なぜ生まれてきたのか

ソウルsoul(魂)Ⅲ
私たちはなぜ生きているのか。
私たちが地上に生をうける時、地上で何を為(な)すべきなのかは魂自身はちゃんと自覚しております。
何も知らずに誕生してくるのではありません。幼少の頃からの記憶しかないだけで、実際のところは生まれる前の計画によってチャンスをいただけた時点で誕生しています。
自分にとって必要な向上進化を促進するには“こういう”環境で“こういう”身体に宿るのが最も効果的であると判断して、魂自らが選ぶのです。
ただ、実際に肉体に宿ってしまうと、その肉体の五官というしがらみのために誕生前の自覚が魂の奥に潜んだまま、通常の意識に上がって来ないだけの話です。
つまり、生まれた瞬間にあの世での意識の90%は潜在されて、わずか10%の表面意識だけで考え思いながら生きることになります。
地上の人間にとっての大きな問題点は、やむを得ないことかもしれませんが、人生というものを間違った視点から観ていることです。
つまり、あまりにも“この世的”・物質的観点からのみ、肉体的観点からのみ人生を考えていることです。
人生は確かに地上的な要素のなかで生きてはいますが、同時に霊的なものでもあり、霊的要素の重さに目を向けない生き方に問題が発生してきます。
言葉を変えると魂(心)の存在を意識しない生き方のために不満や愚痴や怒りに翻弄された生活をしてしまうことでしょう。
この永遠なる霊的要素を地上的視野だけで眺(なが)めてはいけません。それでは十全な判断はできません。
人間には一人の例外もなく、善悪ともに“埋め合わせ”の原理が働くのですが、地上生活のみで判断しようとすると全ての存在や要素や成り立ちを考慮することができなくなります。
埋め合わせの原理というのは足りないことは補うこと、余ることは捨てることによってバランスをとり、丁度いい具合に調えることの意味です。これは心のことです。
仏教的には心の煩悩の事です。
人生には目的があります。しかしその目的は、笛(物)に踊らされる人形ではありません。
人間は一人ひとりに分霊が宿っており、一人ひとりが無限の創造活動に参加できるのです。
つまり、私たちには個的存在としての責任と同時に、ある限度内の自由意志が与えられているのです。自由意志といっても、大自然の法則の働きを阻止することができるという意味ではありませんし、勝手に何をしてもよいという意味の自由意志ではありません。
ある限られた範囲内での選択の権利が与えられているということです。
その意味では運命全体としての枠組みは出来ております。
しかしその枠内の中で、私たちが自ら計画した予定表である青写真に従いながらどれだけ潜在的神性を発揮するかは、あなたの努力次第ということです。
もしかしたら、あなた自身が生まれる前に計画したその青写真さえ自覚できないかもしれません。
でも魂は神性を宿すが故に常に活動を求め、自己表現を求めて波のようにうねります。
時にはそれが悲嘆(ひたん)、無念、苦悩、苦痛、病苦という形をとり、無気力状態のあなたにカツを入れ目を覚ませることになるでしょう。
私が死線を彷徨うなかで4次元の世界を行き来し生還した体験がそれです。
もしも天があなたを創造活動へ参加させ、そうすることによって潜在的神性を開発させることを望まないのであれば、あなたがこの世に生をうけた意味は無いことになりましょう。
あなたも創造活動の一端を担って生まれてきたのです。
そして、ここに“埋め合わせの原理”が働いていることを理解しなくてはいけません。
つまり創造活動に貢献(こうけん)する仕事に携わりつつ潜在能力を開発していく生活の中で、あなたの人間的発達が促進されていくという仕組みです。
創造活動とは争いのない地上の安らぎと平和の建設です。
埋め合わせの原理は二重の仕組みになっているわけです。
進歩の誘発は内と外の両側から行われるのです。
魂の奥には物質界からのいかなるエネルギーよりも大きな威力が秘められています。
人間の魂は宇宙の大意識の一部だからです。
それが無ければ生命は存在しません。なぜなら生命は霊そのものだからです。
物質は影に過ぎません。霊という存在の殻(から)に過ぎません。
魂が光りです。
この二重のエネルギーをどこまで活用できるかは、その魂の悟(さと)りの程度にかかっています。
また次回まで。(^.^)

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Posted by kansindo