人間のエゴ

お金

自分自身の欲望を満足させるのみで、他人のことなど考えない人は、自己保存心の強い偏った心の人間といえるだろう。俗にいう自己中心者がそれである。

このような人は、自分自身の都合の良いことのみを主張し、その地位、名誉、物欲のためには他人を犠牲にしてかえりみない。

そして自ら望んでいながらも、自分に都合の悪いことを忠告されたり、指摘されたりすると猛然とまくし立てたり、自己弁護をするための言い訳を並べ立てる傾向にある。

自分の名前や家柄に傷がつくなどと、常に考えている人。

人から称賛されることを望み、満足して、それを期待する人。

忠告に対しては感情的になり、怨みの念を持ち、報復を考える人。

経済力で人々から尊敬されようとし、過信し、その心の行為に調和がない人。

いつも誰かに愚痴をこぼし、誰彼の区別なく批判の口調で他人を裁いている人。

言葉に優しさがなく、家族や他人に対しても、言葉でグサッと刺しても気づけない人。

常に自己中心的にものを考え、目先のことにとらわれて物質経済がすべてだと、物と金に固執する人。

他人を信じることなく、自分を信じさせようと金品を使ってつなぎ止めようとする人。

他人に裏切られると恨みを持つが、自分は他人を詮索し、裏切りを平然と行なう人。

このような人は、一時は栄えたかに見えても、心に慈しみや愛がないため必ず没落して行くことになる。

心に安らぎがなく、いつか近親者からも不信の念を持たれるようになり、最後は孤立してしまう。

足ることを知らない心貧しき者、とはこのような人々をいうのである。

その心は餓鬼道に通じ、反省がないため、人生が終わると、地獄で仏性を悟るまで、より苦しい修行をしなくてはならない。

この地上生活において心に悪を持ち、不調和な生き方をした人間が、死んで肉体から離れた途端にあの世で成仏して霊界に入ることはできない。

その理由は、宇宙大自然の法則である因果の法則が人間の肉体生命と心にも反映されているからにほかならない。

車を運転していてカーブを曲がろうとすると、外側に車も運転者も体を持って行かれるが、速度が早ければ強く働き、遅ければ弱く働きます。

慣性の法則にしたがって物体はまっすぐに進もうとるが、曲がった道では抵抗が生じるということは理解できるかと思います。

この慣性の法則は自然界だけの問題ではなく、実は、私たち人間の心にも常に作用しているのである。

まっすぐに生きるということは、執着せず心を調和して生きるということをいうのであり、曲がった生き方、すなわち偏った生き方はカーブを無理な速度で走ろうとする車のようなものだということです。

こういう生き方、走り方をした人間は、死後も心の癖(慣性の法則)が働き、あの世で不調和な生き方をするのである。

それは物質界であるこの世とは違い、心の姿がそのままハッキリと現象として表れてしまう世界である。

その原因は、正しい心の在り方、法則を悟らず、物や金がすべてであると錯覚して、人間としての生きる目的を忘れ、心の乗り舟である肉体の煩悩に支配されて、すべてが自分のものであると考えているため固執するのである。

肉体は決して自分のものではなく、やがて時期が来れば返さなければならないものだ。

私達がこの世を去るときには、経済も地位も名誉も持って行くことができないこと、人生経験の善悪に対する一切が記憶された意識、すなわち魂を持って行くのみであることを悟るならば、物にこだわりを持つことはおかしいことではなかろうか。

人間は、心に執着がないから安らぎのある生活ができ、争いを捨て、万物の霊長としての満足感、楽しみが得られるものである。

また、一つの宗教団体組織にあって己を忘れ、組織の細胞になっている人々は、自分の宗教の教義こそ絶対である、と盲信し、自分のよりどころとする。

自分の属している教団の教義こそ絶対であるとして、他の教義を愚かとののしり、互いに論争する。

それは「正しい神理である」と、他から称賛されることを望んだり、あたかも神理を悟っているような言葉で論争し、反論されると向きになって心に不調和を起こし、相手の欠点を探してまた論争にふける。

しかしそんな称賛、反論が果たして何の役に立つか。

それは自己満足にふけるのみである。

自己慢心は破滅のもとであり、道理が分かっているのなら論争などすることはない。

哲学的仏教の用語を駆使して、得意満面な人は、自分自身の心の内面の姿ですら見ることはできない、己を忘れている組織の細胞である。

個の生命、すなわち個人個人が調和な心を改め、悟ってこそ、不退転な組織は確立されて行くのである。

人間のつくりだした智と意の論争では、組織に歪みが生じること以外に効果などあるはずがない。

仏罰法罰は、自分自身の不調和な黒い想念が造り出す作用、反作用の法則によって現象化されて行くものであり、神仏の意ではない。

もし教団や教祖への不信によって罰を与えるとしたなら、それは神と自称して語る低級霊のいたずらであることを知るべきである。

正しい心で、正しい行為にもとづいた生活をしている人々は、心が調和されているために、悪霊が災いを引き起こすことはできない。

それは、肉体の支配者である已の心の中へ、誰も入りこむことはできないからである。

罰などというものは、あくまで不調和な想念と行いによって、自分自身が呼びこんでしまい、それが現象となって身に降りかかってくるものなのである。

人間は、心の中に自分の造り出した罰を恐れる想念を持てば、その世界に通じ、現象化されることを知らなくてはならない。それが災いだということを。

神理でない屁理屈や並べ立てられた哲学的な言葉を信じ、常に心のなかで不安と格闘の信心をしている人々は、自分自身の心とその行為に対して、良く反省してみることである。

信仰に対して恐怖心を持つこと自体、すでに己を失った組織の細胞であり、心の中の恐怖をより高めて行く結果になると知らねばならない。

このように、正しい生き方、法則というものを悟らず、心の内面的智慧を悟っていない指導者が、自分の都合によって組織を拡張しても、その不調和な想念は、自分自身に帰ってくることを悟るべきであり、肉体的にも不調和が現象化されて、已に帰ってくることを知るべきである。

神理を悟らない指導者達こそ偽善者であり、その持論は、結論において、自らを裁かなくてはならないのが神仏の掟、すなわち大宇宙大自然の法則であろう。

心を説く宗教指導者が、自分の心に安らぎを持たず、常に心の格闘をし、他の宗教を無智と攻撃するというのは、心の指導者とは言えない。

そうした人々はその偽善を認め、偽りの指導を放棄し、偏りのない正しい法に従うべきである。

また指導者として、多くの人々の上に立っている者こそ、人々に福祉と心の安らぎを与えるための責任と行為を持たなくてはならない。

平家物語の冒頭の一節にあるように、

猛き者も遂には滅びぬ(どれほど勇猛な者でもやがて滅びる)

偏に風の前の塵に同じ(それは風に吹かれた塵と変わらない)

つまり、自我我欲の本性は、遂には自分を滅すことになるからである。

欺満(ぎまん・自分の心をあざむく)と流言飛語(りゅうげんひご・根も葉もない噂)に惑わされることなく、正しくその事実を己自身の心で見極めなくては、烏合の衆と化し、争いと破壊の渦の中に巻きこまれて己を失ってしまうであろう。

心ない不調和な一握りの人々によって、大衆が煽動され、闘争と破壊の行為があたかも自然のように実行されるのは、まさに地獄の阿修羅である。

愛と慈しみを忘れた主義と主張によって暴力を行使し、あたかも社会の勝利者と自負する、その彼らは自己保存者(自己中心)であり偽善者である。

それらは、物質経済を主眼とした心ない人々の集団であって、人間を信ずることのできない、物質と経済の奴隷と化した群れである。

その中では、裏切り行為が平然として行なわれている。

弱き人々は抵抗することができず、剣や銃による暴力に屈服せざるを得ない。

しかし、それでも、正しい心を持つ人々まで束縛することはできない。

肉体は束縛できても心までは暴力で支配することはできないということだ。

暴力を行使した人々は反作用の暴力を受け、心の中に安らぎを得ることはできない。

これが作用と、反作用の法則であり、大宇宙の法則である。

権力の座についているときでも、だからその座を他人に奪われることをのみ思い、心の安泰は計れなこのような社会は、暗い想念に覆われ、幾度かの混乱を経験する。

そしてやがて、嵐の後の静けさがくるように、自由と平等の心が芽生え、調和への想念は現象化されて行く。

それは、人類が万物の霊長であることを自分自身で悟り、自らの内面にある神性仏性に気づくようになったとき、一人一人が良く已に問う反省の時間を持ち得るからである。

人類は、封建あるいは独裁の歴史を、永い闘争と破壊の業を変遷して進化してきた。

そして神体であるこの地球上に築き上げてきた、一部の人間の物質経済の独占は大衆の不平不満を誘発し、社会主義的階級闘争と変化してきた。

だがこれも、やがては原始共産社会から、より次元の高い万民平等の、共存共栄の社会になって行くであろう。

物質経済を超越した心の人々によってである。

そして心優先の社会に進展されて行くであろう。

なぜなら、人類は、已の心の中に潜在している智慧の宝庫を自らの力で開くことができるからだ。

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