臓器提供の賛否と霊的視点
お久しぶりです。二年程前にメールにて相談に乗って頂いたSRです。
ご健勝にてお過ごしの事と拝察申し上げます。
その節は御丁寧に対応して頂き有難うございました。
今回は臓器提供についてどのようなお考えをお持ちかお伺いしたくご連絡いたしました。
仏教では臓器提供について言及はありませんし、先生方に聞いても意見が別れます。
私個人としては完全に命が停止してしまえば、私の臓器提供で助かる命があれば提供した方が良いと思っておりますが、脳死等色々パターンがあると思います。
霊的な事も踏まえて、お時間のある時にご意見をお聞かせ願えればと思います。
SR様より上記の内容でお問い合わせを頂いておりましたので、大変遅くなりましたが、私自身も以前から関心があった問題でもあり、テーマが大きいだけに社会の動向と照らし合わせながら私なりの感想を述べさせていただきます。
(長文ゆえに誤字脱字がありましたらご容赦ください)
さて、臓器移植提供の問題は、医学的見解、人道上の見解、道徳的な見解、宗教的見解、家族の感情と様々な見解があり、簡単には結論が出せることではないと考えます。
この問題は医療に携わる人間の意見が優先されがちですが、しかし、医療に携わるひとたちのすべてが賛成しているわけではなく、「脳死が人の死」と捉えている医療従事者は41.6%というデーターがあり半数を切っています。
霊的な視点からするとどういう意見になるのかですが、「完全な死ではない」と考えます。
その理由ですが、脳死はともかく、心肺停止の状態になって肉体の蘇生が不可能な状態にならなければ完全死ではないと捉えております。
脳死状態であっても肉体が機能している状態では、霊体が身体から抜け出て傍にいて、霊体と肉体は霊線でつながっていますから完全に分離した状態ではありません。
このことが完全死ではないということの根拠です。
ですから、後の説明に出てくるような事例がおきても何ら不思議ではありません。
脳死状態ではあっても完全死ではありませんから医療現場の意思によって、あるいは親族の意思によって、あるいは御本人の意思によって臓器移植がおこなわれたとしても、霊的な視点からすれば臓器摘出の際に発生する御本人の意識がどういう精神状態であるのかが問題であると申し上げておきたいところです。
問題という意味は、医師たちの手によって臓器が摘出されることによって完全な肉体死に至るわけです。
このときに患者の肉体感覚が通常感覚ではないにしても、霊体に宿っている魂の意識だけは覚醒しているのであって、ことの一部始終をしっかりとみているのです。
人間は誰も好き好んで死を選ぶ人はいないでしょう。
自分の身体から臓器を摘出する様子をみていて自分の心が動揺しないという保証はなにもありません。
生きるということに未練があったり、自分の肉体が脳死状態であることを受け容れられずに、心に葛藤があれば臓器の摘出される段階で「ちょっと待ってくれ、やめてくれ」ということになるかもしれません。
このような精神状態のなかで肉体から臓器摘出されることによって果たして死を受け入れるのか、できないのかです。
人間はどのような状況のなかで死に至ろうが、死に際の心の調和がとても重要な意味をもつものであることを正しく理解している人たちはどれほどおられるだろうか。
死に際の心の執着、未練、不調和、憎しみ、怒り、妬み、こういった精神は死後の住世界を決める最も大きな要素となります。
あまり語られることのない話題ではありましょうが、死後の生活環境を考えますと脳死状態からの臓器摘出、移植がご本人の心にとって、またはそれに関わる人たちにとって大きな問題をはらんでいることが理解できるかと思います。
さて、臓器移植という問題を論議するにはもうひとつどうしても取り上げておかなければならないことがありますが、それは「植物状態」についてです。
「脳死を人の死と認めますか」ということについてマスコミなどで話題になったことがあります。
しかし、この問いかけには問題点があるように思います。
それは質問を受ける人が「脳死」の概念を正しく理解しているかどうか、ということです。
正しく理解していない人を対象に質問を投げかけても、その調査はほとんど用を成さないと思うのです。
脳死と植物状態の相違
脳死が死であるか否か、を判断するためには脳死とは何かを知っていなければなりません。
それを知った上で、それではその脳死が人間の死として認められるか否か、という議論となるのではと思います。
脳死(脳の全機能が停止した状態)
脳の全機能が停止した場合、無論、通常の意識感覚はなくなり、呼吸をすることもできなくなり、また瞳孔反射もなくなり、脳波は平坦となるわけです。
ここで知っておかなければならない重要なことは、脳死になっても「心臓は動いている」ということ。
呼吸の場合は脳からの命令がなければ止まってしまうのに対し、心臓は脳からの神経経路すべてを断っても活動をすることができるという点にあります。
これが脳死と自然死の関係をややこしくしている原因でもあろうかと思います。
脳死の定義では脊髄反射はあってもかまわないとされています。
過去に、脳死となった妊婦の出産がマスコミに扇情的ニュースとして取上げられたことがあったと記憶していますが、分娩は脊髄反射のみで可能といわれていますから、脳死の定義からすれば別に驚くようなことではないかもしれません。
また、妊婦が脳死となっても、脳以外の臓器は正常ですから、人工呼吸で酸素さえ与えれば胎児の生存もある程度可能なわけです。
マスコミで取上げられた例は、たまたま出産間近であった妊婦であったのかもしれません。
脳死状態となってから分娩まで数日以上経っていたら、おそらく胎児の方が先に死亡していたかもしれません。
この脳死とよく混同されるのが、いわゆる「植物状態」ということでしょう。
植物状態(脳の基本的な機能は生きている)
基本的な機能が生きているということは、すなわち脳幹と言われる脳の一番原始的な部分は生きているということです。
脳幹は呼吸や瞳孔反射など、自律神経系を司っているわけです。
そのために脳幹が生きている「植物状態」の人は自力で呼吸することができるということ。
また瞳孔反射、対抗反射、なども生きている。
しかし大脳の大部分は機能していないので通常の意識はなく、自分で食事をするというような健常者のような動きはできない。
自律神経系のことを植物神経と呼ぶこともあることから、こうした大脳の機能は停止しているが、脳幹は生きている状態の人を「植物状態」と呼ぶわけです。
整理してみます。
脳死の状態は自力で呼吸ができないため人工呼吸器をセットすることによって肉体の維持ができているということ。
植物状態は、脳の基本的機能が生きているから自力での呼吸ができるため、肉体の維持が可能であるということ。
臓器移植法
臓器移植推進派は「脳死は人の死」
臓器移植に関しての改正法が2009年7月に成立しています。
国会で成立するということは、その背景に推進派の積極的な活動が挙げられるのですが、その推進派には医療関係者や患者団体が多かったようです。
腎臓移植の草分けで臓器移植推進に力を注いだ故太田和夫・東京女子医大名誉教授は、「自分や自分の子供に臓器移植が必要になったときを想像してほしい」と訴えた。
そして、「臓器移植を推進するのは実験をしたい医者のエゴという見方を否定し、患者の切実な望みに応えたい医者の気持ちである」とも述べています。
推進派の主張は、「脳死が人の死であることは医学的にも正しい」とするところに集約されていると思われます。
脳死とは、人工呼吸器が登場した1950年代終わりごろ、今から64年ほど前に出てきた新しい死の概念で、先に述べたように、心臓はまだ動いているが脳全体が死んでいる状態を指すということでしょう。
とうぜん、脳が本来の機能をしなければ五体も臓器も通常の活動はしません。
ですから脳死の場合は植物人間とは異なり、人工呼吸器を付けなければそのまま心停止となり、付けていても数日から数週間で心停止すると一般的にはいわれています。
ですから脳死を以って死とみなし、臓器を有効活用しましょうということだろうか。
臓器移植反対派は「脳死は人の死説への懐疑的」
臓器移植に反対する意見で目立つのが「脳死は人の死」という医学的な定義に対する懐疑論のようです。
実際には脳死と判断されても心臓が動いていること、脳死と判断されてから長年生きている事例があることや、脳死者が両手などをかすかに、なめらかに動く現象を示すことなどがあるというのがその理由。
脳死者がそういった兆候を示す事例が多いため、臓器摘出時に麻酔や筋肉弛緩剤を投与することも反対派が疑義を呈する根拠だとしています。
正式に脳死と判定されて臓器摘出の準備が進められたが親族の判断で中止され、後に奇跡的に社会復帰した青年が、脳死判定時に意識があったと証言した例もあります。
そもそも日本での移植医療が進まなかったのは、日本初の心臓移植手術において脳死判定の妥当性や移植手術の必要性に疑惑があったからで、脳死判定への疑問や根強い医療不信をもつ人が少なくないからでしょう。
脳死については移植医療に積極的な米国でも議論が続いています。
①血液循環か呼吸機能の不可逆的な停止、
②脳の全機能の不可逆的停止、
のいずれかが確認されれば死んだとする「統一死の定義法」が全州で採択されており、死の解釈には脳死と心停止の両方があるようです。
一方、ドイツでも、脳死に関しては疑念が示されたため1997年に施行された臓器移植法でも脳死の位置付けは明確にされず、判断は医師会に任せたと解釈されています。
臓器移植は人体の資源化?
もうひとつの問題点は、
臓器移植が人体の資源化・商品化に通じる危険性をはらんでいること。(実際に世界では臓器の売買が行われていますし、闇組織も存在しているようです)
臓器移植を待つことが即ち他人の死を待つことであることへの抵抗感。
臓器移植によってしか助からないという前提医療への疑義。
脳死と判断された途端に医療を打ち切る可能性があることへの危惧。
脳死の認定が尊厳死につながるという憂慮など。
医療や道徳、人道上、宗教観など様々な観点からの反対理由が挙げられている。
臓器移植を推進するよりも臓器移植以外の治療法の開発を優先すべきという意見や主張もありますが、これも当然の希望といえます。
臓器提供に同意した家族の心情
臓器移植では、提供した当事者本人の意見を聞くことはできないが、提供に同意した家族の意見を知ることは可能です。
夫が事故に遭ったとの連絡を受けて病院に到着し、夫の意思を生かして脳死段階での臓器提供に同意したある女性は、推進派に対して「まず、あなたが死んで提供したらどうですか」と問いかけたいという。
助かる人がいる一方で臓器を提供する人たちがいることを考えてほしいと訴える。
本来ならば通夜をするはずの死亡翌日が摘出手術で、結局、通夜も葬式も行うことができなかった事に対して、これまでの文化や伝統、宗教観などがあり必ずしも思惑通りにならいことが後悔の念をもつことにもなりうる。
彼女は「同意することで私が最終的に殺したかのかもしれない」と後悔しているようです。
同様に夫の臓器提供に同意したある女性は当初は満足していたが、植物状態の患者が奇跡的に意識を回復したというテレビ番組を見て後悔の念が沸いた。
ある講演会で脳死と植物状態とは根本的に違うという説明を聞いてから、ようやく胸のつかえが取れたという。
後日、「夫が周囲にも臓器提供を勧めていたことが分かり、今は意思をかなえることができて良かったと思っている」ということだった。
臓器提供に違和感を残していた長男は、腎臓を移植された患者から希望あふれる手紙を受け取って納得したが、次男は「感謝されるために提供したのではない」と語り、家族でも思いは異なったようです。
ここで紹介したのは法改正前に臓器提供に同意した家族ですが、本人が臓器提供の意思表示を書面で記していた事例です。
臓器移植法に反対する宗教界の意見
さて、日本の宗教界の臓器移植に対する意見はどうなのだろうか。
世間では1990年に「脳死臨調(臨時脳死及び臓器移植調査会)」が設置される前から議論が沸き起こっていたようですが、特に伝統仏教からは統一見解がなかなか出ず、議論に乗り遅れた感があったように思います。
現在は公式見解を出している教団もあり、「脳死は人の死」とすることには反対だが臓器移植については相違がみられます。
例えば、真宗大谷派は1997年の臓器移植法の衆院可決時に「医療不信や脳死の判定に対する危惧が払拭されないままに脳死=個体死」とすることに納得できないと表明し、2009年の法改正時にも、「臓器を『部品』と見るような危うさ」に反対し、元来「受けとめること」であった「死」を傲慢にも「決めることができるもの」に変化させてきたと批判するコメントを出しています。
浄土真宗本願寺派は改正法成立時に、脳死者への診療が打ち切られる懸念や、本人の意思表示がなくとも死と判定されることが生命軽視につながる危惧などから、「脳死を人の死とすることに警鐘をならす」とし、首相などに適切な対応を求める要請文を送ったと記録されています。
浄土宗の浄土宗総合研究所は1992年に、脳死によって死の判定を望むケースのほかは脳死を人の死と認めない、人の臓器を資源とみなす臓器移植は望ましくないと表明したが、臓器提供者の姿勢は評価するとした。
ただし、臓器提供の意思表明は提供者によって自発的に行われることが重要で、年少者や発達障害者からの臓器提供には配慮が必要と発表しています。
その後、2005年に法改正の必要を認めない見解を発表しています。
イスラム教団体である日本ムスリム協会も、人の臓器がすべて止まった時が死であるとして、脳死・臓器移植に反対の意向を示している。
大本は「脳死は人の死ではない」と1985年から脳死段階での臓器移植に反対する運動を積極的に展開してきたが、人の死は心臓の鼓動が完全停止して霊魂が肉体から完全に離脱したときとする教義のためだけでなく、生命をモノとみる考えが人心を荒廃させることへの危惧からでもある。としています。
また、先進国では脳死が一般的という推進派の主張に対しては、逆に脳死に象徴される先進国の物質中心の考えを正していくべきであるとしています。
臓器移植法に賛成する宗教界の意見
一方、日蓮宗は脳死を人の死と認めず、1987年には臓器移植も否認していたが1994年には「自己決定による場合、仏教の慈悲心にもかなう行為」と表明して、脳死段階からの移植に反対しないという立場に変化しています。
天台宗も1995年に仏教では心身一如を基本とするので脳死を人の死とすることには賛成できないが、書面による意思確認があれば脳死者が自分の臓器を提供することは「布施の行為」として認められるとする見解を発表しています。
カトリックは、ローマ教皇庁の諮問機関である科学アカデミーが1985年に脳死を人の死と結論し、臓器移植は「愛の行為」とした。
ローマ法王、故ヨハネ・パウロ2世は1990年に「死後に自分の臓器を提供する行為は、キリスト教的な美しい愛の表現である。
カトリック信者は積極的に臓器遺贈に協力すべきだ」と語っています。
ただし、日本のカトリック団体であるカトリック中央協議会は、脳死や臓器移植に慎重な日本の風潮に配慮したのか慎重な姿勢で、「臓器移植を手放しに愛の行為として勧めることを躊躇させるものがある」ともしている。
宗教界では、脳死者の臓器移植に反対する側も賛成する側も宗教的な理由を根拠としていることが窺がえます。
ただし、賛成する伝統仏教の宗派は自分の意思による提供を前提としており、この点は「家族の同意のみで可」とする改正法とは相容れない。
また、「脳死を人の死」と認めないのに脳死者の臓器提供を認めることには矛盾を残しています。
脳死が人の死でないならば、臓器提供を認めることは自殺を認めることになるとの解釈もできるし、臓器摘出を認めることは殺人行為とも解釈される可能性も否定できません。
この点を考えると、脳死者からの臓器移植を認めるか否かは死の定義が問われる問題で、医学的であると同時に宗教的・道徳的なものでもあり、もうひとつ加えて言わせてもらうならば、難しいかもしれませんが霊的な視点があり、法律で一律に定義するのにはなかなか馴染まないものがあるようです。
脳死・臓器移植の今後は?
死生観や臓器移植への考えは、同じカトリックでもバチカンと日本のカトリック中央協議会の見解にやや相違が見られるように地域によっても異なり、また個人によって異なるものです。
曹洞宗は1999年に「仏教・禅の視座からは脳死を積極的に支持する根拠は見当たらない」「脳死・臓器移植については仏教・禅の世界観からは、是とする意見も非とする見解もあり、宗門として二者択一的な結論は出し得ない」と判断を個人に委ねる答申を出しています。
宗教界では反対意見が強かったのに改正法が成立したことに関して、宗教団体の発信力の弱さ、政治への影響力の弱さを指摘する声がある。
だが、必ずしも統一見解で動く必要はないかもしれません。
また、日蓮宗のように社会の変化に応じて見解を変える柔軟さも必要なのでしょう。
読売新聞社の世論調査でも、脳死・臓器移植を容認する傾向は調査を開始した1982年以降、強まっているように見受けられます。
議論が始まったころは、日本人は遺体を大切にするから移植は浸透しないという意見もあったようですが、近年はそのような意見は少なくなりつつあろうかと思います。
この30年ほどで死生観を取り巻く環境は大きく変化したことになるのでしょう。
体外受精児は1983年に国内で初めて誕生してから年々増加し、2004年には約1万8000人と年間出生数の約1.6%を占めるまでになったとあります。
1983年当時は生命への冒涜と批判を浴びた生殖補助医療でしたが、いまや政府が助成金を出す時代となっています。
中には海外に渡航して代理出産を依頼するケースもあり、臓器移植と同じく人体の商品化と批判されかねないと懸念する声もある状況です。
一方で死亡場所にも変化がみられ、1951年には自宅で死亡する人が8割超だったが1980年には病院で死亡する人が半数を超え、2000年以降は病院で死ぬ人が8割弱に達しています。
このような変化をみると、改正法は生命の始まりと終わりが人為的なものになり、生命の尊厳があいまいになったことの反映のような気がしないでもない。
古代の日本には遺体を一定期間、安置して死を悼む殯(もがり)という葬送儀礼があったといいます。
民俗学に詳しい大学の教授は、蘇生しないと確かめて鎮魂するのが主な目的だったが、後に仏教の影響を受けて火葬が広まると殯(もがり)はすたれてしまったと説明しています。
脳死・臓器移植の問題が、このように死生観や葬送の風習を変えるものになるのか、それとも揺り戻しが来るのか、それを決めるのは最終的には一人ひとりの考えであろうと思います。
大変長くなりましたが最後までお読みくださいましてありがとうございます。
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