旧家にある霊的問題

2020年3月7日

精神疾患者やノイローゼの一因
家柄の古い所、その古い血筋、その血縁者に精神を病むケースが多いという一面は実際にあります。
それは旧家ほど家柄や、子孫、土地、財産、名誉などに執着をもったままで死んでいった場合に、死んだ後もそういったものを守るという想念が強いがために自分の心を縛りつけてしまうことによるものです。
物や場所、果ては人間にまで執着してしまうと、執着された人間の場合は病院にいっても説明できない疾患、つまり原因不明の病気という場合があります。
どんなに社会的に立派な職業に就いているといわれている人でも、どんなに財産があって立派な豪邸に住んで人生を謳歌していても、名誉や地位が高かろうとも、心に曇りを生じさせてしまうと霊体は光りを失ってしまい、自らのなかに地獄をつくりだしてしまいます。
ある高齢者の家族の話しですが「おらあ~死んだらお墓にいるから」「私が死んだら仏壇のなかに納まってるよ」とかいうのですが、死んだ後は仏壇にも、お墓にもいてはならないし、そこに執着してはなりません。
生と死
人間は死ぬ時、生きていた間に思い、且つ、行ったことの全てを心に記憶して持って逝きます。
そしてやがて、あの世にいって時がたつと、自分の生前のすべてをまるで映画でも見るように記憶がよみがえってくる。
他人の行動をみるように、自分の行動の全てを記憶した心が再生するわけです。
なぜそうなるのかというと、それは自分自身の内面にある善なる心がそうさせるわけです。
生きている間にどんなに巧妙に人を欺いて財を成しても、偽善を為して人の上に立っても、自分の心はそれが偽りであることを知っているのですから、こういう人生の末路は地獄の境涯であり、しばらくは地上生活とは真逆の、反省と苦悩の生活をしなくてはならないでしょう。
この地上における物質文明は人間がつくったものですが、それは滅びやすく、儚いものです。
私たち人間は、どうしてもその儚い物に強く価値観を見ようとし、拘り、執着しがちです。
た、物や金には執着しない人であっても、自身の業ゆえに、人間関係で劣悪な人生を送っている場合もあります。
この世で生きていくということは、直接的にも間接的にも人との関わりが必ずどこかでつながっております。
それだけに他人や社会との協調性も欠かせないことですが、しかし、自分本位の気持ちが強い為にこの協調性が足りず、人間関係に支障をきたして自分の立場を不利な方へと追いやっていることもあります。
人間がつくりだした物は変わりやすくうつろいやすいが、絶対唯一なる存在が創造した大宇宙の法則と、私たちの魂に刻まれた、愛と慈悲心は誰の心にも内在されて消えうせるものではありません。
また、その愛があるからこそ、悲しみの人には慰めをもち、怒れる人には安らぎをもち、恐れる人には温かく寄り添うことができるものです。
人間は間違いなく時が来れば肉体から離れなくてはなりません。
つまり、死です。
死の刹那に心に浮かぶことは、自分の人生がどうであったかでしょう。
その時に、ある者は悲しみ、ある者は悔いの涙を流し、ある者は死を恐れ、ある者は未練の淵に沈み、ある者は感謝と喜びのうちに息を引き取る人もいるでしょう。
死後の世界における自分の境涯は、生前における心の基準と言う意味においていうならば、如何に人間らしく、広く豊かな心をづくりをしたか、人々の為に尽くしたか、また如何に真剣に今を生きて努力したかでしょう。
たとえ失敗しても、その努力は評価され、それらは良き業となって来世に持ち越されることになる。
過去や過ぎた事を引きずってそこに拘り、更に先を案じ、不安感を増し、恐怖心におののき、今を真剣に生き切っていないことで精神を病むケースは非常に多いのです。
これもまた自分自身の一つの心の傾向性、すなわち癖、業といえるでしょう。
癖を修正するには勇気と決心があれば、必ずや希望の光明が見えてくるものです。
霊的なものの影響によって、自分の心が不安定になったりするのは、根本的には、己自身の心のなかに翻弄されるだけの原因があるからということを真摯に受け止めて、心の傾向性(癖)を修正すべく精進しなければならない。
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