未熟な心

おはようございます。今朝は約30年ほど前の若いころの話をしてみたいと思います。

私は30代前半までホワイトカラーの会社員として随分と忙しく働いていました。

儘(まま)にならないことがあると、会社が悪いとか、本社が悪いとか、つまり自分以外のもののせいにしていたところも少なからずあったように思います。

このような考え方は本当は決していい考え方ではないし、間違いである。

確かに会社の男性社員に対する使い捨てにも似た処遇からすれば大事にしていると言えなかったが、私のなかで何故かこの会社は繁栄することはないだろうという傲慢にも近い気持があった。

責任者として赴任して以来、最善を尽くして支店の業績もアップさせ赤字支店を黒字にし、全国25店舗で社員数500名足らずの小さな企業ですが、支店をベスト3まで引き上げたという自惚(うぬぼ)れ的な自負心もあっただけに、本社役員の一言で私の支えとなっていた心のストッパーが切れてしまった。

私は何の躊躇もなく辞職を願い出た。しかし、いま思えば後先を考えず退職した当時の事を思うと自分の大胆さというか無鉄砲さに赤面のおもいがする。まったく若気の至りである。いち社員が組織にモノ申して勝てるわけがない。

やがて数年後、全国25店舗の支店を展開していたその会社は下り坂を転がるように衰退の道を堕ちていき縮小されていった。いうまでもなく企業は人である。企業は生き物です。

私はすぐに次の仕事の準備に取り掛かかり忙しくしていたから不安も気にする間がなかった。逆に闘争心さえ湧いてきた。自立して小さな自営業をスタートさせた。

会社員のときは何かと責任も重く苦しかったには違いないが、新しい仕事としての自営業はそれとは違った精神面での苦しさがあった。孤独な自問自答が続くからだ。人のせいにはできないし、全ての責任は自分にある。

しかし、それは退職がきっかけではあっても自分が選んだ道であることは間違いない。

対人関係や組織のなかにいていくら自分が正しいと思ってはいても、それを押し通してしまえばそこには必ずあつれきという反作用が生じるものです。

その反作用の結果が退社しなければならなくなった原因です。これは自業自得です。

正しさも押し通せばそこには反作用が生れることを自らの行動で納得させられた出来事です。

正しいと思っていた想いが実は自分の中にある「わがままな心」が原因であったということ……・

退職後に35才の頃、このことの道理を知りたくて禅堂に通った。

正しいと思っていることが何故、退職することになったのか。

あの時の不条理への怒りがなぜ消えないのか。

憤(いきどお)りへの苦しさを解決する為にはどうしたら良いか。

座っていると自然に涙が溢れて仕方がなかった。なぜ涙が流れるのか不思議で仕方がなかった。

3年間、朝5時に夏冬なく禅堂へ足を向けた。そして出た結論は、周りの状況が自分の都合のいいように変わることを望むのではなく、今のこのままの状態も必要な過程であることを得心しないといつまでたっても現状の苦しさから逃(のが)れることが出来ないのではないか。

何事にも「感謝の心」で受けとめられる心をつくらないといけないのではないか。

「苦」は外から来るものではなく自分の内からくるもので、すなわち 己れの「未熟な心」がつくりだすものなのではないか。そう考えるようになった。

今のままで、このままの状態で感謝出来なくては駄目なんだと考え直した。

それからが自分との戦いだった。腹が立つと今までは相手を責めていたが今度は自分の心を正そうとすると、どう考えて良いのか?どう相手を理解したら良いのか?分からない事が出てきた。

今までだとあいつは嫌なやつだ。変なやつだ。とか決め付ける事で済ましていたことが、「相手を理解できない自分が未熟だ」と自分の心を調えるまでにはとても時間がかかった。

結局これが私の自我である。

どうにもならない時は、「俺は神でも仏でもないんだ、ただの人間だ」と自分に言い聞かせる事で言い訳をしていた。

この世は修業の場といわれている。人それぞれに人として成長するための様々な違った環境のなかで苦しい試練がある。

その試練を悲観的に受けとめるか、この試練が自分自身を成長させる「チャンス」と受けとめるか、受けとめかた次第では、自分の心に与える影響はおのずと違ってくる。

この受け止め方の違いは気根の違いである。つまり心の器の違いです。

心も体も同じで、強くなる為には様々な苦しいトレーニングは必要である。

「涙の数だけ強くなれるよ」という言葉がある。

人は、病気になってはじめて健康の有り難さがわかり、お金に困ってはじめてお金の有り難さがわかるものです。苦しい体験は必要なのである。

「苦」の体験が人として成長するための肥やしとうけとめ、苦しい中にも感謝出来ることをみつけて「感謝」するという習慣を身につけることが大切です。

習慣を身につけるとは『報恩』です。恩に報いること、それは行いです。

実践があって初めて感謝と報恩が連動し、循環するのである。

しかし、まだまだ今の自分はわずかな「苦」が自分の心を煩わせることがある。

白隠禅師いわく「よきも悪しきも よそより来ぬぞ 迷う我が身の心より」この言葉は理解できるが、煩悩だらけの自分は平常心を保てず、与えられたこの瞬間を集中して生きることもままならない。

最近、守護霊からこんな啓示を受けたことがある。

私が『これこれの問題で考えあぐねているが是如何様に』と訴えたところ「おまえは修業が足りんのう」と威厳のある言葉が胸に広がった。まったくその通りと納得できます。

守護霊も指導霊も私に望むことは、常に自身のハードルを少しずつアップして超えることを願い、優しくも厳しく見守っている。

私の魂の成長のために。

人生、苦しい体験に終わりがないわけではないが、楽ばかりの人生も無い。

ただ今、修行中と思うことにしている。まだまだ続く我が心との戦い。

未熟なり、我が心かな。なかなかこれで由とはならない。

 

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Posted by kansindo