盛り塩と中道
相談者からよく聞く話しですが、家の邪気払い、あるいは厄除け、魔除けに盛り塩をしているという。
きょうは盛り塩、の由来について少しふれてみると同時に、塩の存在が何を意味するのか、塩から何を学ばなければならないのか述べてみたいと思います。
盛り塩は、一般的には中国の故事に由来しているとされているようです。
故事には二つあり、一つは今から1300年前の晋代に、武帝という王が、後宮にいる女性を訪ねる際のことです。
女性を自分で選ぶことはできないから、今晩のしとねの宿を、羊車の羊にお任せするということにしたといいます。
そこに、胡国出身の後宮に、綺麗な女性が居り、羊の好きな竹の葉に塩水をかけ、自宅門前に置き、武帝を招き寄せて寵愛(ちょうあい)を独り占めしたということによります。
もう一つの故事は秦(しん)の始皇帝の話であり、話の筋書きはよく似ています。
始皇帝には沢山の女性があり、毎日訪ねる所を自分で選ぶのは大変なので、牛車に乗り、その牛が止まった所を晩の宿とすることにしました。
三千人の女性の中には賢い女性が居り、自宅の前に牛の好きな塩を置いた為に、牛車が止まり、その女性は皇帝から寵愛を受けた、という筋書きです。
また、これとは別に盛り塩の由来は神事・仏事から来たのではないかとする見方もあります。
仏教においては葬式後に塩を撒く風習があり、又神道の方では神棚に盛り塩を供えると言った風習がある為です。
これは塩が清浄や生命力の再生といった意味合いがあるからといった見方をするところにもよるようです。
相撲の土俵への塩まきも場所を清めるというご神事に基づいた習慣ですね。
日本では、奈良・平安時代に、人々が家の戸口に塩を盛っていたようです。
客の足をとめる縁起ものとして盛り塩が伝わり、習慣となったのでしょう。
また貴重で神聖な塩を家や敷地内に盛って置くことで、そのパワーが大地や家、さらにそこに住む人々に宿ると考えられていたのでしょう。
しかし、実際のところは、盛り塩で宅地や土地が浄化されるということはあまり期待できない。それは、盛り塩をしている方の家を訪ねたときに解るからだ。
何故なら、盛り塩の浄化力や、パワー以上に、その土地に住む人間の心の状態のほうが勝り、様々な邪悪なエネルギーを発したり呼び寄せたりするからである。
つまり、良くも、悪くも、そこに居住する人間の心の波動が盛り塩以上にその家のエネルギーとして存在するためなのです。
せっかく盛り塩をしても、不満や愚痴、怒り、恨み、嫉妬などの心乱した生き方をするなら何の意味も成さないことになります。
単に縁起をかつぐにとどまらず、塩の持つ意味を正しく理解して学ぶことが大切でありましょう。
物質の法則は宇宙の意思の現れ
物質の法則即ち物理科学の法則は、人間がこの地球上に生まれてから人間が作った法則ではないでしょう。
人間が生まれる以前からあったものであり、物理科学の進歩とともにそれに気づき発見してきただけです。
例えば、酸素と水素は、どちらも極端に火に燃え易く、この燃え易い酸素と水素が調和されて結合すると火を消す水になるというのは不思議です。
また、塩酸と苛性ソーダは、どちらも骨を溶かすほどの劇薬です。
人間はこれを飲み込むことはできませんが、この二つが調和されて結合すると、塩になります。
塩は摂取することができます。むしろ人間は、砂糖はなくても生きられますが、水と塩がなくては生きてゆけません。
この物質の法則は何を示しているのか、極端から極端はいけない、中道(調和)でなければいけないと言う事を教えていると受け取れないだろうか。
つまり中ほどの道が良い、偏らないことの大切さを示しています。
神道でお祓いに水と塩を使うのは、神の道は中道である。
心を偏(かたよ)らず中道にもてば一切の不浄、争いは消えて調和すると言う事を教えているのです。
ご存じのように塩には腐敗を防ぐ働きがあるから保存にも使われています。冷蔵庫のない時代は食べ物を保存する為に塩が必需品でした。
宇宙の不変の法則もそうですが、心の正しい法則というものは、いつでも、どこでも、必ずそうなるというものであって、あの時はこうなったが、今度はこうなったという一回限りの結果しか出てこないものは真の法則ではないでしょう。
したがって真実の法則はいつも、どこでも、誰にでも、平等で不変なものでなければ法則とはいえないはずです。
人間の都合によってその時々でコロコロ変わるのは本当の法則とはいえない。
ですから世界中の水はみな、酸素と水素の結合から成っているのであって、アメリカの水は、酸素と炭素で作られているというようなことはありません。
真の法則に例外は無いのです。
世界の国々には様々な宗教があるのですが宗派によって法(教え)の内容が大きく異なる場合もあり、信仰する対象も違い、国によっては現存する人間を崇拝しているところもあります。
しかし、人間はどんなに背伸びしても人間です。
大宇宙、天地創造のゴッド(神)にはなれないし、尊敬はされても人間を崇拝の対象にすることは間違いです。
まして国民に強制して崇拝させることも最大の罪でありましょう。
さて、目に見える物質は確かに無常であります。刻々瞬々、姿や形が変わります。
その移り変わる表面的な無常の姿だけを認めて、物質は無常だと思うのは一面的な見方で、その移り変わる姿の奥に、物質を物質たらしめている所の、目に見えない法則が働いていると言うことを認めないと、ものを正しく見たと言うことになりません。
正しく見るということは、部分的な見方をしてはいけない。
常に、全体的な、総合的な見方をしなさいということでもあります。
偏らずに見ることが大切です。
一切の存在の奥に、目に見えずして働いている法則は、宇宙なる天の意識の表れとして働いているのですから、私たちは、物をただ単なる物として見ないで、『生命の現われである。』と見て物に感謝し、物の命を粗末にせず大事にしなければいけないでしょう。
物を粗末にしないということは同時に不必要な衝動買いはしないということにもつながるものです。使えるものは使い切る。
感謝は、心の働き、報恩は行い。
この心と行いが実践されて、循環されたときにこそはじめて感謝たりえるもので、これを以って調和といえるのではないだろうか。
心で思うだけで行動が無いのも偏るし、行動だけでそこに心が伴わなければそれも偏ります。
やはり、中ほどの道、偏らない道、中道が調和の道でありましょう。
※きょうも最後までお読みくださいまして心から感謝もうしあげます。このブログを他の方にも読んでほしいと思われた方は下のバナーをポチッとクリックして頂ければ幸いです。
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