地位と欲望


けがれた汚物を除きもせず、
黄褐色の法衣をまとおうと欲する人、
自制がなく真実も非(あら)ず、
この者に法衣はふさわしからず。

解説―けがれた汚れものとは着衣のことではなく心のうちにある煩悩、すなわち足ることを忘れた欲望のことです。

人間はその欲が満たされなければ不満、愚痴、怒りとなりやいすもの。

黄褐色の法衣とは僧侶の着衣のことですが、そのような欲望を捨てることもないまま、うわべだけを飾ろうとする人には、法衣などふさわしくないということです。

これは出家者を例題にした話しです。

例えば僧侶が村長さん宅のご法事に現れたとしよう・・・金襴の法衣と袈裟をまとって、長い数珠と金色かなんかの大きな扇子を懐手に白い足袋で堂々と現れるさまは神々しい存在であったろう。

ふすまを取りはらった広間の両脇に正座している村人を通り過ぎて、僧侶は中央の畳を踏みしめ、大きな仏壇の前、紫の大座布団…うっかり乗るとひっくり返りそうな厚みのある豪華な座布団におもむろに座り、周囲を見渡すさまが目に浮かぶ・・・・。

人に勧められて、なお謙虚に自分を顧みる度量が、上に立つ者ほど必要なのだろう。

これは私たちの生活にあてはめてみることもできます。法衣は資格の象徴でもあります。

資格の証明書というものは様々あって民間資格、国家資格など職業的にも色々です。

仕事は証明書がするのではありません。人間がするのです。人間は心で行うものです。

資格は必要なもではあっても資格に過ぎないのですが、中には資格の上にあぐらをかいて仕事をする人もいます。

またそれを鼻にかけることはしてはいけない。例えば何々の資格を東北で何位を取ったとか、全国で何位を取ったとかは自分から吹聴していうことではない。功績というものは人様が評価をしてくれることです。

つまり、『驕るなよ』・・・思いあがった言動をしてはいけないということ。

古い諺に『猫、バカ、坊主、医者、先生』という言葉がありますが、猫や馬鹿と僧侶、医者、先生といわれる人たちが一緒に扱われ表現されているこの言葉の言わんとするところは、簡単にいえば地位のある人こそ謙虚に生きなくてはならないということを戒めたことばでしょう。

先生といわれて思いあがってはならない。