自殺した息子への手紙

今回は命の尊さと、その尊い命を自ら絶つことの矛盾についてお考え頂きたく、T・Sさんが公開されたブログから、そのままの内容で転載させていただいた。

以下その内容です。

息子への手紙を書いてから初めて読み返してみました。
メールも”送信エラー”で戻ってくるのがわかりながら時々送信しています。
電話番号もアドレスも消すことが出来ずにそのままにして家族のグループに登録しています。

2005年11月16日
警察官だった息子 34才の人生を自らの手で幕を降ろした日、命日です。
納棺の日は私たち夫婦の35回目の結婚記念日でした。
息子は結婚もして三才半の娘もいて幸せだとばかり思っていました。
宮城県多賀城市で飲酒運転によるRV車事故、高校生の列につっ込み三人が犠牲になりました。
その事故の事故処理担当係長が息子でした。赴任してすぐの事です。
休みがなくなり大好きな車にのる時間もなくなり、家族団らんもなくなり・・・
心を病んでいったようでした。
そして相談して自宅療養になったのが10月でした。
夜の11時すぎ---電話
死んだ!!    と主人
すぐ次男が起きて来て 死んだ!! うそ!! 言葉になりませんでした。
私は 死んだ!? 誰? 死? どういうこと?
お兄ちゃんが? 死んだ? って何?
そのくり返しが頭に浮かび体がフワフワ浮いているようでした。
彼のメガネが涙でまっ白でした。
彼はどれ程の涙を流したのでしょう。
どんなに泣いて泣いて悲しみの絶望の中で死を決意し、
誰にも何も言わずに自分だけを責めて一人逝ってしまいました。
二度と帰ることのない世界に・・・
警察官だった息子は三日間何も飲まず食べず、覚悟の自死でした・・・
でもドアはカギをかけてなし・・・心のどこかで助けを求めていたのでしょう・・・
決行しても一秒でも早くドアを開けてくれたら・・・と・・・どこかで期待をしながら・・・
あわれでせつない彼の心・・・
そこまで彼を追いつめたものは何でしょう。
人間関係、言葉   言葉の暴力
するどい刃物より言葉は心を深くえぐります。
でも
人を責めず、自分を責めて責めて
”ゴメンナサイ” ”すみません” ”申し訳ないです” ”ガンバリます”と言い続け
逝ってしまいました。
”人は悪い事をしても、どうして悪いことをしたとは認めないんだろう。悪人だらけだよ!!”と
言っていた彼。
警察官という職業は合わなかったのか・・・と思うこともあります。
地域のふれあいの”おまわりさん”的な仕事はむいているようでした。
おじいちゃん、おばあちゃんが大好きで子どもが大好きで・・・
交番時代は楽しそうでした。
相談によくのっていたようでした。
死を決意し、ねむらず泣いていた日々
なくなる日・・・三日間
月曜は月が輝いて大きく、夜中に目がさめた私は
あまりの美しさに主人を起こして一緒にみてほしくて何度も声をかけて・・・
18階のマンションの窓から月をしばらくながめていました。
火曜日も又、同じように目がさめて主人に声をかけて・・・
大きく白く輝く月でした。
水曜は友人とランチをした時、肉の嫌いな私なのに、
ステーキがとても食べたくて・・・
人生で初めてステーキとハンバーグのセットを食べたのです。
夕方、その日は満月できれいな月でした。
友人と月の話しをして、”女は月をあまり見るとよくない事がおこるんだよ”
とか言われ・・・帰宅・・・
その夜の電話で息子の死
その朝七時に亡くなったと
いうことでした。
息子はお肉が大好きでした。
私を通してステーキを食べたかったのでしょうか・・・不思議です。
親バカですが・・・スポーツもでき、体力もあり、
そこそこ勉強も出来て身長も175cm体重90kg
やさしく真面目で・・・・・・
でもゲームもやり、映画も好きでたまにはパチンコもやり・・・
親思い特に私の事は大好きだったはずなのに・・・
相談もなく一言も死にたいと私たちにはもらさず逝ってしまいました。
結婚しないで独身だったら・・・
一緒に暮らしていたら・・・
もう二度と会えない彼に”かーちゃん”と言われる事もなく、
笑顔も見られない、おいしいものも食べさせられない・・・
毎日、お兄ちゃ-んとさけんでみます。
健一・・・と大きな声でさけんでいます。
一人っきりでの時
会いたくて会いたくて
名前をよぶのです。
弟もいつも、お兄ちゃんの好きなものを買って来ては仏壇に供えています。
夫も・・・私もスーパーに行くとつい彼の好物をさがしています。
夜中に目が覚めると彼の姿をさがしていて
お墓に行っても彼の姿をさがしています。
うっすらとでもいい 彼を見たいのです。
妊娠ですと言われた先生、あの場所から彼を産み---
34年の一秒一秒の想い出が頭に浮かびます。
ハイハイした日、たっちした日、入学の日
風邪ばかりひいていた彼 けんかした日
彼との34年間の想い出はこれから先ずーっと消えることなく
私の胸の内にあります。
でも 彼はもう、ここにはいない!!
弟が誕生日を迎えた日に、
”お兄ちゃんの年を自分が越えるなんて・・・!!”と・・・
もう彼が生きていた時のように笑うこともなく、
おいしいものも楽しいことも
二度とあの頃の感覚ではなくなっています。
笑っても・・・彼がいない・・・食べていても・・・彼はいない
きれいな景色をみても・・・彼はいない・・・
どこをさがしてもどんな時ももう彼は存在しないのです。
魂はあると思うけど、私には見えない・・・会いたい
自死
人間社会の最高の刑罰が死刑ですが、
死とは人間が最も怖れるものです。
”死にたくない”
不老不死の薬を望んだ昔の権力者たち、
自分の死は恐ろしいものです。
その死を
自ら決意し 自ら決行する
自決は勇気ある者として讃えられます。
なぜ自死は忌み嫌うのでしょうか・・・
あってはならない事ですが、
その決断をさせた何かがあるのであって、
何もなくおだやかに笑っていられる世の中ならば
誰が好んで死を選びましょう・・・か
誰だって生きたいのです。生きたかったのです。
自死は彼らの責任ではなく、
残された私たち社会への大きな問いかけだと思っています。
そして救える命なのです。
確実に助けられる命なのです。
私は自死遺族だけでの運営による会をやっていて
多くの参加者があり、全国たくさんの方々とのつながりをいただき、
自死予防活動にも今年から力を入れています。
一人でも一日でも長く生きてもらいたい、生きてほしい
ひらすら願い毎日24時間の受付相談をやっています。
少しでいいのです
やさしくありたい
ほんの少しの思いやりを
一人一人もてたら
社会は大きく変わります
慢を人間が感じとり謙虚になれたら
必ず世の中がかわり、それが私達も住みやすい社会なのです。
ほんの少し・・・の やさしさ
少しの想像力
私の息子は生きていました。
頑張って生きていました。
彼を誇りに思います。

ここまでが転載させていただきました内容です。

心やさしく、真面目で自分に厳しく遠慮がちで純粋な個性の人間。しかし、純粋過ぎるという言葉では片づけられない。純粋さもバランスを失い、そのことに偏り過ぎると傷つくことになる。

この世の中は善と悪が混在する世界である。それは物質世界であるからだ。肉体、物、金、知識、名誉、地位、職業、何一つとっても偏ると心のバランスを失う原因と成り得る事ばかりである。

この世は悪がはびこってはいるが、心やさしい人々もいる。そして善を為している人たちもいる。決して悪ばかりではない。

いつまでも心に残してはいけない相手の言葉に拘り、心から離せないで引きずっているときは、心が重く苦しく、そして負担になっていることにさえ気づけないほど自分を見失っているものだ。

できない自分にいら立ち、自分を奮い立たせようとするが、心は晴れない。完全にやり遂げようとすればするほどできない自分とのギャップに苦しむことになる。

できない自分を認めることができない自分が自分を苦しめていることに気づけないでいる。苦しみは自分の心の視点を変えてやることで負担が軽くなるものです。

さて、最近も『死にたい、殺したい』という若い女性のうつ病クライアントからお母さん同伴で2時間ほど話しを聴きました。

そこで自殺は大きな業(カルマ)を上塗りしたことになるということを先に申し上げておきたい。

自殺の問題を考えるときに避けて通れない『人間が生れた目的、人生は何のためにあるのか、何故生きなければならないか』というものがあります。

人間の目的を一言でいうならば魂のステージアップ地上をユートピア(楽園)にすることである。

私達があの世からこの世に生まれる時は、百人が百人、こんどこそは自分の業を修正し、自分の心を調え、この世を調和すると決意して出生します。

ところが、生れて地上の空気に触れ、やがてこの世の環境に染まってゆくうちに、こうした目的を忘れ、自己保存の想念に支配されてゆきます。

自殺の心理はその極点に近いものです。いうなれば自己保存の自意識が過剰なために、自らそうした行為に追い込んでゆくものです。

優しい子だったとか、真面目な人だったとか、素直な子だったと追憶するのだが、それだけでは済まされない心の闇の実態を知っておく必要があるだろう。

人間の命というものは、肉体は両親から頂いたものではあるが、魂(心)は人間が創ることはできない。魂(心)は胎児が妊娠3ヵ月~4カ月のときにあの世から下生して胎児に宿るのである。

あの世にいるときの魂は万民が神の分け御霊であり、時が満ちて許しを得てはじめてこの世に生まれることが叶ったのだ。

この世に生まれるチャンスは、手のひらにすくいあげた海水と大海との差があることだといえば分るだろうか。この世に生まれることのできるチャンスは手のひらほどの少ないものなのだ。

そうしてみると、千年、二千年という時を経てこの世に転生できることを思えば自ら命を絶つことが如何に神への冒涜になるかを知らなければならない。

自殺は人類の調和、地上の調和という道から逸脱した反逆であって、人間否定を意味します。ですから悪のうちでも、自殺は最悪の部類にはいるのです。

自ら命を絶った人の場合、死んで楽になることはない。

死の瞬間の心は自責の念や、他への恨み、生きることへの諦め、悔しさ、悲しみ、などで不調和の極みである。

いずれにしても死は、現世のままの連続体だといえよう。

その意味で、この世で不調和な人は、あの世に逝っても、当分は心が調和できるまで時間を要することになる。時間というより年数といえる。

ただ、あの世の場合は、心的変化がこの世よりも遥かに精妙な世界なので、肉体がないが故に、思うことがそのまま現象化する世界だから、不調和な心もまたそのまま現象化するということだ。

それだけに死者や先祖に対しては、生きている人々の調和された心と行いの積み重ねによって、正しく導いてやることが必要である。

正しく導くとは、地上の家族が心穏やかに生きることを示し故人にみてもらうことである。いわゆる模範を示すことといえよう。

模範の基準は足ることを忘れない生活、不満を心に持たない生き方、愚痴を思わない、言わない、怒りの心に持たない、他に対し怒らない。すべてに感謝し、報恩として行いに現すことをいうのである。

そのことにより死者はやがて、自分の内に在る神性仏性を思い出し、必ず、いつの日か救われることになるのである。

自殺者や死者への真の供養のあり方は、決して仏壇の前で勤行することでもなければ、仏像を拝することでもないのである。

自殺が何故いけないかは、本人のその時の想念が死後も継続するために暗黒の世界で、一寸先も分らぬ真っ暗な穴倉のようなところに閉じ込められての苦しみが延々と続くからである。

鼓膜が破裂しそうな轟音が鳴り響き、得体の知れない生物が意識の中に入り込んでかきむしるのです。

頭痛や幻聴に襲われても、この世では麻酔や疲労が救いになって眠ることができますが、暗黒の地獄ではそれができません。肉体がないからです。

意識だけはハッキリしており、それでいて真っ暗ですから自分の体がどこにあるのかもわかりません。

自殺は光りを否定した想念ですから、こうした暗黒界に自らを引きこみ、客観的に説明のできない自殺は、その苦しみが長期にわたります。

夢々こうした想念に支配されないようしたいものです。

きょうも最後までお読みくださいまして心から感謝もうしあげます。またの訪問をお待ちしております。ランキング参加しております。、下のバナーをポチッとクリックして頂ければありがたいです。^_^;