心に思うことが罪

釈尊の教えは心の正しいあり方を教えている
ある人が釈尊に聞いた。
「身体で実際に人殺しをした者と、言葉で人を貶め苦しめ悩ませた者と、心ではいろいろ思っても、実際にはそういうことをしたことはない善人と、この三人のうちでいちばん罪の重いのは誰でしょうか」
釈尊は答えられた。
「それは身体や囗ではなんにもしないが、心にいろいろと思っている人である」と。
その真意を述べてみたい。
道徳は生まれてから死ぬまでの人間のあり方を説くので、生まれてくる前の世界、死んだ後の世界のこと、すなわちあの世とこの世の関係は説かない。
ですからその人の生活が道徳的に正しいかどうかが問題とされるのです。
例えば、争ってはならない、腹を立ててはならないと道徳ではいう。
「喜怒哀楽を色に表さず」という儒教の言葉が道徳の美徳を示しています。
簡単に説明すれば感情に左右されずということでしょうか。
心のうちにはどんな思いを持っていても、それを行動に表しさえしなければそれでよいということになるが、実際問題として社会生活の上で、心に思っても顔に出さないという自己管理ができる人は大変な人ともいえる。
しかし、行為やことばで人を傷つけた人は、自分のしたことが自分に見えるから、良心があれば必ず反省の心が生じてくる。
が、心の内で思っただけで、実際に人を傷つける行為をしなかった人は、現実に何もしていないので、道徳的に責められることはない。
したがって、反省の心が生じないか、生じても極めて薄い。
反省の心のない人は、心が怒りや憎しみや暗い思いでいっぱいのはずである。
実は、そういう心こそが宗教的には最も罪深いものといえる。
顔では柔和な素振りをしていて第一印象がいいようにみえる人なのに、内面には非常に不満と怒りを溜めこんでいるために、心から発する波動が突き刺すように伝わってくる人がいるのである。
この世では通用しても、そういう心はあの世ではいちばん重い罪悪となる。
例えば、モーセの十戒にある「汝、殺すなかれ」というとき、実際には殺してはいないが殺したいほどの憎しみを心の内に思うことすら、禁ずるという徹底した深さと厳しさがある。
だから、正しいということは、この世でだけ正しかったからといってそれで正しいとはいえないので、この世とあの世とを通じて正しいことでないと、本当に正しいとはいえないのです。
釈尊が、心で思っている者の罪がいちばん重いのであるといわれたのは、釈尊はあの世とこの世とを通して見る力を持っておられたからだといえるでしょう。
あの世とこの世とを通して正しいことでないと真の正しさではないという基準がわかると、この世は真に平和になることができる。
この正しさの基準をもって宗教というものを解釈すると、はじめて正しい教えであるかどうかがわかってくるのであり、これまで仏教がなかなかわからなかっだのは、この正しさの基準と見方が、余りにも哲学的表現や当て字や理論に過ぎてわからなかったからである。
そして教義や著書では立派な事を信者に宣伝したり、一部慈善活動を行ってその光景を撮影し、ビデオやポスター、著書に載せ、立派な教祖だと信じ込ませることに余念がない。
しかし、内情は信者に負担を強いて金を吸い上げることに一生懸命である。
信者は無理をしてまで金を都合して教団に支払って家庭内トラブルまで発展しているという事実が数日前に相談にみえた。
実態を知らぬ信者とは言え、そうして間違った教団、間違ったご利益教義に盲信していく信者の心もまた立派に罪を重ねていくことになるのである。
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