闘争と破壊・精神公害と公平無私

天災・人災・人間の想念へ、さん のコメント: 2013年8月9日 7:09 AM

初めてメールをいたします。 私は中国人です。30年ほど前に日本へ勉強に来たとき妻と知り合い結婚して以来、日本に暮らしています。

当時、妻は一人娘であったために日本を離れることが無理な状況であり、二男の私が日本で生きる事を決心したのです。若さでした。

当初は言葉のハンデに悩みましたが、妻の支えに助けられ難局を乗り切れたのでした。
タイトルの「乱獲・食糧問題・異常気象」、「天災・人災・人間の想念」を拝見いたしました。
観童様は、世界の平和を強く希望しておられることに何のブレもなく、一貫してこれまで同じことを、言葉を変えながらブログ上で表現してこられたように理解しております。
私ごとですが、もうすぐ還暦を迎えますが、現在も会社役員として楽しく働くことができております。
また、仕事上、多くの人たちに会い、交渉する機会があります。 日本人の心の温かさ、国の風土は中国の気質、風土、行政のありかたとはまた違うものがあり、強引さがありません。
過去の戦争によって中国も多くの犠牲者を出したことは悲しい事です。
しかし、現在の日本は過去の戦争に学び、二度と戦争をしないという姿勢がこれまでの行政をみれば理解できることだと思っております。
領海を超えて他国の領海に侵入する行為を日本はしていないのに、私の母国では何度も繰り返していることを知るにつけ胸が痛みます。
おそらくこのような事実は中国国内においては国民に対して正しく報道されることはないでしょう。
母国の中国でも様々な価値観をもった人たちがいるように、日本でも同じことがいえます。 善ばかりでもなく、悪ばかりでもありません。
重要なことは悪に悪を持って処するのではなく悪にこそ善をもって処する姿勢でありたいものと私自身は願っております。
中国は日本ほどメディアの自由がありません。国によって規制されている部分が相当にあります。 その意味では自由ではないといえます。
残念なことではありますが、一部の人間が国や非公開の団体によって支配され、あるいは扇動されて暴挙をしているところがあります。
ときに、帰国することもあるのですが、正面切って母国の行政や市民の暴挙に対して意見などしようものなら、入国拒否になることは必至どころか、身の危険さえ感じることになります。
こういったことは最近もありました。日本で暮らす韓国人の女性が母国の行政に対し、メッセージを公表したことで帰国の際に入国拒否をされたことが報道されていました。
私は、国を超えて物事の事実と真実をみるという視点を大事にしたいと思っています。
以前から観童様のブログを拝見して考えさせられることが多々ありましたのでコメントをいたしました。
いつも話題が変わってはいても、いつも、心をテーマにして述べておられますことに共鳴し読ませていただいております。
これからも訪問させていただきます。ありがとうございます。
コメントを下さった李さんはとても冷静で、決して偏ることのない人生観をお持ちのようですし、母国の政治的動きにも客観的な偏りのない見方を大事にされておられます。
本来、人類、人種に国境はないのだが、人間が差別をしてその障壁をつくっているに過ぎないだけです。
私は、この李さんのような方々がひとりでも多くなり、国境を越えて理解しあえるきっかけになってくれることを願うものです。
世界の国同士が手を携えることができるようになるには、先ず、自国の調和、そして社会の調和、さらに組織の調和、原点として家庭の調和がなくてはならないと思うのです。
そのような観点から、きょうは、ある労働組合の書記をしているという男性の弁を紹介して読者の皆様にも一考いただければと思います。

『労使の闘争は必要だと思います。法律で認められている以上、弱き者達は、団結によって、自分達の要求をぶつけない限り、資本家は、経済力と権力を持っているために目的の貫徹はほど遠い夢となります。

賃金にしても、厚生施設にしても、働く者達を優先にすることこそ、資本家の義務ではないのか。

私達の闘争が、現代の文明を築いているのではありませんか。

労使は、お互いに相容れぬものが本質的にあり、立場が違う以上、闘争は続くでしょう。

国家の体制が、社会主義になれば別だが、現体制下では闘争もやむを得ないと思います。この点についてどう理解されているのか、説明を戴きたい。』

この男性は、闘争に生き甲斐をみつけているように思います。

弱肉強食は、動物的本能だし、人間も弱くては生きてはいられないというのである。

現代人の世界観は、大方この青年と共通する考えになっているのではないか。

ということは、資本主義もマルクス主義も、その極致はすべて物質経済が根本で、心が失われているのではないだろうか。

心を失った思想が、生活の知恵によって文明を造り、公害を生み、精神公害まで造り出したのだといっても、過言ではないでしょう。

私達の苦しみは、永遠なる魂、自分自身の心を失ったときに自ら造り出して行くものです。

この心を失って、真の喜びがあるだろうか。

闘争心は、常に破壊しか生まないし、自分に帰ってくるということです。

思想の対立も、相互に同じ人間同志であります。

その立場が異なるだけです。

従って、立場の相違を心で考え、互いの理解を深め、大調和の道を歩まないと、自らをますます苦しみの泥沼のなかに引きずり込んでしまうだろう。

団結という美名のもとに、闘争して勝ち得たものが、本当の幸福となり得たであろうか。

足ることを忘れ去った金の亡者達の幸福など、一時の夢にしかすぎないものだ。

物価の安定もなく、次々と闘争して勝ち得た物を吐き出しているではないか。

社会主義の国々に、本当の自由があるだろうか。

第二次大戦後、多くの社会主義国家が誕生したが、内戦などの権力闘争を経て崩壊をしている。

例えば、原初の社会主義国家として1971年に誕生したロシア・ソビエト連邦社会主義共和国は1991年には東欧諸国の民主化やペレストロイカを経てベルリンの崩壊を機に終わっている。

権力者達は、合法的な暴力や武力によって国家を、そして民衆を支配しているが、実は、いつ自分自身が失脚するか解らないため、心に不安の多い生活を送っている。

人間というものは、その行動力を支配されても、心の支配まではされないということだ。

私達の心は、いつも自由なのである。

だから、武力や権力での支配が続いても、人間の心は常に自由で、誤った思想の批判は忘れないのである。

たとえ洗脳されても、真理でないものには矛盾が生まれ、疑問の心が生じるものです。

ただ民衆は口で語らず、行動しないだけでしょう。語ることが許されない場合もある。

権力者達は、心を失った者達であるから、同志を裏切ることも平気で、他人の生命も簡単に奪ってしまうし、やってはならない侵略までしてしまう。

しかし、肉体の主である心まで奪うことは不可能なのである。

人間は、誰でも幸福になりたいという希望を持っている。

思想のいかんに拘らず、この点は一致しているでしょう。

しかし現代人の多くもそうだが、若者たちのなかにも幸福になる条件が、すべて経済の力だと考えているところに、大きな誤りを犯しているといえるのではないだろうか。

人類は、今ようやく厳しい封建社会から脱し、人間平等の立場で、労使もまた話し合える調和の段階に前進してきたのである。

それは、人類が、永い歴史のなかで自ら蒔いた不調和な種を刈りとって辿りついた状態ではないのか。

現代社会人が、変わることのない心の尊厳性を悟らない限り、地上には本当の平和は訪れてこないであろう。

私達人間が、基本的な心の尊厳性を確立したならば、労使の争いもなくなり、より文明は発達して、生活もより調和されたものとなり、原始共産社会よりもいっそう進んだ共存共栄の社会となって行くでありましょう。

資本家、指導者は、それゆえに、自己の立場に固執せず、大衆のために心を広く豊かにし、慈愛に満ちた真の勇者でなくてはならない。

自らに嘘をつくことなく、大衆に奉仕する実行力が必要といえるのではないか。

人間は、感謝の心を失ったとき、不満の心を生むものだ。

不満の心は自分の思いどおりにならないことへのいらだち、自己保存の心が根本となっている。

互いの意志が疎通しない、それも原因である。

自分の心に嘘をつけない正しい見解を持つこと。

自らのわだかまりを、心のなかに押し込んではならない。

わだかまりを持てば、いうべきこともいえなくなるでしょう。

他人の前で自分を飾ろうとする心や、目上の人々に良く思われたいという心は、やがてそのなかに歪みを造り出してしまうものだ。

弱い者達が、団結という集団意識によって不満を爆発させる原因は、いろいろとあり、それは自身の内部にもあるものだ。

従って、集団の指導者は、単なる不満の代表者になり、正しい見解を忘れたり、権力者の座に執着を持って、混乱した組織体を造り出してしまうようではいけない。

しかし、そうした誤りを犯しがちだ。

感情的な集団は、自己主張をくり返して、もはや調和にはほど遠い闘争と破壊の修羅場を造り出して行く。

そしてまた、物質経済を主体とした、心を失った集団意識は、必ず内部闘争分裂の温床ともなって行く。

武力や権力で支配して、一時の統制が保たれたかに見えても、力で支配したものは、所詮力の不均衡によって、いつの日か崩れ去り、自らの首をはねる刃ともなるのである。

作用すれば反作用するという法則からいっても、それは当然の道理といえるのである。

感情的な心と行為を捨てて、道理をわきまえて判断すること、これが調和への近道であり、不退転の真理であるということだ。

経営者にしても、集団の指導者にしても、自分の立場だけに固執しないで、従業員や集団の心の在り方を良く知って、中道を心の物差しとして、指導すべきだ。

中道を根本とした心と行為があれば、闘争など起こることはないであろう。

経済的な問題は、互いに譲り合う行為によって、大調和が完成されるのである。

そして、お互いに経済の奴隷から自らの心を解放して、協力し合い、平和な社会を築いて行くことが大切なのである。

私達の生命は、転生輪廻をくり返している過程においては、あるときは国を治める立場の体験を、あるときはもっともきびしい奴隷の体験をする。

それは皆、自らの心を豊かにするための修行をしていると受け止めなければならない。

自分の生まれ育った環境が悪く、親には無視をされ、馬鹿にされて育った人間もいるが、そこから大きな気付きを得て心豊かに生きている人がいる。

逆境、それが今の自分の人生がうまくいかない理由だと嘆いても、いつまでもそれであってはいけない。

人間の魂は、純粋無垢の心で生まれるというが、実際は30%の個性(カルマ)をもって生まれてくる。

その30%の個性の魂に曇りを上塗りする人生にするのか、逆に、20%に曇りを減らす人生にするかは中道の生き方に掛かっている。

私達が、その真理を知ったならば、今生活していることに、もっと心を注がなくてはならないのではないか。

人間の価値は、地位や経済力によって定めることはできない。

この事実を知ったならば、より良い生活の場を造ることに努力するのは当然であるが、万物の霊長である人間同志が、動物にも劣るような闘争をくり返し、血で血を洗う争いの愚を犯してはならないのだ。

むしろ、動物たちの生きざまを学ばなければならないだろう。

動物が本能のままに、見事に子育てをし、無益な殺生はしていない姿に何を学ばなければならないか、述べずとも理解できるはずである。

労使が、旧来の因習を破って、互いの立場を離れ、人間同志の相互繁栄を協力し合い、感謝の心と報恩の行為を実践する以外に、大調和への道を開くことはできないのである。

偽りの心を捨てた、心の対話が必要だ。

その規準が、中道すなわち八正道の心実践にあるのであり、社会人類のために奉仕する行為が大事だということである。

また、資本の力で、人間を支配することも不可能だといわねばならない。

人間のつくり出した生活の知識、それで独占した経済力が、本当に人間を幸福にするものだろうか。

私達は、そのことを、考えなおさなくてはならないときにきているのではないだろうか。

人間は、地上に生れた魂という意味においては皆、平等でしょう。

それなのに、小さな地球のなかで争っている。

宇宙的な立場で考えたならば、本当に哀れで愚かなのは、心を忘れ去った人間の姿といわざるを得ない。

死んで、財産を、あの世に持って帰れるはずもなく、生きているうちに、人々の幸福のためにそれを使ってこそ、生活の智恵も実るといえるでしょう。

闘争と破壊ほど、愚かな行為はないということに、やがて人類は目覚める日がくるであろうと私は信じている。

法律は、人間のつくったもので社会生活の秩序を守るためのものです。

それは、菩薩心の表われともいえるでしょう。

しかし、すべてが、法律に認められているから当然だという考え方は、中道の心とはいいがたい。

法律は、行動に対する制約を加えても、心に制約を加えることはできないものです。

自由な心は、真理である正しい生き方の法則以外に得られない、安らぎの道は得られない、ということを知るべきでしょう。

これを踏みはずせば、自らの苦しみを造り出し、自らの善なる心で己を裁かねばならない。

これこそ、公平無私な法であるといえよう。

不平等な社会は、一人一人の人間の心が、正しい道を悟ったときに、是正されるものです。

そして、偏った思想が人々の心から離れたとき、地上における真のユートピアは築かれて行くでしょう。

それには、まず欲望という名の暴走車から降りて、己の心に打ち克つ、ということが先決であらねばならない。

経済的貧富の差、社会的地位の差によって心の豊かさ、広さが決定されるものではないということを私達は一刻も早く気づかなくてはならない。

自ら選んだ環境をいかに調和し、豊かな安らぎのある、人生における偉大な心の収穫を得たかということが大事ではないだろうか。

※きょうも最後までお読みくださいまして心から感謝もうしあげます。このブログを他の方にも読んでほしいと思われた方は下のバナーをポチッとクリックして頂ければ幸いです。

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