仏智を悟る般若心経(続編)

仏智を悟る般若心経Ⅰ(リンク)

受想行識 亦復如是 舎利子

心の中で想うことと肉体での行為は、互いに調和された相互関係を持って、安定されていなくてはならない。

しかし、多くの人々は、正しいということを知りながら、欲望や誘惑、そして邪悪な思いに負けてその正しい道を歩んでいない。

受想行識 亦復如是 舎利子の意味は、私達の心の作用によって、肉体行動が現われ、肉体行動があって、また心に作用するということをいっている。

すなわち、色即是空、空即是色と同じ意義を持っているのだよ。シャリープトラーよ、と。そして、諸々の比丘(男性の出家者)、比丘尼達(女性出家者)よ、ということでしょう。

受想行識とは、

(心の感受作用・物事を思い受け入れること)
(心の表象作用・思い浮かべること)
(心の意志作用・意識し、成し遂げようとすること)
(心の認識作用・
物を分別し、認識すること)
亦復(やくぶ・またまた、再び、重ねて)
如是(にょぜ・かくのごとし、このように)

上記の記述で理解できると思いますが、心の作用と肉体的行為であり、五官をとおしてきた感応が、心の中の想念の領域の本能や智性や感情や理性に作用して、意志となり、行動に移って行く。

そして体験されたものは、肉体的行為や心の想念の働きに作用して智性の進化にもなって行きます。

つまり、心の作用と肉体的行動は、空から色に色から空へという変化と変わらない働きだといえましょう。

心で想うことと肉体の行為は、互いに調和された相互関係として、安定されていなくてはならないといえます。

しかし多くの人々の中には、正しいということを知っていても、自分の都合が悪ければ行為で現わさない人達もいます。

このような人達は、自己保存、あるいは、自我我欲の暗い心を作り出してしまうでしょう。

心の世界は、次元を超えた。の世界に通じているから、不調和なことも、調和されている慈愛の心もすべて記録されているということを、知らなくてはならないでしょう。

そしてこの善悪の記録は、やがて自分自身にかえってくるのです。

このことは、作用と反作用の法則と同じです。はからっぽだとか、何にもないとか、否定することはできないのです。

否定したところで、自分の心は、動かすことのできない絶対の空の中に存在しているからです。

是諸法空相

是諸法とは、「この諸々のあらゆる神理タルマ(法則、目的)は」、ということになるでしょう。       
空相とは、「神の心の現われである」ということで、これは、空即是色であるということからみれば、あの世すなわち次元の違っている、非物質的な精妙である意識界と、もっとも不安定な固体的な地上物質の世界とは、不二一体である、という内容を持っています。

地上の現象世界における大自然の移り変わる姿や、自然の法則は、心の世界、実在の世界の表現体です。

すなわち、大宇宙体を支配している意識の現われだといえるのです。

この意識は、神の心の現われということになるでしょう。

の世界からの世界に変わり、の世界からの世界に変わって行く、すなわち、輪廻して行く姿を空相という言葉で表現しています。

肉体と、体の支配者である魂・意識が不二(ひとつ)であるということは、今自分達がものを考え、思うと、その意志によって肉体の進路を定めていることを考えても理解できましょう。

肉体は、意識(魂)の表現体ということです。

それゆえに、の相を現わしているし、の実相を表現している。

この地上三次元の世界と、あの世、四次元以降の世界は次元が異なっているが、連続体です。

しかし、三次元の物質を、四次元以降に持ちこむことはできないでしょう。

つまりこの地上世界は、四次元以降の世界から投影されている立体映画ともいえ、人類は、その人生劇場で演技するヒーローやヒロインということがいえます。

言いかえれば、物質はエネルギーであり、エネルギーはまた物質である、ということと同義のこととなります。

仕事をなし得る能力、つまりエネルギーを見て物質の特性が解り、物質をとおしてエネルギーの特性が解るように、エネルギー粒子の集中と分散、それによって輪廻しているということです。

物質の三次元の存在に対して、エネルギーの次元は、高次元といえます。

外力の縁によって、物質はエネルギーという次元に連続されて行くことになります。

やはり、色即是空空即是色、すなわち。空相ということです。

このように、空相とは、永遠に変わらない四次元以上の万生万物を支配している根本で、宇宙意識の心の姿といえましょう。

不生不滅 不垢不浄 不増不減

とは、生まれず、滅せず、垢つかず、浄らかならず、増えず、減らず、ということになりましょう。

しかし、すべて不、不、不と否定しているから、無になると思ったら大間違いです。

人間の体が死によって火葬されると何も無くなったとみるのですが、しかし、宇宙全体からみた質量は減ってもいないし、増えてもいません。

かたちが変わっただけのことである。

肉体というエネルギー粒子の集中固定化した物質が分散されている空間に出てしまっただけのことであって、大自然の法則にならった肉体生命の循環の姿でしかないといえるだろう。                     

また、心においては成長するに従って、過去世で作り出した業という性格が、人生体験を積むほどに出てくるようだ。
しかし、苦しみをとおして、その原因を追及し、反省して修正すれば、心の曇りは晴れ、安らぎの丸い豊かな心が作り出されて行き、心は光明に満たされ、やがて人生に対する疑問を次々と追及して心は進化を続けて行くものだ。
学校で学習するのは、より豊かな智性を作り、ものの判断を豊かにし、誤りのない人生を送るための基本的素養を身につけるためだ。
きびしい社会生活の体験をとおして、さらに今ある環境の中で、心の新しい学習を今も続けているのだ。
そして、自らの心と行ないの欠点を、強く修正して行く者こそ、真の勝利者である。
しかし、人間は、肉体的先祖や子孫に執着をもって、神の身体の一部である土地や、財産への執着が絶ちがたく、肉体への執着に明け暮れている。
遂には、という四次元世界のやがて帰るべき場所まで忘れ、墓や寺院に、また生まれた家や住居に執着を残して自らの心を束縛して心の中に地獄界を作り出してしまう。
いかに財産があろうとも、地位があろうとも、執着を持ってしまうと、心に曇りが生じ、肉体と同体になっている光子体(霊体)の光を失ってしまうため、辿りつく場所は、きびしい地獄界に行くだろう。
人間は、この地上を去るときは、人生で体験した一切のこと、思ったこと行なったことを持って行く。
心の中のその記憶装置は精妙で、地上界のコンピューターなどの比ではない。
人生でなした行為と想念の決裁は、自らの善なる心が裁き、罪を犯した者は、自ら罪を償う場所に行き、その原因がどこにあったかを発見して自覚するまでそこにとどまるのだ。
物質文明も人間の生活の智慧が作り出したものであり、地位や名誉も作り出したものであり、それらはすべて変わりやすい。
神の作り出したものは、安定し変わることがなく、ただ、いかに人間らしく、正しい中道の生活をして、広く豊かな心を作り、人々のために心から尽くしたか、ということがもっとも大事なことだといえよう。
人間は、いつの日か、両親から戴いた肉体から下船しなくてはならない。
あの世に帰る光子体(霊体)の体をもって、光の世界に帰って行くのだ。
自らの心と行ないを正さないで、実在する四次元以上の世界を悟ることはできない。
智性だけの悟りは絵に書いたボタ餅であり、正道を行なわなくては結果は出ない。
肉体の生と死を見て、生まれたとか死んだとかいうのは、正しい道理ではないといえよう。
れは、肉体の船長が、乗り物をかえただけで、本当の自分自身は、死ぬことも生まれることもなく、汚ないも綺麗もなく、増えも減りもしないのである。
これが不生不滅 不垢不浄 不増不減の意図するところである。
物質的な現象だけを見ているから、生老病死に翻弄され、そのように感じるだけなのだ。
人間は永遠の生命である。
わたし達は、眠っているときに、四次元の世界に行くことがあるが、不調和な心では天国の世界にはいけない。
このような話しを信じる、信じないは読者の判断に委ねることとしますが、頭の中だけで判断するのは愚かしいことです。
頭ごなしに否定する人もいますが、それは否定のために否定している執着の強い人である、というしかありません。
疑問を持つのは当然のことです。それをどう解くか、そのことのほうが真実に近づく早道でしょう。
是故空中無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身 意無色声香味触法 無眼界 乃至無意識界
空“の世界、あの世は意識界であるから、非常に精妙な心的な世界である。
空″の世界、すなわち魂、意識中心。心の世界は、肉体の五官をとおしてみた現象界とは、全く異なっているということを説いているのです。
「これゆえに、あの世の世界、空の世界、すなわち心の世界は、色すなわち物質的な万物もないから、肉体的な想行識を受けることもない。
眼によって万生万物を見たり、声を聞くことも、鼻で匂いを嗅ぐことも、舌で味を知ることも、身で感触を知ることも、肉体的な現象の法則もないし、眼で見える境界もないと否定している経文です。
現在、私達の肉体についている付属品である、眼耳鼻舌身意の五官六根は、あの世という次元の異なった世界へ持って行くことはできない。
だから、肉体の一切をとおして感知できる現象を否定して、ないという否定の意味です。
これは、空”の世界、実在の世界は、精妙な非物質的な世界である、という説明ともなっているのです。
地上における現象界の大自然は、物質であり、鉱物、植物、動物が相互関係を保って共存しているということは、これまで何度も述べました。
詳しくは、この地球上には、鉱物のように成長せず、風化して変化している不動的な生命体もあれば、植物のように、同じ場所から移動せずに生命を保っている静態態生命もあり、動物のように、生存する場所を自由意志によって変える動的生命もあるということです。
しかし、これらの不動的生命も静態生命も動的生命も、それぞれの環境に適応して安定しているかに見えますが、実は不安定で不確実な、固体的なものです。
その証として、私達は、空中にある電波、紫外線、赤外線、線、線、λ線のような熱線や放射線などを、自分の眼で確認することはできません。
大自然の万物は、ひとときでもその位置を保存することはできないし、今ある形を変えねば生きて行けないからです。
変わること、即ち循環することで生かされていると言えるでしょう。
物質界というものは、このように、不安定で固体的な世界なのです。
空”の世界、四次元以上の世界は、意識界であるから、非常に精妙で心的な世界です。
動的、静態、不動的な各生命も、実はこの非物質的な精妙な生命によって作り出されています。
植物は植物としての意識生命によって、次元を越えた大自然が存在し、物質はエネルギーとしての不動的な生命であり、動物も意識生命としての存在があるのです。
そしてそこは、この現象世界のような、物質的光景ではないということです。
それゆえに、この現象世界の諸現象をとおすような、想いや行動の心もありません。       
空“の世界における意識の発達度合いは、この現象世界と異なって、90%の表面意識が出ており、それだけに相互の意志の疎通は難なくおこなわれるのである。
しかし、この地上における現象世界の人々は、五官六根をとおしての判断によって、行動したり考えたりしているのです。
あの世では、この逆で、すべての現象を、心で感知します。
自分の思ったことがすぐ他人に通じるし、おのれの不自然な想念も表に出るので、ただちに反省、修正してしまえるのです。
これがここに説く、空”の世界、四次元というところの実体なのです。
つまり、いえることは、現代社会の不調和な混乱は、
人間がこの神性仏性の本性を失い、偉大で普遍的な心を忘れ、肉体の五官六根のままに生活して、物質経済の奴隷になり下がっているところにある、ということです。
足ることを忘れ、欲望の中で、盲目の人生を送っているからです。
すべてそれは、肉体が絶対だと思うあまり、知識と肉体的なものに偏った価値観で、心の中のゆとりを失っているからなのです。
偉大な普遍的な魂、その中心である心の存在を、しっかりと認識したならば、こんな混乱は生じないでしょう。
魂を失った人々は、互いに人の心が解らなくなり、自分本位に陥って、小さな自分に成り下がっているのです。
人類はみな兄弟だということを忘れて、互いに信頼することなく混乱した社会を作り出しているのです。
本来、この地上界の一物たりとも、自分の所有物というものはありません。
この世を去るときには、すべて置いて帰らなくてはならないのだ、ということを悟ったなら執着が生まれてくるわけはないのです。
国土とか、わが土地とかいうものの所有権は、人間の永い歴史的な環境が作り出したもので、子孫に受けつがれただけです。
神の身体の一部分である地球を占有しているにすぎません。
だから、社会人類のために、有意義に使用すべきです。
経済もまた、人間の生活の智慧が作り出したものだということを忘れてはならないでしょう。
不平等な、あらゆる環境を作り出しだのは人間、その人々なのです。
人生がこの世限りではないということを悟ったならば、この地球上を人類のために、平等な立場で利用すべきだということが真理なのです。

無無明とは、否定の否定であり、迷いのない世界、ということになりましょう。

ということは、明かるい光明の世界ということです。

あの世、空”の世界は、光明に満ちているということです。
亦無無明尽とは、光明の尽きることもない、ということで、無限の光明に満ち満ちているということです。
この地球上の空は、地球の水が太陽熱や地熱によって蒸発して曇りを作り、太陽の熱や光をさえぎりますが、しかし雲の上は、真青な大空で、太陽の光はさんさんとその雲の上にそそいでいるのです。
地上界では、スモッグという人間の知恵の作り出した公害が問題になっているが、この公害は、人間の意志と行動によって消滅させることはできるものです。
そして。空”の世界は、その場所に住む者達の心の霊囲気が調和されて精妙になっているため、調和の光をさえぎるものがないのです。
そこでは、光明が満ち満ち、光明の尽きることのない無限の力が存在しているということです。
それゆえに、空”の世界では、相互の理解と信頼が当然なこととして自覚され、実現されているから、完全に調和のとれたユートピアの世界です。
地上界で生活している者達の意識は、ほとんど90%が潜在して、過去世で体験したあらゆる智慧が内在され、わずか10%の表面意識により新しい学習を体験し、豊かな心を作り出すために人生修行をしているから、盲目になりがちなのです。
肉体的な五官六根によって、客観的にとらえたあらゆる事象に迷わされてしまい、そこに自ら苦しみを作り出してしまいます。
しかし四次元の世界では、地上の現象世界とは違い、その表面意識は90%で、過去世のあらゆる人生体験の智慧の宝庫が開かれています。
そのため、人智とは違って、小細工もしないし、他の天使や光の天使の心の中は、相互に解っているから、自己保存や自我我欲の心はないのです。
地上の現象世界のように、おれの国だ、おれの地所だといった心はないということです。
他の天体から見たら小さな地球という枠の中で相争い、骨肉をけずっているということは、まことにおろかしいことです。
空″の世界に帰るときには、色の世界で、これは自分の国だ、自分の土地だと思っていた一切の財産を持って帰ることができないのです。
ということは、色”の世界である地球に存在している一切の物は、本来、絶対に、おれの物だというものは存在していないのです。
一時、自分自身の物だと思い違いしているだけで、借り物にすぎないということです。
大事にしていた自分の肉体だと思っていたものでさえ、人生の乗り物として捨てて帰らなくてはなりません。
それは、色”の世界のものだからです。それでも、人間は、執着心から離れることができないのです。
本当の自分を忘れて、物にとらわれているそのとらわれが、一切の苦しみを作り出しているのです。
しかし、あの世の天使達は、一切の欲望から離れているために、所得を得ることがないし考えることもありません。
それどころか、より豊かな広い心の進化を作り出して、現象界の世界を、調和された環境に完成させるための協力を、常に惜しみなく与えているのです。
この慈悲や愛を、盲目の人類は心の窓を開かないために解っていないのです。
人類が幸福になるための協力をしている光の天使達は、決して報酬を求めないため、何の所得もいりません。
空゛の世界、四次元世界の光の天使達は、大宇宙生命の中にとけこんでいる生命ですが、その中で一人一人の個の生命を自覚し、各自が個性を持っています。
丁度、大海にそそいでいる水のように、ひとつに集まる水の粒子、H2Oという個性のようにです。
地上の現象界で、両親の縁によって戴いた人生における肉体の船長、すなわち普遍的な私達の魂も、大宇宙生命の中に、今生きているのです。
それぞれの個性を持って・・・・・。
永遠の転生輪廻の過程において、色”の世界で、今、その魂は人生修行の途上にあります。
もっとも不安定な、粗悪な固定的、物質界の色”の肉体に乗ってしまうと、生まれた環境や習慣や教育や思想によって、人は盲目の人生を送り、生かされている環境に心を向けることを忘れ、大自然の恵みに感謝することもなく、両親すらもないがしろにして、自我の道を突っ走って行きます。
感謝の心がないから、報恩の行為も現われてはきません。
しかし、全人類は、みな神の子として、兄弟であり、その時代の同期生だということを知り、手をとり合って相互の信頼の上に立っていれば、現代社会の人心に混乱はないのです。
親と子、夫と妻、教師と生徒、労使間など、誤った自我の思想が、人々の心を惑わしているのだといえましょう。
惑わされているということは、正道(偏りのない生き方)を忘れ去った人々の驕りであり、すべてに足ることを忘れた人間の末路であるといえましょう。
それを超えるには、執着心を捨てて、欲望の奴隷から自分自身を解放すること、それが先決なのです。
一人一人が魂の偉大さに眼覚め、人間としての本来の品性を悟ったならば、光明の道はおのずからそこに開けましょう。
私達は、空”の世界、四次元以上の世界からきた魂なのです。
そして、今は、肉体に乗って生きています。
なのに、かつて自分が、その環境を、望み選んで現象界へ出た、ということを忘れ去ってしまっているのです。
つまり生まれた環境や、地位や名誉や財産や、貧富の差や学歴の差などといったものはその人の人格を現わすバロメーターではありません。
今生活しているこの場は、豊かな広い心を作り出すための、学習の環境なのです。
自分の望んだ修行の場なのです。
私達はそのことを忘れてはなりません。
そして、自らの希望によって、その縁によって、私達が送り出されている、ということを知ったならば、その環境の中で、相互の関係を良く理解し、信頼を持って生活することが大切といえます。
相互に偽りの心と行為を捨てて、平等、且つ、公平な立場の中で、それぞれの生活の部門の担当を、充分に果たすことが必要だろう、ということです。
より慈愛に満ちた人々と心の交流をはかり、貧しい人々に愛の手を差しのべる、といった豊かな心と行ないが、つまりその人達の人格を決定する、といえるのです。
丸い豊かな心の広さが、本当の人格者といえる人を作るのです。
いかに社会的地位があり、学識経験かあり、経済力豊かでも、自らの欲望に足ることを知らない者達は、貧しい心の持主であり、形にとらわれている憐れな者、としかいいようがありません。
謙虚な心を失い、他人を見下し、増上慢の心を持っている人は、やがて自らを苦しみの中に没落させて行く者達なのです。
心の中にスモッグを作って暗い心を包み、感情や理性に歪みを作り、宇宙の調和された光をさえぎってしまうからそうなるのです。
心は、地獄に通じ、自らの安らぎを放棄した憐れな人達です。
たとえ財産がなくとも、地位がなくとも生活に足ることを知り、友達に信頼され、心にひっかかりがなく、良く他人の面倒を見、家庭にも相互の信頼を築いた人は平和で、生活に不満を持っていません。
このような人々こそ、富める心の人というのです。
心の中に、恨み、そしり、怒り、自己存在の心がないため、スモッグがなく、光明に包まれています。安らぎの境地に生きている者達は、常に心は光の天使達の世界に通じているため、慈愛に富み、偽りがありません。
所得の多寡によって、心の貧富を定めるべきではないのです。
朝は健康で、調和される環境を作り出すために智慧を働かし、希望に満ちて、昼は自らの仕事に精進、努力を怠ることなく、夕は一家団らんの楽しい夕飯をとり、夜は一日の反省と休養の時間が与えられているのです。
人間は、なぜ不満の心を持つのでしょうか。
欲望への執着心を捨て、悪心にとらわれない道によって、足ることを悟り、心の貧しい人々 には正しい偏りのない正道を物差しとして導き、心の革命を起こしてそのこと行為を正したとき、人間から不満の心は消え去ることでしょう。
しかし、不満は常に人々の心の中に影のようにつきまとっているものです。
正しい法則に沿った、正道(偏りのない生活)の道を歩んだとき、その影は、人間の心の中から消え失せてしまうことでしょう。
般若波羅蜜多によって、菩提薩垂になったのは、こうした、四次元世界の光明によるもので、その意味は、「正しく見、正しく思い、正しく語り、正しく仕事をし、正しく生活をし、正しく道に精進をし、正しく念じ、正しく定に入るという八正道の生活をしているからである。
偏りのない中道の物差しで心と行ないを反省し、その曇りをとり除くことにより心の内より光明に満たされれば、四次元の光の天使達が、正しい人生の道を教え導くようになりましょう。
そして、人々の心に人生の意義と価値を教え、迷える衆生を救済して無償の道を歩んで行くことができるようになる。
また、心の中に潜在している過去世の体験、偉大な智慧がよみがえり、悟りの境地に到達して悟られた方、ということになりましょう。
心無菫礙 無歪礙故 無有恐怖
この意味は、心にはひっかかりがない、ひっかかりがないから、恐怖心もないのである。        
ということになりますが、ひっかかりがないということは、つまり、心の苦しみの原因を作らないことだ、といえましょう。
心の窓を開く、ということは、何の拘りもなく、豊かに、清い心を持ち、おそれるところもなく生きるということです。
遠離一切 顛倒夢想 究竟涅槃
この意味は、「一切の、夢のような顛倒(てんどう)した考え方を、遠くに離して、つまるところは最終的(究)な悟り(涅槃の境涯)に入る」という意味になります。
しかし、私達が五官でとらえたものと違って、心の世界、心の眼でとらえた、一切の執着を離れた世界ですから、これは精妙で平和な安らぎのある光景を説明しています。
これは、全く心の曇りがないため、光明が尽きることのない世界ということになります。
良く仏像や仏画を見ると、後光の出ているのを見かけますが、これは、生きている人々にもオーラとして出ているものです。
この後光は、心の調和された人の場合は淡い金色をしています。
心と行ないが正しい生き方に適った人の心の調和度に比例した光で、その光に包まれた人は、安らぎの心を持ち、一切の執着心から離れていることを証明しているのです。
次回は三世諸仏(さんぜーしょーぶつ)から最後まで掲載したいと思います。
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