死んだ子どもに会いたい


きょうはK・Jさんのブログ記事から転載させていただきました。
その訳は、最愛の家族を失った後に亡くなった人のためにどういう思いで接することが一番正しいことなのか、何故そうしなければならないのかを考えて頂きたいと思ったからです。
以下、K・Jさんの投稿記事内容。
息子にあいたい(K・J)
私は、交通事故で最愛の息子「K・Y」を十四歳で亡くしてしまいました。子供という宝物を失ってしまったのです。
朝、いつもと変わらずに「行ってきます」と言って出掛けた家族が、数時間も経たないうちに冷たくなって帰宅する事になろうとは誰が想像し得たでしょうか。友人との弾んだ語らいの最中に、この世で生きる事を断ち切られた、命を奪われた息子の死。
あなたはその死をどう受け止めますか。あなたの一番大切な人を失ったら・・・・・・残った自分も生きる力を失ってしまうのです。
息子は、親より先にこの世を去り、私達家族に「さようなら」も言えずに、たった一人で天に行ってしまったのです。
その時私は、助けてあげることができなかった自分の無力さが情けなく、ただただ「ごめんね。ごめんね。」と謝っていたのです。
しかし、その一方では、息子の死という現実を受け入れることができず、「死んでいない、救急車に乗せて。」と訴えていたのです。
なぜなら、ガードレールにもたれかかっていた息子の体はまだ温かかったのです。
その体もだんだんと冷たくなり、固くなっていきました。
青ざめた顔。開かない目。
しゃべらない口。
その周辺には真っ赤な血が流れ、飛び散ったあの子の体の一部。
私は、気が狂い叫びました。誰か助けて、神様助けて。
嫌だ、嫌だ、嫌だ、お母さんと呼んで、ねぇ・・・・・・・・・。あれから何分が経ったのでしょう。
私は、痛いの、怖いの、寂しいの、悔しいの、大丈夫お母さんはここにいるよ。
安心するんだよ。Y君、Y君、Y君と名前を呼び続けました。
体を何度も何度も揺すりました。
失ったこの辛さは、当事者以外、誰にも分からないのではないでしょうか。
あの笑顔、あのしぐさ、あの言葉、息子の全てが思い出という形でしか残されていません。
過去しかないのです。現在も未来もないのです。
二〇〇〇年九月二十五日。K・Yの全てが無くなってしまった日でした。
葬儀の二十七日。無言でお別れをして、白い煙りとなり高い高い空に飛んでいきました。
本当に本当にこの世から消えてしまったなんて・・・・・・。影も形も無くなってしまったなんて・・・・・・。信じたくない気持ちでいっぱいでした。
数日後、私の夢の中に来ました。中学の制服姿で自分の祭壇の前で私に聞いて来ました。「ねぇ、俺、本当に死んだの?」「燃やされるって熱くないの?」
亡くなった後の最後の言葉でした。最愛の息子を亡くしたショックは大きいものでした。
しかし、私は「生命いのちのメッセージ展」と出会ってから変わりました。
あの子の為に何かしてあげようと思ったのです。
あの子をこの世に戻すためには、同じ遺族の方達と声をあげて、息子が生きていた証を、沢山の人々に見て頂き感じて頂くことだと思いました。
私は、生命いのちのメッセージ展で全国を旅している息子の為に、これからも闘います。闘うとは変な言い方かも知れませんが、息子を殺した加害者が、本当に自分が「悪い事をした」と思えるまで闘います。
仲間のメッセンジャー達とその家族とで訴え続け、息子の無念さを晴らしたいと思います。
最後に皆さんに伝えたい事があります。
交通事故は、あなたの不注意で被害者の人生を奪ってしまうのです。
周りの人達を悲しませないでください。
ハンドルを握る手に、あなたの一生も握っているのです。交通事故を軽く見ないでください。とても恐ろしい犯罪です。(ここまでがK・Jさんの投稿全文です。)
さて、死というもの、どのような理由にしろ、最愛の家族を失うことは悲しいことである。また寂しいことである。
特に、わが子に先立たれることは、どれほどの悲しみ、苦しみであるか、当事者でなければ到底わからない辛さであろう。
K・Jさんも悲しみのあまり、『あの子をこの世に戻すためには・・・・・・。』とつづっている。
実際になくなった息子をこの世に引き戻すことが叶わないことだと知ってはいるのだろうが、しかし、死者に向ける思いとしては非常に良くない。
何故なら、そのような遺族の想念は然るべき霊界に入る準備をする者にとって心を乱されるからである。
悲しみ、未練、怒り、こういった想いは死者の心を引っ張り、呪縛となることをしらねばならない。
私のところに、『亡くなった娘の声を聴きたい、息子の声を聴きたい、何か伝えたいことはないか知りたい、どうしているか知りたい』といって相談に見える方がいます。
私は相談者に伝えます。『私は、あなたのお子さんの代弁者にはなれませんよ』と。
例え、どのような信憑性(しんぴょうせい)のおける言葉で、これがお子さんのメッセージですと伝えても、話しているのは、お子さん本人ではなく私なのです。
聞いた親御さんが納得する、しないは夫々に個人差があります。
本来、見ることのできないものを見たい、手に取ることのできないものを手に取ってみたい、聞こえないものを聴きたい、こういうことを人に託してまで自分の望みを叶えたいという思いは決して向上的な心の在り方とはいえないのです。
一時の慰めを求める者は、人から与えられる愛を待つ傾向にあるものだ。
そして、3年10年と、いつまでも我が子がどうしているかと気にかけ、思い悩んでいるのである。
最愛の家族を亡くしたことは同情もし心情を察しますが、遺族が、亡くなった人に対し長期にわたり、余りにも心を傾け過ぎることは死者(あの世の)の生活を邪魔することになるという摂理については殆んどの人が知らない。
この世には人類が平和に暮らす為に、安全に暮らすために法律があり道徳というものを守り生活しています。これと同じように実は、あの世にも犯すことにできない秩序と摂理というものがあるのです。
例えば、幽界といって、亡くなった人は21日間はこれまでのように家にいたり、親戚、友人、知人のところに挨拶にいくことも許されますが、それ以上は別な世界(霊界)に移動しなければなりません。
つまり21日の間は、これまでの生前の自分の生き方、心の執着、家族や他人に対して不満や愚痴や怒りなどを現した態度、言動を振り返って反省し、心から詫びて悔い改める反省行をして心を調和しなければならない期間なのです。
このような調和の反省行ができた時点で本来の霊界に行くことができるのであるり、これを以って成仏というのです。
事故死の場合などは突発的で瞬間的なものですから、死に対する心の準備もなく、痛みや苦しみを感じている間もなく死に至るため自分が亡くなったことを気づかずにいる場合があります。K・Jさんの記事にあったようにです。(「ねぇ、俺、本当に死んだの?」「燃やされるって熱くないの?」亡くなった後の最後の言葉でした。)
死者は、家族が大勢集まり、祭壇を飾り、告別式の準備をしている様子を見たり、自分の身体が横たわっている姿に家族が泣いている光景などを見て、不思議に思い、自分は生きているのに何故みんな泣いているのか、なぜ自分の身体が横たわって動かないのか傍で見て疑問に思うのである。
『おーい、僕は生きているよ。お母さん。お父さん。おーい、僕はここにいるよ。』と声をかけても誰もその声に気づかないのだ。
これは、肉体がない、霊体だけの状態で声を出しても、この世の人たちの耳には届かないのだ。
つまり、3次元のこの世は、肉体のある世界であり、4次元のあの世は、肉体がなく霊体だけの世界である。
死者がさ迷うのは、この世の感覚のままであの世に移動した場合に、次元の違いに気づけないことでおこるのです。
このように自分の死に気づくのは死に至る状況や、生前の心の曇り、つまり、執着の度合いによって異なってくる。常日頃のなかで心にこだわり、執着のある人の場合は死んだときに自分を客観的にみることができないのです。
したがって、このような状況の死者に対し遺族がしっかり霊界に入れるように導いてやらなければならないのであるが、自分の気持ちだけでいっぱい、いっぱいになって『子どもの声を聴きたいとか、伝えたいことがないか知りたいとか、どうしているかを知りたい』などと叶わない希望を言いだすのである。
問題は、この世の遺族が死者に対して自分の想いを優先して向けることが如何に、霊界入りの妨げになるかということです。
故人のために何を為すべきかとなれば、いつまでも悲しみの心を向けてはならない。
自己都合の言葉で話しかけてはならない。
どうしているかと近況を知りたがる話しかけはしない。
そして死者の冥福を祈ること。
では、どのように故人の冥福を祈ることが最も正しいことなのだろうか。
その具体的なことについて触れるまえに述べておきたいことがあります。
先ず、あなた自身が、愛する家族を残して急逝したと仮定してください。
あの世に行ったあなたが見る光景は、毎日毎日泣き崩れる妻であり、夫であり、あるいは、子供であり、兄弟姉妹であるかもしれません。
しかし、長きにわたり悲しみ苦しんでばかりいる家族をみる貴方は、その光景をどのように感じ、受け止めるのだろうか。
間違っても嬉しいはずがなく、むしろあの世の貴方も切なく、淋しく、悲しくなるのではないだろうか。
後に残った家族が悲しむことはあなたの悲しみとなるために、あの世の貴方自身も旅立ちに際して決心ができなくなると想像がつきませんか。
このことが霊界入りを妨げるのです。
この世とあの世の関わりとして発生する私たち人間の想念は深く、強く働き、あの世の霊人達の心を安らかにもし、呪い、騒がせもするということだ。
ということは自己都合の想いではなく、悲しみではなく、怒りではなく、愚痴ではなく、この世に残ったものたちの偏りのない調和された心で霊界入りを見送ることが必要だということです。
愛するが故に悲しみ、苦しむのではあるが、故人の冥福を祈るということはそうであってはならないのである。
故人供養の一例
『○○よ。あなたと親子で(夫婦で)(兄弟で)あったことは、私にとって何よりも嬉しく、尊いことでした。
あなたからたくさんの愛を頂きました。
勇気を頂きました。
そして貴方と親子であったおかげで様々なことを学ぶこともできました。
今あなたに言いたいことはただ、ありがとうということです。
○○よ、本当にありがとう。
あなたがこの世の人生を終わるには早過ぎました。
しかし、それも今となってはどうすることもできませんし、致し方のないことです。
短い人生でしたけど、あなたの存在と精いっぱい生きたことは私の心にそのまま生きています。
あなたも自分がこの世からそちらの世界に移って生活することになったことに気づき、これまでの人生を振り返ってみてください。
もし人様にご迷惑をかけた事や嫌な思いをさせたことがあるなら、そのことを心から反省して何が良くなかったのか答えを探し、神様に心から詫びることです。
この世にいるときのことに関して一切のこだわり、不満、愚痴、怒りなどを捨て心を調和することによって貴方の心に光が満ちてくるでしょう。
そうすると、やがて魂の兄弟たちがあなたを霊界に導くために傍にきてくれるのです。
あなたは何の心配もいりません。
その魂の兄弟たちが光で満たされている人たちなら安心してついて行ってください。』
このように自分の立場で文章の内容を変えて手紙を書く要領で作成して、それを毎日21日間読み聞かせることです。そのことによって死者が自分の状況を気づかされます。
故人、冥福への祈り参照
きょうも最後までお読みくださいまして心から感謝もうしあげます。またの訪問をお待ちしております。ランキング参加しております。、下のバナーをポチッとクリックして頂ければありがたいです。^_^;