宗教被害・マインドコントロール

禅定
マインドコントロール
毎月の会費、救霊費、諸々と何をするにもお金がかかるシステムの教団は多い。
〇〇の〇学や、当時の〇〇〇真理教が社会問題化して以降、〇ー〇〇メ〇トでもトラブルが続出し、会員の家族から多くの苦情もあがり、「息子が帰ってこないので脱会させたい」との声があがったことがあった。
また、〇ー〇〇メ〇トの幹部にあたる『九頭龍師』に認定されるには当時1000万円近くの費用が掛かったとも言われ、高額の御祓い料が問題視されたこともあった。
実際、過去には「救霊」「秘法」と称した儀式への献金を集め、関連会社が64億円もの所得隠しを国税当局から指摘されてニュースにもなっている。
九頭龍師になるには過去200万円程度必要でした。古い話になりますが、第1期九頭龍師が1990年頃に募集され、その当時の研修費(玉串料)が200万円現金一括払いということでした。
ちなみに九頭龍師の資格と同時に救霊師の資格も併修する者が多数いました。
この研修費(玉串料)は300万円でした。
クレジットを組んでまでもそういった霊的な力を得たいとする会員の盲信は、人間の欲望という愚かさゆえのことであるが、これこそが人間の心理をうまく利用したマインドコントロール以外のなにものでもない。
そしてまた今、この教団に関わる人から霊障の相談が一件きている。
自己を愛する
信仰は自己を愛することから始まる、こういうと殆どの人が、それは間違っている、慈悲とは他者を愛することだと反論されるかもしれません。
もちろん、他者を愛するということも大事なことである。
だが、他者を愛することが大事だからといって、自分自身は粗末にしてもよいのか、他者は人から愛されて幸せになったとしても、自分自身が不幸になれば、幸せはどこにもなく、これもまた偏ってしまう。
これまでの宗教家の大きな過ちの一つは、「他を愛することばかりを強調して、自分自身を大事に愛することを教えなかった」ことにあると思われますがどうでしょうか。
だから、人に施しなさいといわれて人のために布施し、教団に寄付しても、自分自身では幸せにならなかったという人が実際にたくさんいる。
ことわっておかなければいけないが、ここで「自己を愛する」というのは、私を愛して欲しい、愛されたい、私だけを愛して、というような利己的な愛ではなく、自分も他も同時に幸せになるという「真実の愛」のことである。人間の持つ愛は、他を愛する以上に己が可愛いものである。
ある王がお釈迦様に尋ねた。「仏陀よ、人を愛するとはどのようなものか。」
お釈迦様は答えられた。
「人の思いはどこにでも飛んで行くのだが、どこに飛んでいこうと自己より愛しいものを見つけることはできない。それとおなじように、他の人々もまた自己をこよなく愛するものだ。されば、自己の愛しいことを知るものは、他の人々を害してはならぬ。」と
愛とは相手に対する深い理解である。
自分自身を大事にできるのは自分自身しかない。
自分身を大事に愛することができる人が幸福になるのであり、自分を粗末にして愛さなかった人が不幸になるのである。
自分を大事にする人は、人をも大事にすることができる。
自分自身を自分が愛すると同じように、他を愛し、他を大事にすることが本当の愛ではなかろうか。
利己主義は、表面は自分を愛しているようであるが、実際は人から嫌われ軽蔑されて自分を不幸にする。
自分の生命を大事にしなければならないことがわかっている人は、決して他の人の生命を粗末にするようなことはしない。
私たちは、自分が自分自身を愛すると同じように人をも愛さなければならない。
釈尊がいわれたのは、自分が自分を愛する愛と、自分が人を愛する愛とに、なんら差別があってはならないということであろう。
自分を正しく愛することができる人がまた、他の人をも愛することができるのである、ということであった。
さて、自分自身の心の中に苦しみや悩みをつくることは、自分で自分を愛することになるのであろうか。
自分が不幸になるような心を持つことは真に自分を愛することになるのであろうか。
このことを考えたら、宗教団体が「神仏を愛せよ」という言葉の下に、間違った教導を行い、信者に心の苦しみを与えていることは真の愛であろうか。
無理して寄付せようとするということが愛になるのであろうか。
口では愛だ、慈悲だ、布施だ、布教だ、奉仕だといいながら金銭的負担を強いて家庭崩壊寸前まで追いやることが真の愛だろうか。
真の教導だろうか。
毎月これだけ本を買えということが愛なのであろうか。
やめて行く信者の背後から、「恩知らず」とか「罰が当たる」という言葉を浴びせることは愛なのであろうか。
救霊師の称号をもらうために数百万の金をクレジットを組んでまでも会員に推奨するカルト教団が慈善活動を以って隠れ蓑にするという事実は多くの家庭崩壊のもとになっているようだが、これが愛のある教団であろうか。
ともかくブログを訪問してくださっているあなたが、これまでなんらかの信仰をしてきて、そのために心に苦しみと悩みを感じたとしたら、その信仰は間違ったところがあるのであるし、自分自身を愛するならば、心に苦痛を感ずるような宗教は、自分自身を愛するが故に勇気を以てやめるべきである。
そうして、真に心の安らぎを得られる道を求めることであると思う。
だから、真の信仰には、取るべきものを取り、捨てるべきものを捨てるという勇気が必要になるのである。
得るべきものを得ず、捨てるべきものを捨てきれないでいる信仰者は実に多い。
疑問を持ちながら、苦しみを感じながら、「恩」という言葉や人間関係等にとらわれて、信仰をしている人は、自分を愛することを知らない人たちである。
釈尊が説かれたような真の愛、慈悲がわかっていたら、信者の心を苦しめるような教えを説き、運営をすることは絶対に出来ないはずであるが、現在の宗教団体の信者が、みな、心に苦しみを持っているということは、その指導者たちが神理がわかっていないからである。
だから私は、「自分を愛することに勇気を持ちなさい」と申し上げたい。
人間は正しい教えを心で感じたときにこそはじめて心の安らかさをもつことができる。
心に疑問奇持ちながら信仰しても、疑問を持っている信仰が私たちに心の安らかさを与えることは絶対にない。
罰が当たるといって後ろから脅す宗教が正しい宗教であるはずがない。
「罰が当たる」といわれたらその人は心をおののかせるであろうことを考え、愛の心があればそういうことは絶対にいえないことであると思う。
正しい宗教か否かを判断する基準としていくつか述べてみました。
細かく挙げればまだあるが、しかし、ここに挙げた基準を以て、現在の日本の宗教を見るならば、その判断は自らして正しい判断ができるはずであります。
正しい信仰をするためには、間違ったことは信じないという意志の明確さと、正しいと思うことは実践するという勇気を持たなければならない。
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