心の明暗・善悪

言霊

宗教指導者や信仰を持つ者がよくいう言葉に、「この世は修行の場だ」ということがあるのだが、この修行という美名のもとに、個人の貴重な時間を割いて家庭の犠牲を伴い宗教活動に奔走している人もいる。

その修行という言葉の持つ意味には、肉体的修行もあり、精神的な修行もあり、そしてそれに伴って時間的な問題、経済的な問題、自分が置かれた生活環境の問題、という要素が犠牲となるものである。

行き過ぎた犠牲を強いてまで修行する意味はあるのだろうか。

それは、先に述べたように、肉体を酷使しての修行であったり、精神的に強要された修行であったり、時間を拘束されたものであったり、経済的負担を強いられたものであったりと様々である。

人間が精神的にも、肉体的にも害されてまでする修行とは一体どれほどの意味があるのか、中には片寄った修行の為に発狂したり、命を落とす者さえいるのであるが、このようなことになってまでしなくてはならないなら生まれる必要などないのではないかという考えもある。

良識のある人なら、そのような修行は違うというでしょうが、ではどう違うかとなると明瞭を欠くところもあるので、きょうは修行と心の光明について述べてみましょう。

先ず、体のことに触れておきますが、承知のように、肉体には肉体の役割があります。

その役割をなおざりにし、不健康な状態にまでしてまで、なお悟りがあるとするのは明らかに邪道であり、道を逸脱した観念の遊戯にすぎないであろう。

悟り(高低あり)という心の問題は、健康な肉体と、健全な心にあるといえる。

病弱で意識が不明瞭な者が、どうして、神仏の心に接することができよう。

大自然の計らいを見てください。

太陽の熱・光は常に健康ではないですか。

わめくことも、怒ることもない。

神仏の心は、あの太陽のように、健全な心と肉体にあるはずである。

心をより広く、大きく開くためには、まず健全な肉体が必要であり、その条件を欠くことができないのである。

悟りの大きな前提は精神と肉体の調和にある。

最近は仕事も、カウンセリングも、過密で時間に余裕がなかったが、昨日の夜は時間をとって、静かに瞑想にはいってみた。

瞑想すると、外の暗闇とちがって、黄金色の丸い太陽のような柔らかい光が、私の心を照らしている。

その光景はまるで朝日に照らされたような明るさである。

その明るさが現実のそれと異なる点は、明るさにふくらみと柔らかさがあり、安らぎがあるということだろう。

その太陽の日差しを浴びて、自然の景観が、すこやかに息づいている。

なだらかな斜面のむこうにみえる広大な丘陵は、緑の芝生で埋まり、さえずっている小鳥が私に語りかけてくるようであり、こちらも、つい微笑み返すという心持ちであった。

平和に満ちた丘は、どこまでも明るく、のびのびとして、そして自由であり、永遠の実在とは、今、現実に、自分がながめ、立っているこの場所ではないだろうかと、思えるのである。

我に返って目をひらくと、我が家の庭のむこうはいつもの森林の暗闇が、そこにあった。

私は、瞑想中の明るさと、目をひらいた後の暗闇に思った。

瞑想中の現象は、現実の暗闇を映し出す次元の異なる実在の世界であり、そうして、それはそのまま、明と暗という、心の内面を語るそれではないかと。

すなわち、明の実在と、暗の現実は、そのまま、心の善悪を象徴しており、この善悪を見究めることこそ、気づき、悟りの本質に迫るものであると直感するのである。

私の頬に熱いものが伝わった。

こみあげてくる涙は、とめどなく流れていた。

落ちる涙をそっとふき、明と暗の心について追究していった。

太陽は丸く大きい。

その熱と光を万生万物に、平等に与えている。

黄金色の心の世界を照らしている霊太陽も、慈愛の恵みを惜しみなく与えている。

その心の太陽がなぜ暗くなるのであろうか。

地上に雲がかかると太陽の光がさえぎられてしまうように、心の太陽も、自らの心の曇りによって光がさえぎられてしまう。

人間の苦しみ、悲しみは、この曇りがつくり出しているのだ。

湖面に映る夜月は美しい。

しかし、ひとたび水面に波紋が描かれると、その月影は無残に崩れてゆく。

人間の心もこれと同じように、湖面に映る美しい月影は丸く豊かな詩情をたたえており、波紋という心の乱れさえなければ、いつまでも大自然の恵みと、その美しさを失わずに済むのである。

母親のそばで無邪気にたわむれる小さな子供はかわいいものだ。

苦しみも、悲しみもない。

しかし純一な子供が、時とともに成長し、家庭の環境、教育、友人の交流によって、次第に自我が芽生え、純一な心に陰をしのばせてゆく。

がて、周囲のさまざまな影響によって己という意識が確立され、自己保存の念は、片寄った価値観の心身を形成して行く。

苦しみの原因は、こうした自我のめざめからはじまるのである。

自我のめざめは、さまざまな波紋を描く。

自分の都合の悪いことには感情的となり、耳ざわりの良いこととなると腰を浮かしそれに乗ってしまう。

なぜそうなるかということを、みつめようとしない。

過去も現代も、世の混乱の元は、問題の原因を求めず、こうした自己の都合、現象に左右されてしまうからであった。

自然をいろどる様々な色彩、山川草木は調和されている。

人間社会の闘争と利己主義、階級制度、インテリ層の優越感には多くの矛盾がみられる。

「生れてこなければ、このような苦しみを受けずにすむものを」と考えるが、生れてきた以上は人間には、何らかの目的と使命があるはずである。

その目的とはいったい何か。

使命とは何なのか。

いかなる者も、いつかは年をとり、病気をし、死んでゆく。

死から逃れることは何人もできない。

人間の致死率は100%である。

どれほどの学歴のある者も裸で生れ、そしてやがて死んで行く。

人間、死ぬときは地位も名誉も、財産も、すべてこの地上に置いてゆかなければならないのだが、誰れでも欲望の火は消えない。

五官を通して感知できる現象世界は、無常そのものである。

無常と知りながら、欲望に満ち足りていながらも、なお人間は悩みを持ち、欲望にほんろうされている。

人生は、所詮苦しみの連続である。

苦しみのない人生があるとすれば、それは現実との妥協か、逃避か、自己満足の何れかであろう。

「生れてくることがまちがい……」といわれても、太陽が東から西に没するという輪廻の循環の法則は、人間の魂にとっても例外ではないはずだ。

とすれば、欲望を持ち、苦しみをいだいて一生を終えれば、その苦しみは繰り返すことになろう。

苦しみの繰り返しは、人間にとって最大の不幸である。

少なくとも、こうして人間として生れてきたからには、苦しみをいだいて死を迎えることはさけたい。

万人が万人、その望むところは、死を迎えるまでに、その悩みから解放されることではなかろうか。

心の幸せこそが解脱ともいえるであろう。

その解脱の道とは何であるのか。

万人に共通する解放への道は、どんな道であろうか。

人間はめざめているときはあれこれ考え、思い悩む。

しかし、ひとたび眠ってしまうと、一切がわからなくなってしまう。

耳や鼻、心臓も、胃腸も、めざめているときと同じように働いているのに、眠ると何もかもわからなくなってしまう。

いわんや記憶すらも消えている。

目がさめて、はじめて、昨日のこと、朝の現実を知り、再び、あれこれと想い、悩みがはじまる。

そこなのだ!

苦しみの原因は肉体ではなく、心が問題なのだ。

思うこと、考えることの心の作用が、諸々の苦しみや悩みを生み出している。

その悩みは肉体の眼と、社会生活の体験と自ら学んだ知識によって、あるものを美と感じ、醜いと見たり、あるときは善と思い、または悪と断じているためにほかならない。

しかし、私たちに中道の心があるならば、こうした不調和な思いは生じてはこない。

人間は、生きんがための我欲と、中道という正しい見解を欠いたために、争いと不平等という矛盾を生んだのである。

多くの場合、肉体の眼を通して得た自らの体験と知識は、我欲を土台にした偏見になっている。

そのために、人間社会は、諸々の矛盾と執着をつくり、自然が教える中道の心から離れているのだ。

真実が不明になっている。

わからなくなってしまった。

国と国との争いについても、そのモトをただせば欲望である。

自国の利益優先だ。

自国の利益が失われる、あるいは、より大きくするために他国を侵略する。

そうして、勝ったり、負けたりの繰り返しである。

勝ち負けの輪廻は、その渦中から抜け出さないかぎり、永遠に続くだろう。

なぜ譲り合いができないのか、すなわち、苦しみの輪廻は、その苦しみの中に想いが止まるかぎり、果てしなく続いて行くものである。

中道にそった調和を、人が志さないあいだは、真の幸せを掴むことはできない。

まず人は、正しく見る目を養うこと。

我欲を去った調和ある見解を持つよう努めることであろう。

それには、己という立場があっては、正しさを求めることはできまい。

正しさの尺度は、男女の別、老若の別、地位、名誉の別、こうした立場を捨て去って、一個の人間として、大自然の己として、そしてその心の目で、ものを見る、相手をみる、現実を眺めることであろう。

官職にある者が、ひとたび野に下ると、官職時の感覚とはまるでちがって、会社の利益のために、あとに残った後輩たちを困らせることを平気でやっている。

そうかと思うと、ついこの間まで、鬼検事といわれ、恐れられていた人が、一夜にして弁護士に変身し、法廷で主客ところをかえて、弁護に立っている姿をみると、人の心の所在が、いずこにあるのかわからなくなってくる。

調和の基本は、まず何はさておき見ることの正しい評価にあるといえよう。

現れた現象の背後には必ずその現象を映し出す原因がなければならないからだ。

また、自分に直接関係のある諸問題が派生したときは、まず自分自身の心の姿を見ることが大事だ。

肉体の眼を通して外界の動きを正しくみるためには、その眼の奥にある心眼がキレイに磨かれていないと肉眼に映った諸現象もゆがんでしまうからである。

各人の心は鏡である。

その想念という鏡をたえず掃除しておくことだ。

掃除は反省を通して磨かれてゆくであろう。

「正見」につづいて、「思う」ことについても中道の尺度は必要だろう。

思うことも、自己中心になると人との衝突はさけられない。

思うことは具象化するからである。

親愛の心を持って人に接すれば、人もまたそれに応えてくるだろうし、食べ物も、食器も、家も、着物も、テーブルも、橋も、馬車も、すべて「思う」ことから出発し発明化している。

それゆえ、思うことが自己本位に流れると、人と人との調和を崩し、争いの種をまくことになろう。

「言葉」にしてもそうだ。

ヒョウタンから駒が……という古人の経験的な教訓は、一面の真実を語っている。

相手を見下す言葉、野蛮な言葉を使っていると、いつしかその言葉に自分の心までが犯され、相手の心を剌激し、争いの原因をつくる。

言葉は言魂であり、生きた波動である。

謙虚な言葉、いつくしむ言葉、優しい言葉、勇気ある言葉、思いやりの言葉など、正しく語ることの重要性は、人間が社会生活を営むかぎり、絶体に欠くことのできない要件の一つである。

瞑想の時間はそれほど経ってはいないのだが、明と暗の心について、一気にここまで心に浮かんできたのでした。

そして正道に入る三つの尺度を思い、正道の尺度は、これだけだろうかと確認した。

気持をリラックスし、さらに考えをめぐらしてみた。

考えると、かつて学んだことがスーッと浮んできた。

「仕事」「生活」「精進」「念」「定」の五つがうかび上がってくる。

考えの視点をかえ、それに向うと、その問題に対する答えがまるで泉のように湧いてきて、不明の点が明らかになってくる。

智慧の袋が、自分の五体のどこかにあって、その袋から流れでてくるのである。

まず「正業」に考えを進めてみた。

「仕事」は、自らの生活を助けると同時に、人々の生活にうるおいをもたらすものである。

健康で、快活に仕事ができるのは、自然の恵みと、人々の協力の賜であろう。

正しく仕事をするには、まず感謝の心が大事である。

そうして、その感謝の心は、報恩という布施の行為となって実を結ぶものであろう。

地上の調和は、この「仕事」に対する心構えによって大分ちがってこよう。

感謝と報恩を軸として、勇気と努力、それに智慧三位一体となって働くときに、この地上はよりいっそうの豊かさをまして「正しい生活」とは、人生の目的と意義を知った生活であろう。

人間の生活は、大自然が調和されているように、調和にあるはずだ。

助け合い、補い合い、笑いのある生活でなければなるまい。

それにはまず己自身の調和をつくってゆく。

自分の長所をのばし、短所を修正してゆくものだ。

自分が円満になれば周囲もまるくなるはずである。

自己をみつめる厳しい態度をはずして、正しい生活はあり得ないものだ。

「道に精進」とは、親子、兄弟、友人、隣人における人間としての在り方であろう。

人間は大自然と人との関係を通して、はじめて自分自身の大きな自覚に到達できるものである。

大自然もない、自分以外の人間も存在しないなどと考えるのは愚かなことだ。

同時に、自分以外のあらゆる存在は、自己を認識するための材料であり、魂の向上に不可欠なものであろう。

親子、友人、隣人の関係を通じて、自己の魂を正しく磨いてゆける現象界は、天が人間に与えてくれた慈悲でなければならない。

道への精進は、人間の特権であり、神の慈悲である。

動物にはみられぬ偉大な要素を持った者が人間であるからだ。

私は更にこれまでの人生を振り返ってみた。

自分が現在までなしてきた行為が、また為しつつある行為が自己の魂を正しく磨く道から外れていないかどうかである。

やはり、多くの人たちに迷惑を、親に心配をかけ、人々に支えられて今日の自分があることに、懺悔の気持ちと、感謝の気持ちが強く湧き出してくる。

「正念」について考えていった。

念は願いである。

念のない人生、念のない生活はあり得ない。

人は今日より明日を思うから生き甲斐が生れるのであり、明日のない人生は死を意味しよう。

今日に生きる者は強者だが、人間は、死の瞬間まで希望を託して生活していくものだ。

その希望が自己本位に傾くと、人との調和が崩れ、自分自身も立ってはいられない。

念のあり方も調和という中道に適ったものでなければならないし、「正しき念」は無制限に発展する欲望をコントロールし、足ることを知った、人生の目的を自覚した願いでなくてはなるまい。

ここで前回投稿した、念と祈りについて再度述べてみたい。

念も祈りも、ともにエネルギーの働きから生れる。

ものを考える、思うことが出来るのは、人間の五体の中に、そうした創造能力を生み出すエネルギーの働きがあるから可能なのである。

睡眠中は、こうした能力は働かない。

これは、エネルギーの休息であり、同時に、エネルギーの補給のために、人間は、睡眠中に、次元の異なる世界に旅立つからである。

魂というと、否定する者もあろう。

しかし、魂のない人間は一人もいないのだ。

魂とは個性を持った意識をいうのである。

睡眠は、魂と肉体との分離であり、このために、グッスリ眠ると鼻をつままれても、地震が起きても、わからないのである。

目がさめるとは、魂が肉体に入ることである。

考える、思うことは、肉体がするのではなく、魂を形成しているエネルギーの働きがあるから、可能になってくるのである。

念も祈りも、個性を持った魂の働きによって行なわれる。

念は、人間の目的意識を現わした働きである。

誰々と結婚したい、出世したい、事業をひろげたい、老後の生活を安定させたい、子供が素直に育って欲しい、というように。

人間である以上、こうした目的意識を持たぬ者は一人もいない。

目的意識があるから、文明や文化が育ち、社会生活がエンジョイされてくる。

ところが人間は、肉体を持つと、肉体にまつわる想念に支配されてくる。

自己本位になってくる。

これは俺のものだ、人に構っていると生きてゆけないというように、争いのモトは、こうした自己本位の想念、つまり、そうした目的意識を持った念の働きが作用するために起こってくる。

そこで人間の目的は、調和にあるのだし、調和とは、助け合い、喜びをわかち合うことなのだから、人間の目的意識も、ここに焦点を合わす必要があるのだといえよう。

正念は、こうした調和という尺度を通してなされるものであるし、正念の次元は、それゆえ、非常に高いものになってくる。

仕事について考えると、仕事そのものは、社会に、従業員に、家庭にたいして、その生活を保障し、うるおいをもたらすものだ。

仕事に忠実であることは、正念のあり方に適ってくる。

このことは、主義や、主張や、社会制度に関係がない。

社会主義であろうと、資本主義であろうと、仕事に忠実に打ちこんでいく態度は、そうした制度とは本来無関係であるからである。

問題は、それによって生み出された利益、収入をどのように使っていくかによって、それぞれの念の在り方がどのようなものであったか、違ってくる。

つまり欲望を満たす自己本位のためだったか、それとも、その利益を家庭に、従業員に、社会に還元するためだったか。

足ることを知った念の在り方は、人間は自己本位に流れやすいので、正念を生かす一つの尺度として、必要なことなのである。

正念の在り方、生かし方は、こうした足ることを知った考え方を踏み台にして、昇華してゆくものである。

つぎに祈りについて考えてみると、祈りは感謝の心を表わし、その心で生活行為をしていく思念である。

人間は、一寸先が闇の中で生活している。

明日がわからない。

いつ災難がふりかかり、あるいは喜びごとがあるかも知れない。

隣の人が今、どのように生活しているかもわからない。

そうした中で、健康で、楽しく、明るく生活できることにたいして感謝する気持が湧き上がって来たときに、私たちは祈らずにはいられない気持になるものだ。

しかし通常は、願いごとに終っている。

神社仏閣にいって、こうして欲しい、ああして欲しいと手を合わせる。

なかには仏壇の前で先祖に向かって願い事をする人もおり、亡くなった両親に対して「お父さん、お母さん私を守ってね、家族を守ってね」などと願いの対象としているのである。

しかし、これは間違いである。

正しき生活行為、つまり調和に向って努めているときには、その願いごと、祈りはたいてい叶えられる。

これは自助努力の賜だ。

そして、正しき「祈り」は、次元のちがったあの世の天使の心を動かし、その願いを叶えてくれるからだ。

この意味から「祈り」は天使との対話であるといえる。

奇跡といわれるものは、こうした「祈り」によって起こるものである。

人間生活にとって、「祈り」のない生活は考えられないし、独裁者が自分以外の人間のこうした思念を押さえ、支配しようとしても押さえることはできない。

ただこれまでの「祈り」は、我欲のそれに使われ、祈っておればタナボタ式に、なんでも叶えられると思われている。

念仏を唱えればうまいことがある。

祈っておれば救われるという風に考えられてきた。

そんなものではないのである。

こうみてくるとは、目的意識であり、創造活動の源泉であり、祈りは、生かされている感謝と報恩の心、進んでは神との対話であるといえる。

そうしてそのどちらも、エネルギーという力の波動によって為されていることが明らかになったと思う。

さて、「正定」について考えてみた。

正定の根本は反省であろう。

反省の心は光明世界に住することへのかけ橋であろう。

ねたみ、怒り、そしり、そして諸々の執着から離れるには、反省をおいてほかにはない。

反省を積むことによって、心と肉体の調和が生れ、進んでは己の心と大宇宙の心との合一がはかられよう。

反省せずして、心を空にすると邪悪な霊達とコンタクトされ危険である。

正定は反省という止観行為でなければならない。

私はこれまでの人生を省みて心の点検を行い、以上の八つの規範に照らして、洗い出してみたのであるが、なわち、八正道という八つの正しい心の在り方に照らして、自分の過去をふりかえってみたのである。

ゆっくりと瞑想三昧から覚めると午前一時になっていたが、ちょうど一時間ほど経過していたにもかかわらず、私にはほんの一瞬のように感じられたのだった。

心が安らぎ、そのまま静かにやすんだ。

一瞬の間に夜が明けた。

小鳥たちのさわぐさえずりが聞えてきた。

再び自然界の調和を感じられたことに感謝の言葉がみつからない。

※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。このブログを他の方にも読んでほしいと思われた方は下のバナーをポチッとクリックして頂ければ幸いです。

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