人生を妨げる毒

殿中
悪に生きるものは悪と思わずに生きられるかもしれませんが、人間、正しく生きようとすれば心の悪が見えてくるのは皮肉なものです。
その代表的なところのひとつが、深く限りない欲望。
そして第二に、怒り。
第三に、無知ゆえの愚かに気づけないこと。
この無知ゆえの愚かを仏教では「痴」と表現するようです。
物事や現象には必ず何かの原因があり、その原因の働きによって結果が生じるという法則というものがあります。
自分の足ることを忘れた際限のない欲望の為に堕落したり、大切な仕事まで失ってしまう人もいます。
足ることを忘れた深い欲望は、全てのことを破壊して流してしまうような濁流のようなものかもしれません。
そして、怒りはあらゆるものを焼き尽くしてしまう劫火です。
ものの道理、事の真実ということについて無知ゆえの愚かさは、何が正しい事なのかという判断力を失わせ、人間の心を闇の中に迷妄させます。
昔から怒りの為に人生を無駄にした事例はたくさんみられます。
例えば、武士道(もののふ)の世界では美談として年末の番組などでよくとりあげられてきた忠臣蔵。
松の廊下において吉良上野介(きらこうずけのすけ)の陰湿な言葉に愚弄(ぐろう)された浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)が我慢しきれずに吉良上野介を切りつけたが打ち損じて、後に幕府の長、徳川綱吉の命によって切腹となり、結果的には藩を滅ぼすことになりました。
まさに怒りの火が全てを焼き尽くしたのです。
こうしてみると、人間の欲望は限りないものではありますが、その欲望を捨てることなどできない相談のように思うのです。
であれば、捨てるのではなく、どのようにコントロールするかが重要になってくるのではないだろうか。
よく煩悩を滅却するとか、断滅するとかいいます。
この「滅却、断滅」するという言葉は語源がサンスクリット語で「ニロドハ」というそうですが、調御するということで、コントロールそのものをいうようです。
しかし、この滅却とか断滅という言葉を不可能な事として追いやることもないでしょう。
何故なら、煩悩は心の成就、気づき、悟りの肥やしになるからです。
一般的には煩悩と言うと悪い事の代名詞のように使われた言葉だと思うのですが、しかし、この煩悩を身を以って実感すればこそ心の成就、すなわちたくさんの気づきが得られるということもまた事実でありましょう。
言葉を変えるならば、マイナスをプラスに転じて昇華していくというところに人生の価値があるということでしょうか。
よく整えし己こそ
己を整(調)えるとは、すなわち、身体を整え、心を調え、ものの言い方を調え、身のこなしを調え、考え方を調えるということで、いわゆる正しく、偏りなくコントロールということでしょう。
そのためには何をおいても先ずは、心が一番の元となりましょう。
怒りにまかせて乱暴を働いたり、悪口雑言を吐いたりしてしまうことのないように心の整頓が必要不可欠ですね。
ここにも煩悩は断滅するのではなく、コントロールするものであるという意味があろうかと思います。
煩悩は無くならないものであるから、人間としては偏りなく、正しくコントロールすることのほうが理想的だし、現実的だと思うのです。
五官と意識(六根)
五官と意識と煩悩の関係についてもう一度説明してみます。
仏教ではよく取り上げているのですが、煩悩は「眼・耳・鼻・舌・身と意識を併せて六つが根元なり」としてありますが、この辺のところを少し詳しく述べてみます。
先ず、五官について説明しますと、五官とは、眼・耳・鼻・舌・身(全身)の五つをいいます。
その意味で五官とは純然たる肉体を指します。
ご存知のように意識は肉体ではありません。
意識とは、精神、自我、魂、心などの総体をいいます。
私たち人間の構造は、肉体と霊体と魂から成っており、意識が脳を支配し、肉体を通して生活しますので、肉体と自分(意識)は同一のものと考え、両者を一緒くたに考えてしまいがちです。
しかし、そうはいっても人間は生身の身体ですから、肉体的な疾患によって脳に障害が出てしまうと、その影響は身体の運動機能や思考、記憶にも影響してくることは致し方ありません。
心が健全であっても、肉体、特に脳に障害があるとその影響は大きなものがあります。
次に、六根というものは、肉体である五官に、意識である魂が、自我心のためにとらわれ、執着し、目に見えた現象の姿を真実の姿と見たり、あるいは考えの基本においてしまうので、意識の中に煩悩を生ぜしめ、その欲を重ねることになってしまうのです。
たとえば、洋服をみれば素敵だな、欲しい、自分のものにしたいとする、ブランド品を見ては欲しいとする眼を通しての煩悩が起こり、人の噂に怒りを覚える耳を通しての煩悩もあります。
このほか、嗅覚(鼻)による煩悩、食べもの、言葉による煩悩(舌・口)、肉体保存(身)にまつわる煩悩かあるわけです。
こうした足ることを忘れた煩悩は、肉体五官ではなく、すべて、意である自分の意識の中につくられていきます。
煩悩とは、物や物事に執着した迷いのこと。
迷いに陥った自分を偽我といいます。
私たちは、この偽我に自分を託しすぎるから、争いがつきないないことになってしまいます。
そこで六根とは、五官を通じて生ずる心の迷いの五根と、偽我の自分を加えた総計をいうのであり、これをきれいにしないと、いつになっても平和な心を得ることがでないということを深く心に落すことが大切かと思います
偽我の自分とは、表面意識の小さな自分です。
各人の意識は表面意識と潜在意識があり、表面意識の量はわずか10%しか働いていないのですから、小さな自分になってしまうのも当然といえば当然でしょう。
大きな自分になるには、五官にふりまわされない自分をつくることと、大きな心をつくることを心がけなければならないでしょう。
大きな心とは、先ずは拘らない、囚われない、執着しない、素直で謙虚、そして寛容な心かと思います。
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