陥りやすい独善
誤解されやすい人
ほんとうはそんなつもりで言ったんじゃないのに、何故か自分の真意が相手にうまく伝わらず誤解されてしまう。
そういうことが夫婦間でもよくあることかもしれません。
それがその時だけではなく、ちょくちょく、そういうことがあるとなると、やはり考えなくてはならないでしょう。
人間、素直さや謙虚さを失ってしまうと、自分の考えにとらわれてしまい、結果的に視野も狭くなって、往々にして独善の姿に陥りかねない。
お互い、つねにあやまちなく物事を考え、行なっているかというと、人間は万能ではありませんから、なかなかそうもいかないところもあるでしょう。
たとえ自分では、間違いがない、正しい、と思い込んでいる場合であっても、客観的にみれば、どうしても相手にとって受け入れがたい状況であったり、あやまった姿に陥っていたというような場合が、少なくないと思うのです。
実際に、Aさんという相談者が過去から現在までの経緯を話すなかで、自分の正しさを主張し、他を批判するような内容を聞くにつけ、同情を禁じ得ないことも多々あるのですが、それにしても話す言葉の端々に棘(とげ)があるし、突き刺すような心の波動を持っているのは決して正しい心とはいえないでしょう。
問題は、その心のあやまちを自分自身ではなかなか気づかない、気づくことができにくい、ということです。
このAさんの場合、自分の言動によって他から反発を買い、敵をつくってしまっていることに気づいていない。
とても知識の豊富な方で、これからやろうとしていることは良い事なのですが、自分の発する言葉の棘に気づかないどころか、むしろ間違いない、これが正しいのだ、と決め込んでいる場合が少なくないわけです。
知識で物事を語るから、そのことが調和することとは異なることに気づけない。
「智に働けば角が立つ 情に棹(さお)せば流される 意地を通せば窮屈だ」
夏目漱石の言葉です。
だから私が「それはそうではなく、実際はこうだと思いますよ」と、その話題について詳細に話すと、「そういうことなんですね。そういう意味合いがあったのですね。初めてわかりました。」という。
これはまことに困った姿です。
Aさんの場合、ガンバリ屋で努力家なのですが、これまでも自分が心から理解していないことを、知識や思い込みだけで断言するような口調で語るから反感を買ってしまっていたようでした。
こういう姿では、もし仮に他の人びとからその間違いを指摘されたとしても、それを素直に受け入れることは少なく、往々にして、それを非難や中傷であるかのごとく受けとりかねない、というおそれがあります。
しかし、こうした独善の姿に陥ってしまったのでは、自分が間違いを犯しているうえに、さらに他との摩擦、トラブルなど、とても良からぬ状態をもたらしかねません。
それではなぜこうした強引さや独善の姿が生じてくるのかというと、もちろん見方、考え方はいろいろあると思います。
しかし、こうした良からぬ態度、刺すような言葉というものは、やはりお互いに謙虚で素直な心が失われているところから生ずる場合が多いのではないだろうか。
何故なら、謙虚で素直な心が失われている場合には、やはりどうしても自分の考えのみにとらわれてしまい、それのみが正しいというように思い込みやすくなるという偏った傾向にあります。
極端な事例かもしれませんが、例えば、あのナチスドイツのヒットラー。
ヒットラーは私心にとらわれ、独善に陥り、大戦争をひきおこして、幾多の尊い人命を損ない、膨大な物資を破壊しつくすといった最悪の結果をもたらしました。
また、今日、一つの主義思想を是として、それを尊ぶあまりに絶対視し、それ以外のものはみな間違っている、という考えに陥っている個人や思想集団や宗教団体などは、日本国内だけではなく世界にもそういった傾向もみられるようです。
こうした独善的な思考や思想や宗教によって、神の名の元に殺戮が行われているというのも悲しい事であります。
やはり謙虚で素直な心のないところに加えて、非常に無知である者を先導するような独善的思考はあってはならないでしょう。
もしも、一人一人の人間の心に、謙虚で素直な心が働いていたならば、広い視野がひらけ、あらゆる角度から物事を見、考えることができ、ただ一つの主義や思想に偏り、とらわれるといった事に陥ることもなく、あらゆる主義思想のそれぞれの長所というか、それに含まれている真理を見出すこともできやすくなるでしょう。
一つ一つの主義思想はそれぞれによいものをもっていても、それを利用し、悪用し、人間の心を間違った方向へコントロールしていく個人や、主義思想集団、宗教団体があります。
ですから、主義思想と、それを説く個人、集団、教団、の実態に矛盾があることに気づき、疑問を持ったならば離れなくてはならないでしょう。
しかし、人間は悩みや苦しみをもってそういった主義思想にめぐり会うといつの間にか依存心が生まれてしまい、他力信仰のかたちになってしまう傾向にあります。
こういう心が間違った主義思想集団や教団から抜けられない原因ともなるのです。
私たちがそういった間違った方向へ導こうとする者に関わらない為にも、また脱するためにも自分自身の心のバランスを偏らない状況にしておく必要があるでしょう。
そういった偏りのない、謙虚で素直な心をもつことによって、さまざまな主義思想のいいところを判断する力が備わり、邪悪なものに扇動されることもなく平穏な共同生活ができると思うのです。
しかし、逆に謙虚で素直な心が働かず、自身の心に偏りがあり、独善に陥った場合には、そういう平穏な共同生活もなく、事態は悪化するだけということになりかねません。
つまりただ一つの主義思想だけを正しいとして、他はすべて間違っていると考えたならば、その一つの思想に含まれている一つの真理のみが押し通され、他の幾多の真理はすべて否定され、生かされなくなってしまう、ということにもなりかねないと思うのです。
しかしこれでは、物事の発展、人間の成長、お互いの共同生活の向上ももたらされにくくなってくるでしょう。
こうしてみると、独善というものは、自他ともに不幸に結びついていく場合が非常に多いと思われます。
お互いに謙虚で素直な心というものがなく、偏った心の場合には、往々にしてそういう独善に陥りやすくなってしまいます。
ですから、お互いに謙虚で偏りのない、素直な心を養い高めていくよう、つね日頃から十二分に心がけてゆくことが大切ではないかと思うのです。
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