、私たちが思う以上に無限の可能性を秘め、徳性をもったものであり、自分の心の在り方次第で如何様にも可能性を拡げていけるという、この事実をまず認識して、自覚を持たなくてはなりません。
このような特性を、神性仏性といってもよいでしょう。
あるいは、神の子といってもよいでしょう。
では、どうして神の子かということですが、先ずはその前に、この大宇宙森羅万象は、神が創造したものという大前提をここにおかなければなりません。
神が、その意思と自らの力で大宇宙森羅万象をつくられた。
そうして神は天地創造と同時に、創造した現象物質界に、永遠の調和をめざすことを意思されました。
人間の心をみればわかるように、目標のない意思は意思として働かないし、運動のない生命は、生命として生きてこないことは科学的にも説明がつきます。
永遠の調和、生命の転生輪廻(循環の法則)は、そうした意思のもとに始まったと表現してよいのではないでしょうか。
こうしてみると、神の意思の継承者は人間でありましょう。
この点は避けることができませんし、私たちは人間に生まれたことを素直に、謙虚に感謝すべきです。
そして人間は、神が果たされた天地創造のその働きを、こんどは人間が果たしてゆかなければならないと思うのです。
この能力こそ、神性仏性であり、神の子の証しですし、動物とは異なる理性と、知恵と、勇気と、愛と慈しみを備えた魂であります。
こうした意味で、私たち人間は自ら意志し、善なる己の力、能力、すなわち自力によってのみ、神の子としての目的と使命を表わすことができるものでしょう。
何かにすがるようにお題目を唱える心こそ、私たちの精神を弱体化する行動でしかありません。
世の中には信仰という信仰を持たなくてもしっかりと人生を正しく、偏らずに、人々や社会と調和しながら生きている人たちがいますし、私の周りにもそういう人間がたくさんいらっしゃいます。
必ずしも特定の宗教団体に属さなくても学びはできます。
私は宗教が悪いとは考えておりませんが、教義を教団の都合のいいように歪めて教える指導者や幹部に問題があることは明白です。
宗教で金が儲かること自体がおかしいのです。
真の正しい道は、大宇宙、森羅万象に表される神の心にもとづいた想念と行為を教え、調和という大目標に向うことを示すものではないでしょうか。
祭っている神仏や、歴史に残る宗教指導者や、あるいは教団の教祖に向けて委ねる他力依存の読経や祈りは誤りであり、人間が生まれながらにしていただいている無限の可能性を持った神性仏性に眼をふさぐことになります。
疑いを持ってはならない。
信じて唱えなさい。
これらは、自らの心にある能力の芽を摘むものです。
宗教ばかりではなく、何事においても疑問をもつことは、事の真理を覚るためにも必要なことであり、鵜呑みにすることは盲信、狂信そのもので危険この上なく、長じては自分の精神破たんまできたす可能性もあります。
他力で、安心が得られ、悟れたという人にはいまだにお会いしたことがありません。
日本の他力は、古くは、法然、親鸞によって開かれたことになっていますが、仏教を大衆化し、衆生の中に根を下ろすには、時代背景からすれば、こうした方法をとるより他に手段がなかったように思います。
ですが、例えば「南無阿弥陀仏」にしても「南無妙法蓮華経」にしても、お題目を唱えて悟れるようには人間の心はつくられていません。
唱えているときだけ心の安定が図られているという錯覚は、決して悟りにつながるものではないでしょう。
人間、他力では開祖でも悟れないとすれば、大宇宙を動かしている偉大な能力と、その能力を感知できる自分自身を、ふりかえってみる必要があるのではないだろうか。
尊大な自分の心を信じて、日々の行いのなかで、自分の心の癖(傾向性)を改めていく努力こそが大きな心の調和となり、悟りへと近づき、何事にも囚われない自由な心を得ることになるでしょう。
あなたの信仰している教団については言わずとも、聞かずともわかります。
そして、もうひとつ踏み込んで言わせていただくならば、はっきり申し上げて、非常に不調和な教祖、教団、幹部であるばかりではなく、霊的視点からすれば、背後には常に邪悪な存在が渦巻いていることも申し上げておきます。
あなたの身体が表しているサインを信じて、それがとても重要な意味をもっていることに気づかなくてはならないでしょうし、早期に脱会することをお奨め致します。
あなたの健康、そして人生をよりよいものにすることは、先ずは今の信仰を捨てることでしょう。
そのことによって邪悪な霊的背景からも遠ざかることで解放され、やがてはあなた自身の心の調和と共に本来の自分に立ち返ることができるでしょう。
あなたの本当の人生はそこから始まると思うのです。参考になりましたでしょうか。
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こちらのサイトを紹介いただき初めて拝見しております。
私は某宗教団体に入信して一年になります30代の教員です。
入信の切っ掛けは、私自身が体も弱く、病弱であるばかりでなく、どうしても誰かに頼る癖があり、何かしら問題があるとすぐに誰かに相談したくなり、自分で時間をかけて解決策を考えようとしません。
そんな自分に後から嫌悪感が襲ってくるのですが、問題が発生したときはいつも心が動揺して冷静さを見失っている自分がいます。
友人に誘われるままに集いに参加して信者と一緒にいることで安堵感があり、事あるごとに支部の方に出向くようになっていきました。
しかし、月日が増す毎に中の様子がわかるようになり、信者仲間の陰口を聞くようになってきました。
それと同時期頃から私の体に異変がおきはじめ、体調が段々思わしくなくなってきたのです。
仲間は、朝夕にお題目をあげてごらんなさい。
そうすればそのご利益によってあなたの体調が上向いて救われますよ。といいます。
疑いを持ってはならない。
信じて唱えなさい。
と、言われるままに実践しているのですが、やればやるほど私の体調が悪化してきているのが良くわかります。
最近は、朝起きが辛くなり、夜の睡眠も浅くなり、日中の仕事の時間にも集中力が薄れてきています。
このままではもしかすると仕事ができなくなるかも知れないという不安感が強くなってきました。
私の入信を知った従兄弟からは、その教団はやめた方がよいと再三言われるようになりました。
それをきっかけに教団の悪口や、これまで知らなかった様々なスキャンダルや事件の話も聞かされました。
真偽のほどはわかりませんが、私の中でたくさんの疑問が湧きだしてきております。
観童様からみれば、私の信仰は他力信仰でしょうか?
もし、他力信仰だとするならば、なぜ他力信仰はいけないのでしょうか?
信仰の浅い私にも分かるようにご教示頂ければ有り難く存じます。
宜しくお願い致します。
尚、名前は匿名で記しましたので公開して頂くことには支障がありません。