慣性の法則と心の傾向性
今朝は宇宙の摂理であるところのひとつ。慣性の法則について述べてみたいと思います。
物体がその運動を続けようとする性質を科学では慣性と表現しています。
この性質は質量(性質と重さ)が大きいほど慣性も大きくなる。
ということは例えば、ボールをころがしたとして、同じ大きさでも中が空洞のボールと鉄でできたボールでは性質と重さが違うために同じ力を加えた場合でも転がる距離が違ってきます。当然、質量の大きいほうが転がる距離が長くなる。
もう一つの事例を述べてみます。普通乗用車が時速50キロの速度で走行してブレーキをかけたら停止するまで通常なら約10メートル程度の距離が必要になる。
同じことを10トンダンプで行えば通常なら約14メートル程度の距離が必要になる。
この違いは何かというと先ず、車の大きさと重量が異なるため制動距離が長く必要だということで、すなわち質と量の違いが制動距離の違いとなってくるということです。
カーブを車で通過するときに乗っている人と車はカーブの外側にもっていかれますが、これは速度とカーブがきついほど遠心力が強く働くことになりますが、車と人はカーブの外側の直線方向に移動する働きが発生しています。
この運動も慣性の法則によるものです。
私たちはこの物理的法則の影響のなかで暮らしていますが、しかし、この法則は物理的運動だけではなく、私たち人間の心の精神作用にも常に密接に働いています。
今までの生き方を変えられないことや、よくないことだとわかっていても、その癖をなかなか変えられないのが心にも癖がある証拠であって慣性の法則による傾向性というものがあるからにほかなりません。
業(カルマ)という言葉に置き換えることもできます。
慣性を心の傾向性(癖)として置き換えて、質量を想念の照度に置き換えてみると分かりやすいと思います。照度とは汚れて曇っているか、執着がなく調和されているかの心の輝き度のことです。
執着が少なく調和されていれば心は輝いていますが、囚われた心があると曇って輝きがありません。これは肉体的な容姿とは全く関係ありませんし、身につける服装なども関係ありません。
内面的な心(魂)の問題です。
心の傾向性(癖)とは、その人の個性が良くも悪くもひとつの特徴として現れてくることをいいます。
あとは日々の生活を自我心のまま不調和に生きるか、反対に偏りの無い調和された生活を心掛けて生きるかで心(魂)の進化に大きな差が生じてきます。
(1)常に自分の心磨きを心掛けている人は何事にも謙虚に素直に学ぶ姿勢を忘れませんし、そのことによって周りからも信頼を得て引き立てられることになるでしょう。
(2)逆に感情のままに怒りをあらわにしたり、不満や嫉妬、愚痴を言うような生き方は自分自身を苦しめ自らを貶(おとし)めていきます。
このようにそれぞれの傾向性ははっきりしています。問題は(2)のような傾向性(癖)のある人の場合ですが、しかし、これまでの生き方というものはそう簡単に修正できるものではありませんが、しかし、努力はしなくてはなりません。
人生を長く生きたら心が丸く大きくなるのかというと必ずしもそうとは言い切れません。
逆に年を重ねるごとに頑固に意地汚くなっていく場合もある。人間の心の癖は本当に厄介なものですが、あの世に旅立つ前にしっかり傾向性(執着、自己中心、傲慢、嫉妬、怒り、愚痴、不満、そねみ、中傷)を改善しておかないと逝ってから大変な苦労して地獄をみることになりかねない。
自分を省みることなく惰性(だせい)のまま生きたら慣性の法則は執着のままあの世に延長して持ち越すことになりますから要注意です。
さて想念照度とは字の如く念の明るさです。
正しい想念か、囚われた、執着した想念であるかが重要です。
人間は生前の想念の状態と死に際の想念によってあの世の居住環境が違うからです。
例えば家庭環境でも、会社でも不調和な環境にしたり、またその中に身を置けばやがて心まで曇らせてしまいがちですが、本人は慢性化したその環境に慣れてしまうために間違いを間違いとして判断できなくなる傾向にあります。
特に本人が盲目的に信仰する宗教などによるマインドコントロールなどがそれです。
ご利益があるとする宗教は他力本願の依存的なめくら信仰であり最も危険な宗教です。
その背景には御利益を求める依存心という弱点があるためであり、自らの努力で進歩向上するという姿勢に欠けることは、堕落へ突き進むことになってしまいます。
心は決して題目闘争やご利益主義で救われることはありません。
救われたとする人がいたとしてもそれは読経や題目闘争やご利益ありとする教団指導のお蔭ではなく何事も自身の精進努力の賜物だということです。
従って外に答えを求め、他に答えを求める者は自らの心を見つめることも無く、自分のなかに答えがあることに気づけないままに人生を終るでしょう。
内なる心を見つめて内省と調和の繰り返しをしなければ真の平和な生き方はできない。
真の幸せは偏りのない生活の中で気づく自分の心の平和です。
幸せは作るものではなく気づくものです。それが真の自力本願です。
作る幸せは物や経済で環境整備をしなければ実感できませんが、気づく幸せは逆境でも、試練のなかでも、経済的に貧しくても幸せを実感できるものです。
ただ一点、自力本願の真意を間違うと自己中心や傲慢と勘違いしかねないから要注意です。
自分を主張する心が傲慢と自己保存であり自力本願とは似て非なるものです。
自らを律して他に寛容の精神は自分の魂を成長させる最良の妙薬です。
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