明けない夜はない・脱した窮地

富士山
日本で一日の終わりに食卓を囲む頃、おそらくブラジルあたりでは朝を迎えているのだろう。読者のいるイギリスではどういう時間帯なのだろうか。
どんなときも世界のどこかで朝が訪れています。
悲しいことが起こったり、どうしようもないほど落ち込んだりしたその時も朝日は昇って無償のままに地上を照らし続けています。
苦しい時は自分の苦しさで周りのことも、まして自分自身のことも正しくは見えていない場合が多く、無所得のままに光を与えてくれている太陽の存在になど心が向くこともないでしょう。
だが、逆に、苦しい時だからこそ太陽の存在を強く意識できる人もいる。
宇宙の営みは、全ての生命が死する時も、生じる時も、法則に沿って寸分の狂いもなく営んでいるのです。
愛するものを失って悲しみに暮れる時、そういう友の姿に掛ける言葉がないとき、気遣って掛ける言葉は無力であったり、虚しくさえあるときがある。
ただ傍に寄り添うだけでいい。
嬉しいことがあると誰かに話したくなることがあるように、悲しみや苦しみがあるときも言葉にすることで変われることがあるものです。
嬉しいことは人に話せば倍の喜びになるでしょうし、悲しみは半分になるでしょう。
苦しい時、悲しい時、そのことだけに心を向けると苦しみの連鎖となるが、そのことに心を向けずに生きると自分を楽にさせます。
一瞬一瞬を乗り切る。
それを積み重ねるといつのまにか、最も苦しい時間を乗り切ることができる。
そのことを身体の芯で実感したのは、私が57歳の年で2007年のときだった。
深夜にいきなり心拍数が125まで早鐘のようになりだし呼吸が苦しく窒息しそうな気がしてパニック状態に陥った。
完全に動揺して死を直感した。救急車を呼んで総合病院に搬送されたが、点滴によって間もなく正常値まで心拍数が戻った。
心電図、エコー検査によって心臓に病気がないということで帰宅できた。
しかし、過労によってリズムを崩した心臓とそれに連なる自律神経は正常に働けず、拍動が異常に強く、翌日から体は急速に衰弱していった。
食事ができないために目に見えて体重が減っていき、顔色も悪く、肋骨が浮き出てきた自分の体をみて、さすがに言葉を失った。
息切れや、拍動が強くて歩くことができない状態が半年以上続いたが、意を決して歩くことを始めた。
5分歩くと疲れが残った。先が見えず真っ暗だった。
夜に寝ていても発作的に拍動が強くて不安と恐怖心が襲ってくる。
布団のうえに座って呼吸を整えようとするのだが、衰弱した体に深夜の強い拍動は辛かった。
私の場合は霊的に敏感な点や、特定の場所のエネルギーに対する感受反応もあり、人に会うと意識せずとも、その人の心の波動が感知できて体が辛いことがあった。
私は覚悟を決めた。
死ぬも生きるも天に任せようと。
そして歩き始めた。春夏秋冬、雨が降ろうと、太陽が照りつけようと、吹雪になろうと、一人黙々と歩いた。

明日が見えず、涙が流れ、心が折れそうなときは、一日だけを乗り切ることに意識を集中した。

そして、一日が長く辛いときは、一時間だけ乗り切ることに集中し、それでも苦しみが長く感じる時は5分を乗り切るように、いや、一分を乗り切ることに集中した。

今を乗り切ることが精いっぱいだった。

また夜が明けて朝が来る。

空けない夜はなかった。

苦しみも、悲しみも、必ず終わる時がくるものです。

それを信じることができたなら、終わりまでの時間を考えるのではなく、目の前の一瞬のことに集中して行動をすることの良さに気づかされた。

苦しみを抱えながらも歩き続けた結果は心肺機能のアップとなっていったのでした。

基礎体力が蘇ってきたのです。

徐々に食欲が出てくると体の持久力が違ってきた。20分歩けるようになった。

時間を決めて歩けるようにはなっても時間を気にしてはいけないことがわかってきた。

残り時間があと五分と気にすれば自然体でいられなくなるからだ。

一歩一歩を歩む瞬間にだけ意識を向けることにした。

今月で64歳になるのだが、歩くことも食べることも6年前の心臓の異常な拍動がなくなり、健康に生かされていることにただただ有り難いと思う。

今は毎朝のウオーキングが心地よく、家の周りの早朝森林浴で一時間が楽しみとなった。

森林浴

歳を重ねることとは、経験から得た知恵を身にまとうことでもあります。

そして「目の前の一瞬に集中する」ことで直面する苦難を乗り越えるこの思考法こそ、私だけでなく、いくつもの修羅場を乗り越えた大人だけが身につけることができる、生きるための知恵なのだと感じています。

どんな苦難も前向きにとらえる

苦難と喜びは、実は、紙一重です。

これは、同じ出来事、現象でも人によって捉え方が異なるということだけではありません。

私たちは、その現象が起きた瞬間の捉え方、受け止め方を学ぶのはもちろんですが、通り過ぎてしまった過去の出来事、現象を解釈し直すこともできます。

ひとつの出来事に関して10年前の自分の受け止め方と、今現在の受け止め方で随分と違っていることに気づいたことがあると思います。

これが俗に言う「器を拡げる」ということで、自分の意思によって変えられないことは悩まず、自分の意思によって変えられるようなことならば妥協しないということです。

しかし、妥協しないということは、偏りのない、自己都合ではない正しいものであると判断するならばということであって、無理に押し通すような傲慢になれということではありません。

よく、「他人と過去は変えられないが、自分と未来は変えられる」という言葉が自己啓発書に登場しますが、私は、人間が解釈のしかたや、受け止め方で幸福を感じている人がいる以上、過去も変えられると思っています。

これは、過去の事実は変わりませんが、当事者の心が変わることで事実に対する認識が変わる、解釈が変わるという意味です。

心が成長した証である。

イキイキした人生を歩む人の話に耳を傾けてみると、他人が聞くと悲劇に思えるようなことも「あの時の経験で今がある」と言います。

どんな経験でもそこから学びを得ることができれば、悲劇でさえ人生の肥やしになるのです。

私の場合、過労で倒れるというピンチが一念発起するきっかけとなって、生きることの意味と、人生の目的を気づかされたのです。

チャンスは、ピンチの顔をしてやってきます。

ブログを読んでくださっているあなたも「ピンチが来たな」と思ったら、「これはチャンスではないか?」と疑ってみてください。

案外、そこがあなたの転機であり未来への交差点となるかもしれません。

※きょうも最後までお読みくださいまして心から感謝もうしあげます。このブログを他の方にも読んでほしいと思われた方は下のバナーをポチッとクリックして頂ければ幸いです。

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