道は一生・一瞬にあり
行住坐臥(ぎょうじゅうざが)の
行(ぎょう)は、ゆく、歩く。
住(じゅう)は、とどまる、住まう。
坐(ざ)は、すわる、静止。
臥(が)は、やすむ。
このような意味で、仏教の中でも有名な言葉の一つとなっているようです。
人間の一日の生活は、この四文字に集約される。
したがって、一日の立ち居振る舞いはこの中のどこかに当てはまり、これから離れることができないが、この言葉は何をいわんとしているかといえば、どのような状況にあっても常に変わらぬ心をいう。
ここでいう変わらぬ心というのは、歩くときも、坐っているときも、四六時中安息な心をいうのであって、決して動かない心の事ではなく、偏りのない、常に調和された心で為すことを行住坐臥と理解しています。
ところが、人の心というものは、朝と夜ではまるでちがい、状況の変化でコロコロ変わる。それほど人の心は定め難く、不安定なものでもあります。
そこで、そうあってはならないよいうことで仏心とは行住坐臥のなかにあり、いついかなるときでも動揺しない心をいっているのでしょう。
では動揺しないこころとはどういうすればよいのかですが、その為にも動揺する原因を知らなくてはならない。
何か事があると動揺する、体の病をすると不安になり、恐怖心に動揺する、思うようにいかないことがあると動揺する。
しかし、この動揺は、人によって程度の差があり、同じような状況でも、ひとりは手足が震えるほどの動揺をしているが、ひとりは、何、どうしたの?と意に介さない。
この違いは何であろうか?
人間には意識ぜずとも身をまもるという本能的行動をとる意識が備わっています。
病気をしたり、怪我をしたり、命の危機にさらされたら誰でもうろたえて我を見失う傾向はあるだろうが、それでも余りにも起きもしない先の事に思いを馳せて不安を増幅して恐怖心にまで発展してしまっているケースはよくあることだ。
実は、この動揺、不安、恐怖心が身体には一番よくなく、精神を不安定にさせ、体の回復を遅らせてしまう。
こういった不安感や恐怖心は病気の時だけのことではなく、あらゆる諸問題の背景には不安感や恐怖心、執着、頑固、拘りが潜んでいるものだ。
色心不二という言葉がしめすように人間の体は身も心も一つで、心の変化が良いにつけ、悪いにつけ身体にまで影響を及ぼすものであり、また身体の健康状態も心に影響を及ぼしてきます。
精神的な動揺や不安や恐怖心が長じてくれば、やがて肉体にまで影響をし、様々な症状を体現するようになってきます。
いったい、恐怖の実体はどのようなものだろうか。
また、これにはどう対処すべきだろうか。
心の仕組みや、心の作用とその反作用を知ることによって、大きな不安は小さく、恐怖心もなく毎日を送り、いかなる悲しみ、いかなる苦難にも自分を見失うことなく生活でるようになるものです。
動揺、不安、恐怖心は、あらゆる苦難を克服させるはずの力を打ちひしぎ、心を乱し、調和を破壊し、疑念を呼びおこします。
一方、恐怖感は、自分の生活を守り、安全を確保するためのブレーキの役割りを果たしています。
しかし、動揺、不安、恐怖感の根底にあるものはなんでしょうか。
恐怖感は、人間も動物も同じように持っています。人間の独占物ではない。
とすると、その根底にあるものは、生に対する執着です。
ここで知っていただきたいのは、生命はこの世限りではないということ。
今世だけの肉体生命に執着してはいけない。
本能的防衛手段として恐怖感があるのですが、しかし、必要以上にそのことに意識を向けている状態が長引けば長引くほどに不安も恐怖心も増幅して心を支配してしまいます。
この点が本能と感情だけで生きている動物との違うといえるところです。
したがって、本能的執着から離れられぬかぎり、恐怖感は常についてまわるといえます。
本能的執着、それは生に対する執着です。
生きたいという本能であり、死にたくないという恐怖心からくる生への執着です。
私たちにこの本能的執着がまとわりつくかぎり、恐怖感は容易に消滅できません。
必要以上の恐怖感は自己保存の現われであり、それはいろいろな形で現われ目先のことに囚われ、体の不調と変化に過敏になり、動揺してうろたえます。
人前に出ると上気するとか、嫌な思いをした相手を思うとフラッシュバックして手に汗を握るとか、怒りに心が揺れるとか、動悸がするとか、学校が嫌いになるとか、その形は千差万別です。
しかし、いずれも不安や恐怖感の現われは、自己保存というエゴの意識がそうさせます。
物中心の考え方、肉体中心の考え方、お金中心の考え方、この世が全てだとする価値観、あるいは、自分をよく見せようとする心の動きは、他の動物にはないことです。
それだけに、人間の持ちえた知識、知恵、こだわり、執着というものが不安感や恐怖心をつくりだしているのです。
いくら心の在り方を学んでも、不安と恐怖心にドッップリと浸かり、知識として、頭に詰めこんでも、動揺や、不安感、恐怖感からは容易に解放されません。
正しい法則、即ち心の在り方を一つずつ体験的に理解し、深まってきますと、動揺が減り、不安や恐怖感を自然と越えられ、死も恐れなくなります。
今の生活、先の生活に不安がある、病気を受け止められずに不安や恐怖心が消えない。このような思いは誰もが経験することです。
同じような体験、それ以上の体験をしているにも関わらず不安感や恐怖心の感じ方に差があるのはなぜだろうかとなると、人それぞれの受け止め方の違いということでもあり、拘り、執着の多寡の違いによるといえるでしょう。
人の道は一生であり、一瞬のなかにあります。
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