間違った信仰と憑依

Saitou 2013年8月7日 9:49 PMの「動物霊の実態・ペットの行先」へコメント
死んで輪廻に入った狐・蛇が現世に災いをもたらすなど何を根拠に語ってらっしゃるのですか??
一生懸命生きて死んだ狐や蛇に失礼です。もうおやめなさい。
何故狐は狐に祟らないのですか?何故蛇は人間にだけ祟るのですか??
自然界に生きる動物は霊障に悩まされているのですか??????
必死に生きようとしない者こそが上手く行かない理由を作り、「自分だけは」と持たなければいけない正義を捨て去っているのです。
狐はあなたを恨みません。自然の法則の中、生まれ死にます。
あなたは狐の死骸など見たこともないでしょう。
例えあなたに殺されても、野犬に殺されるのと同じです。
狐に呪い殺された野犬がいますか?
蛇はあなたを見れば逃げるでしょう。それが普通です。
人間が作り出した恐怖心を伝播させるのはもうおやめなさい。
人とは弱いものです。
あなたは覚者ではないのですから、生老病死からは逃れられません。
ましてや人様に伝えるなど身の程を弁えなさい。
仏は見ています。
まず「恥」と言う言葉を知りなさい。
2013年8月8日朝 saitou様への私の返信内容
Saitou様。おはようございます。
ご批判のコメントありがたく拝見しました。
私の記事があなたにとって、よほど腹に据えかねたことなのでしょうか。
 それとも、ただ単にあなた自身が感情的な方なのでしょうか。
あなたは仏教に詳しい方のようですが、おそらく、私の投稿記事の表面だけを捉えて真意を理解せずに誤解されていると思います。
憑依の事実は動物の側にあるのではありません。
人間の不調和な想念が呼び込んでいるものです。
この世の動物のことはさておき、あの世の動物たちのことを理解できたらこのようなコメントをくださることもなかったでしょうが、残念ながら、あなたはわかっておられないようです。
その誤解の状態に私が説明を加えてもおそらく真意は伝わらないでしょうからやめておきます。
残念ながら、あなたの文面の随所に感じるのは感情が先走った激しい怒りです。
私のプロフィールは公開してありますからご存知でしょう。
私は、初めてメールをする方にはマナーとして簡単に自分の紹介をしていますよ。
自分の姿が見えないことを盾に、厳しい口調で批判の言葉を送りつける。
あなたは動物に対する優しさがあり、正義感もある方だとは思いますが、このような感情をあらわにしたコメントの切り出し方はあまり感心しません。
余談ですが、私は子供の頃から大の動物好きで犬を飼いました。
これまで5頭飼いましたが、うち2頭は野犬を保護して愛犬としました。
野犬とはいっても飼われた犬が捨てられ骨折していた犬です。
私が住んでいる場所は街から離れた農家が点在する山間部です。
毎年、たぬきや、狐、蛇、の死骸を発見します。交通事故の犠牲です。
私は、その死骸を拾って帰り、私が所有する小さな山に埋葬します。
あなたが言うまでもなく、私自身、生老病死から逃れられるとは思っていませんし、覚者とも思っておりません。
現実を受け止めて生きておりますよ。
もう少し冷静な言葉でコメントをいただければと思います。
失礼いたします。観童(ここまでが返信内容)
さて、本題に入りますが、私は、これまで地獄霊(未成仏な人霊)や動物霊の憑依や悪影響について何度もその原因を述べてきました。
また霊的な問題にも緊急事態に限り対応してまいりましたし、その事例も一部に限りブログに紹介してあります。事例『死後の世界』
私は、人間の生き方心の在り方について記事を掲載し、関心のある方には参考にしていただくことを目的としてはいますが、霊的な問題について積極的に関わることはしておりません。
何故なら、霊的な問題にどれほど取り組んでも、私たちの生き方に問題があれば何らの進展もなく、いつまでたっても霊的なトラブル(憑依)がなくなることはないからです。
このような理由から、霊的問題の解決以上に、私たち自身の心の在り方や生き方に真剣に取り組むことのほうが重要だと捉えているからであります。
コメントを送ってきたsaitouさんという方は、私のブログの一部を読んだだけで深く理解もせず、その真意もわかっておられなかったのでしょう。
きょうは、あの世の動物霊の実態と人間が憑依されることの原因と実態について、正しく理解していただくことを願い、再び述べることにします。
古来より、人間は人智の及ばない自然現象や神の存在に畏怖し、敬ってきました。
しかし、時代の変化と共に社殿や仏閣を造り、ご利益を求める対象として拝むようになったことは誰もが知るところでしょう。
例えば、稲荷神社に出向き、神殿に平身低頭の姿勢で額ずき、神官が商売繁盛の祝詞(のりと)を奉唱(ほうしょう)します。
一般的に私たちが知り得る光景はここまでですが、さらにこのことに一歩踏み込んで4次元の世界を観るならば、神殿には白狐が居を構えているのです。
そして、境内(けいだい)や霊界の奥には、その白狐の使いとして、修行の途中にある野狐たちの霊体が数多く存在していることを正しく知る人は少ないでしょう。
この野狐の集団を眷属(けんぞく・稲荷神の使い)と表現しています。
実際は白狐を神として拝んでいることになるのですが、これは進化の途中にある狐の霊体であって神ではなく、あくまでも動物霊だということを知っておかなくてはなりません。
動物が好きで飼ったことのある方ならわかると思うのですが、人間がそうであるように、動物の世界もそれぞれに個性もあり執着もあります。
特に、動物の場合は人間のように理性や、知性ということが欠けているために、本能と感情のままに行動する傾向にあり、人間の側が不当な扱いをすれば怒りをもって対抗してくるのである。
この世の動物に対してもそうですが、あの世の動物霊に対しても利用するだけ利用して心を向けない人たちの接し方が眷属たちに不満を持たせ、怒らせることになり、禍を招くことになるのです。
このようなことの発端は人間の欲望の果てであり、ご利益を求めた自己中心の信仰からであるということを知らなければならないということです。
この地上に生息する動物も、あの世に還れば、これまでの延長上で魂の修行が待っているのは人間と何ら変わらないのです。
特に念が強く、ある程度知恵の働くあの世の動物霊も、人間になりたがり、憧れるものたちが多く、それが不調和な人間に憑依することの一因でもあります。
更に、あの世の光の天使達のなかには、あの世と地上界の人々のなかで、調和された丸い心を持つ人々に、不調和な地獄霊や動物霊達が、近よらないようにする役職を持つ天使達もいます。
これを、諸天善神ともいっている。
例えば、仏教でいう弁財天とか大黒天とかいうと、何か金儲けの手助けのように思ってご利益信仰をする人々も多いが、これはとんでもない間違いです。
彼らは、金儲けの協力者などではないということを、知らなくてはなりません。
弁財天とは、心のなかに埋没している、転生輪廻の過程に造り出された私達の智慧の宝庫を開くための協力者であり、大黒天は、肉体を持った光の天使達が、正しい法を流布するときのあの世の協力者のことです。
それを、現代人の多くは偶像化してしまって、これに祈れば財産に恵まれると思っている人が多いのですが、残念なことに、全く金儲けには縁の遠い、諸天善神なのです。
また、稲荷信仰に崇拝される稲荷大明神とか、あるいは、竜神、竜王といった善神もいます。
彼らは、動物霊達に、道を教える役職にある天使達であると同時に、その司の使命を担っているのです。
特に未熟な狐霊などは、霊的に強いものを持っているところに、神棚や神社などで拝まれることをきっかけに、人々の心を不調和に導くことが多いので、盲目な人間はこの未熟な狐霊を稲荷大明神として祭ってしまっている場合が多い。
狐は、稲荷大明神ではないのだということを、私達は知るべきです。
竜王達の役割は、あくまでも、万物の霊長である人間が、この地上界を去って心の豊かさを修行することを全うするため、動物達に正しい道を教えることだといえる。
そして、それは、もっともきびしい修行所であり学習であるともいえる。
なぜなら、動物達は、感情の気性が強く、本能的で、指導はむずかしいからです。
竜王、稲荷大明神と呼ばれている諸天は仏教でいうところの菩薩、すなわち、上段階の光の指導霊になるための修行過程の呼称と理解していただきたい。
だが、失敗する機会の多い環境ともいえる。
何故なら、諸天善神にとっても蛇霊や狐霊達を指導することは非常に、むずかしい修行であり、この地上でいうと、約三百年近くも、きびしい環境で修行しなければならない。
世間では、竜神だの稲荷大明神だとかいうと、実際は狐や蛇、竜などを指していっているが、それは誤りです。
本体は決してキツネや蛇の姿をしてはいおられないということです。
人間が利用してきたあの世の未浄化な動物霊達は、欲望に翻弄された盲目同様の人間をからかったり、また彼らも人間になりたいと思っているため、自分をアピールしたがり、当てごとに加担したり、物理現象を起こしたりと、いろいろな現象を出して気をひいてもて遊んでいる。
しかし、未浄化な動物霊達と関わり、それらを利用したりする者たちは自我我欲にふけり、偏りのない調和された人の道を失ってしまうというのが非常に多いということ。
以前にも掲載したことの話題ですが、私の所に、会社を経営する恰幅の良い女性社長が来たことがあります。
この女性社長、非常に自己中心的であり、傲慢な心をもっていることが読んで取れたのですが、邪悪な信仰をもっていることもわかった。
そして会社の事務所に稲荷の神棚を祀っていることもわかった。
後日談ですが、この女性社長の会社に勤めていた方が人生相談に見えた。
まるで打ち合わせでもしたようなタイミングです。
この相談者の内容は、退職したいということと、社長の身勝手な言動に社内がいつも戦々恐々として、うつ病を発症する人や退職者が後を絶たないということだった。
そして、女性社長の邪悪な宗教の話し、稲荷神の神棚の話を事細かに話してくれたのだった。
およそ、狐や蛇や竜などが、私達人間の守護霊や守護神になるということは、絶対にないということを知るべきです。
龍と言ってもその霊格には段階があります。
ただ、狐や竜や蛇達が、良く正しい法と道を心得て、竜王達の仕事を手伝う、ということはある。
しかし彼ら動物霊は、竜神でも竜王でもなく、まして、神と祭られるようなものではないということを知らなくてはならない。
屋敷に祠をつくって蛇神信仰をする人たちもいるが、その実態は祠の所に蛇がとぐろを巻いて舌をペロペロと出していることを知ったらどう思うだろうか。
読者のあなたはそういう光景をみたら拝むという行為をするどころか近寄らないだろうし、人間は見えないから蛇の霊体を神として蛇神信仰してしまっているということでしょう。
ハッキリと述べておきますが、動物霊が人間を正しい道に導くことはありません。
皆さんの身の回りをよく見ると、商売繁盛を目的に、稲荷神社のお札を神棚に飾り、祭ってある家庭や店舗があるが、欲望を満たすためだけの祭りをするというのは、非常に危険なことです。
神頼みをせずとも、自分たちの努力で繁栄させることであり、そうすることが人間の生き方ではないだろうか。
神頼みは必ず後から問題が起きてくる。
何故なら、動機がご利益信仰であるために、人間の都合による依存信仰であり、本体が動物である狐や蛇の霊と知らずに拝んでいるからです。
狐や未熟な竜や蛇達は、人間の願いを聞くことがあるが、まずその家庭を混乱に陥れてしまう。
彼らを見ること、彼らと話すこと、彼らの言葉を聞くことができる者ならば良いが、何もわからない人が欲望のために、また知らないとはいえ神頼みのつもりで彼らを利用すべきではない。
祈って商売繁盛しても、人間はすぐ驕り、高ぶり、彼らにお礼をすることも感謝することも、供物することも忘れてしまう。
そんな具合だから、狐や蛇から必ず不満が出て、その家から病人が出たり、商売が左前になったりしてしまうのです。
動物との付き合いは地上での生活がそうであるように、主従関係をわきまえたものにしなければならず、あの世の動物たちのためにもご利益信仰をやめて崇拝してはならないということ。
地上人間の愚かな行為によって霊界に出来上がった悪しき構図は物を壊すように簡単に消滅できる問題ではないのです。
一方、太陽は、万生万物にどんなに熱や光を与えても、決して私達に何かの要求をするようなことはしません。
真の神の心というものは、そんな動物霊たちとは違います。
動物霊の多くは、人間のような慈愛がなく、本能と欲望のままに生きているということを忘れてはならないし、その意味を知っておかなければならないのです。
私達は、よくよく気をつけなければならないし、このようなご利益信仰を信じている人々や、指導者の人格を良く見ることが肝要かと思います。
 怒りや妬みや、そしり、我欲、傲慢、物欲、金銭欲が強くあり、言葉と行ないの違う人々が多いからです。
私達は、欲望を満たそうとして、かえって苦しみを受けるということに気づかなくてはならない。
この地上界にはあらゆる動物たちがいます。
あの世にも、魂のよりよき向上をはかって修行をしている動物から、人間の愚行によって落された地獄界で本能のままに、きびしい環境のなかで生き続けている動物達もいるのです。
こうして人間の都合によって利用された気の毒なあの世の動物霊たちもいるが、彼らのなかには、この地上界で欲望に目のくらんだ人々の心のなかを乱している者も少なくない。
いかに諸天善神といえども、不調和な心を持った人々の心のなかに居を構えている不調和な動物霊や地獄霊、さらに増上慢の阿修羅達を支配することはできないのです。
なぜなら、人間は自らの心の支配者であり、自ら不調和な想念と行為を修正しない限り、慈愛の光明に包まれることがないからです。
たとえ、諸天善神が、不調和な霊達を支配しても、心悪しき人々は、おのずから苦しい不調和な者達を再び三度と呼び込んでしまうということ。
諸天善神の浄化や支配は一時の清涼剤にしかすぎないのです。
すなわち地上の人間が自助努力によって人生を調和あるものにしない限り、根本的解決にはなりません。
不調和な地獄霊に支配されてしまうと、人は心定まることなく、常にイライラの連続であり、自分自身を失ってしまいます。
肉体は、本来、一人の船長(意識・魂)が支配しているのだが、その人間の心が不調和だと、地獄の霊に憑依、支配されて、船長は二人にも三人にもなってしまう。
地獄の霊達が、耳もとでささやいたり、心のなかで話しかけるために、自分であって自分ではないというような状態になってしまう。
つまり精神分裂症のようになってしまうということです。
躁鬱といったような、中道の心を失った両極端な心の状態になり、自らの人格を失ってしまう場合もあるでしょう。
こうなるともはや心は乱れて、不眠の状態が続き、幻覚をおこしたり、支離滅裂の言動をとるようになっていく。
日頃の鬱憤(うっぷん)を晴らすように、心のなかにあるものを見境いなく語ってしまう。
このような人々の日常は、鬱々とした生活で、心のなかに恨みや妬み、そしりの心が強い。
表面はおとなしいように見えても、虚栄心と自尊心、自我心、拘りは人並以上に強い人たちの場合が多い。
そして、また、自分自身を失っており、感情の起伏がはなはだ極端になり、心の安定を欠いているのである。
精神的に非常に不安定な人、見境のない言動をする人、やる気のない無気力な生活、これは、幼少の頃の過保護の教育、放任教育と、両親の心の不調和、親子関係における正しい愛情の欠如が原因となっている場合が相当数に多いことはこれまでのカウンセリングで検証された事実でもあります。
偏りのない、正しい親子の対話がほとんどない環境に、このような心の子たちが育てられて行くということでしょう。
これらの家庭環境は暗い想念におおわれて、宇宙からの愛や慈悲の光を受けることができず、未浄化霊たちとの関係も自らの心をその霊に売ってしまった人たちの結果なのです。
これを正しくするのには、勇気と努力によって、自らの性格を中道にもどす以外にはありません。
また、暗い想念におおわれた人々を、諸天善神は守ることができません。
これが宇宙の法則と秩序によるこの世とあの世の原理原則であり、波長共鳴の原理であります。
それは、この地球上が修行場であるとともに、人間には個の生命としての尊厳があるからです。
家庭生活をする人間が、心の価値を知って、互いの信頼と慈愛の行為によって、明るく生きることが大切だと思います。
そして、憑依している霊たちに、これ以上、神の子として犯してはならない、重ねてはならない罪を語って教え、離れて貰う以外にはありません。
そのためには先ず、自分の心を一切の執着から離し、調えなければならない。
正しい中道の生活が、日常のなかに行為となって現われたとき、自分自身をとりもどせるということです。
不調和な信仰などに深入りすると、ますます彼ら地獄霊の、無慈悲な行為による現象が現われてくるでしょう。
これこそ、「さわらぬ神に祟りなし」という、諺(ことわざ)のとおりです。
智慧あるはずの人間が、自分が正しいと他人を厳しく叱責したりする傲慢さや、知らぬとは言え、神頼みをしてあの世の未浄化な霊人や、動物霊たちと関わりをもち禍を招いている事実はなぜでしょうか。
これらはみな、自己都合、自己保存、自己中心という身勝手な業に翻弄されているからでしょう。
先ずは、神頼みなどせずに、自助努力で道を拓いていきたいものですね。
※きょうも最後までお読みくださいまして心から感謝もうしあげます。このブログを他の方にも読んでほしいと思われた方は下のバナーをポチッとクリックして頂ければ幸いです。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへ にほんブログ村 哲学・思想ブログへ