修行僧の質問・地上にはなぜ争いが絶えないか

光の天使
修行僧 より: 2013年7月24日 6:37 PM 問い合わせ。
私はお寺の長男として生まれました。
檀家さんもたくさんあり、お寺を継ぐために現在は専門の大学を出て他所のお寺で修行僧として学んでおります。

ただ、お経の中身は非常に哲学的で難解なことばかりです。
人間の心を何故、これほどまでに難しく表現し、学ぶ必要があるのかいつも疑問があります。
しかし、この度、こちらのサイトをたまたま発見して食い入るように読みいりました。
大学でも、いまの修行でも、経文に対する疑問が消えなかったのですが、観童さまのブログを拝見して、雲が晴れるように溶けてしまいまし た。
ありがとうございます。
ひとつの質問をさせてください。
あの世には極楽浄土があると思うのですが、この世で争いが絶えないのは地上の人間による原因だけの問題でしょうか?
あの世の霊の影響はないのでしょうか?
突飛な質問で失礼かと思うのですがよろしくお願いいたします。(原文のまま)

お答え
この世の争いはあの世の霊たちの影響があるのかとなると、あるといえますが、しかし、それも地上人間の不調和な想念が呼び込んだものであります。
さて宗教の世界では、よく天の国とか、極楽浄土とか、黄泉の国ヨミノクニ(あの世)とか、あるいは高天原タカマノハラ(神々の住む場所)と、いったりしますが、私たち一般の人間も、天国とか、地獄という言葉を使うこともあります。
一般的には認識できないことですが、天上界には光の天使や指導霊という、人々を教化する霊たちがいます。
勿論、天地大宇宙を創造された唯一の意識(神)が存在するのはいうまでもありません。
その下には神と同一の意識までられ、その任を担った光の大指導霊たちが存在するということです。そして、光の大指導霊が地上に降りたときにサポートする守護霊や指導霊のほかにも明王や諸天・善神がいます。
神道的には「高天原に座します〇〇の神たち」、「八百万の神々」というようにです。
例えば、光りの大指導霊として地上に降りた天使の代表をいうならば、
紀元前13世紀ごろ(約3300年前)活躍した奴隷の子、古代イスラエルの民族指導者であったモーゼ
約2500有余年前インドの地において王家の息子から出家して大悟され、慈悲を説き、仏教の開祖となった釈迦無尼仏
紀元前4年頃 – 紀元後28年頃(約2000有余年前)にガラリヤの地において宣教活動を始めて愛を説いたイエス・キリスト
これら天上界を代表する光りの大指導霊たちではありますが、それでも一旦、肉体をもってこの地上に降りてくると、大悟するまでには地獄の魔たちとの闘いがあるのです。
ゴーダマ・プッタは禅定によって大悟する前に地獄のマラーを退け、イエスは沙漠の荒れ野に送り出され、そこで四十日間断食し、悪魔の誘惑を受けたが退けて大悟されました。
崇高な境地まで自身を高めようと志す者には必ず魔が競い立つものであります。
修行僧さまの質問の趣旨は、四次元以上の世界には偉大な光の大指導霊や天使たちがいて平和な楽園があるというのに、そして地上にも使命を担った光の大指導霊や光の天使達が降りているというのに、なぜ地球上に戦争や、他人との争いや、労使の闘争や病気があるのだろうと問うているのかと思います。
疑問を持つのは当然のことと思います。
この世の状況に応じて、あるいは定期的に、光りの大指導霊たちは地上におりて正しい教えを残して還るのであるが、いつの世も人間の心は邪悪な想念によって物質至上主義に陥り、守銭奴と化し、争いが絶えないのである。
それはこういうことです。空″の世界、即ち、あの世と、この地上世界とは、次元こそ違ってはいるが、この地上界の人々の心の調和によって、霊囲気が清明になれば、通信は可能なのです。
また調和された心の人々には直感、インスピレーションという形とって守護霊や指導霊から導かれることになり、益々より良い人生を営めることになっていくのである。
しかし、人々の心が不調和のため、この地上界に巣食っている動物霊や地獄霊のように執着の強い者達が、特定の人々の心を支配して語ることもあるし、行動させる場合が多々あるものです。
重要なことは、このような人々の心と生活の態度が、怒りっぽいとか、金銭欲が強いとか、他をそしるとか、地位や名誉ばかりを追っているとか、形式主義にとらわれて、いつも心に安らぎがないということです。
不調和になっている人たちの心は、天上界の光りの天使といえども、波長が合わないために、なかなか指導できないのです。
科学的にいうならば、送信機(心)と受信機(心)の波長(周波数)が合わなければ送信も、受信もできないのと同じことです。
家庭のトラブルや対人関係でうまくいかないといって相談に見える方、うつ病や過食症、さらに、広汎性発達障害などで相談に見える方、総じて自分の心の中に執着の塊がある。
回復していける人、いけない人の違いは、自分の我を捨てられるか否かである。
大宇宙の善なるエネルギーと人類との間にある障壁は、私たち地上の人間がつくっているということだ。
思想や習慣、イデオロギーなど人間の小さな価値観で作ったものなど天上界の調和された愛と慈悲の価値観からすれば全く愚かなものでしかないだろう。
特に、貧乏人から多額の金品を神の名のもとに請求する偽善者は、正しい心の者達ではありません。論外です。
このような地獄霊や動物霊に憑依されている者達は、常に心がイライラし、今いったことと、あとでいったことがチグハグで、脅迫めいたことばかりをします。
先祖が祟っているとか、浮かばれていないとか、不幸の原因をそのような方向にばかりもっていく霊媒や、霊能者、教祖、教団もある。
そうしたものにいくらお経を上げて供養したところで、救われることはないでしょうし、基本的には地獄に堕ちるような人に、お経の意味など解るはずはない。
「解らないお経を唱えることの有り難さ」云々といっている僧侶がいまだにいるのである。
解らないお経を上げて、悟ることができるなら、地上界の人々の心は、もっと平和になり、争いなど起こさないはずです。
お経を唱えることが間違っているということではないが、意味を理解して、その教えを生活の中で実践して活かすことが重要だと言っているのです。
先祖に対する供養は、お経を唱えることではなく、まず先祖からは肉体を戴いたのだということ、育てて戴いたことへの感謝する心を持って報恩の行為で示すことが大事でしょう。
先祖に向かってお経を唱えるということは、親やその先祖に対して「人生の在り方はこうだよ」と説教しているようなもので、説教している本人が日頃、不満や愚痴や怒りを露わにしているというのはおかしいではありませんか。
報恩を行為に示すということは、身体を健康にして、心を美しく、家庭が円満で、いつも笑い声の立つ家で、朝起きれば希望に燃えて、昼は自分の仕事に勤勉で、夕は一家団らんの夕食をとり、夜は自由と反省を与えられた生活です。
こうした人間の一日に、不満があるはずがないでしょう。
このような生活をすることが、先祖に対する最大の供養だといえます。
たとえ地獄に堕ちていても、子孫が平和な生活、光明に満ちた生活をしていれば、地獄霊もその姿を見て、自ら自分の非を悟ることでしょう。
形式主義によって読経による供養だとか、ご法事だとか、何回忌だとかでは、光明の安らぎは与えられないということを悟らなくてはならない。
地獄に堕ちるということは、他人に原因があるのではなく、自分自身の生活に原因があるということを自覚すべきです。
また、病気や事故や経済的不調和、友人との不調和や、生まれながらの肉体的不調和にしても、すべて反省の機会は与えられているのである。
そのことを知るべきでしょう。
結果を見て、なぜ不調和な現象が起きたのか、その原因を知って反省し、心から神に詑びることが必要です。それが自分の心にウソをつかないということです。
心の調和されている者達には、直接注意してくれる天使達もいるでしょう。
不調和な者には、様々なかたちをもって警告を出してくれることもあるでしょう。
目先の自分の利益だけ、国益だけで行動してはならないし、政治を行ってはならない。
私達は、日本にだけ生まれているのではなく、あらゆる国々の体験をして、転生輪廻をしているということを忘れてはならないのです。
心の窓が開かれ、意識の記憶にスイッチできた者達は、あの世の光の天使達の協力によって、過去の記憶もよみがえってくるでしょう。
釈迦如来、といって出てくる霊媒や教祖達が、 二千数百年後につたわってきた如来の像に向かってお経などを上げることもおかしな話です。
まして、我は釈迦なり、といって出てくる者が法華経の題目など上げるはずはなく、あったらそれは偽者です。
何故なら、その時代に、そんな経文はありはしないからです。
また、我は観世音菩薩なりと名乗る者が、観音経を読んだとしたらこれもおかしい。
なぜなら、自分が自分の業績を讃(たた)えたお経を読むはずがないからです。
つまり、それだけ、人の心は汚され、動物霊や悪霊、地獄霊などが偽って出ているのです。
しかし、メッキはいつかはげるものです。如来や菩薩や不動明王や稲荷大明神や竜神などが、霊媒に出てきて、先祖の供養をしなさいとか先祖が迷っているとかいうはずはないのです。
すべて、地獄霊の仕業です。
本物の、慈悲深い如来や菩薩や諸天善神なら、哀れな地獄霊達をも救うことでしょう。このように、永遠の生命を持っている私達は、誤った道に入ってはならないのです。
正しい神理にもとづいて生活をしていれば、必ず天上界に通じるはずです。
天上界に通じるということは、正しい指導を受けられることになり、道を誤ることもなく、地上平和の条件が整うことになるのです。
間違ってはいけないのですが、神仏が全てを解決してくれるのではなく、光の大指導霊が事をはこんでくれるのでもありません。
家庭の調和が私たち自身の想念と行いに委ねられているように、地上の平和も私たちの心にすべてが委ねられてあるということです。
如来は、転生輪廻の道を悟っているから、地上の肉体にとらわれず、自由に天上界、地獄界、地上界を往来し、輪廻を解脱しているのです。
生と死の束縛から離れている、そのことは、如来ならば当然、肉体は人生航における魂、意識の乗り物にしかすぎないことを知っています。
生死はまた。から。の世界、あの世とこの世に適応した肉体の乗り替えにしかすぎないことを、良く知っているからです。
私達は、この地上界においては、同じ国にばかり生まれているのではないということを、このことによって知らなくてはならないでしょう。
それは、肉体条件の異なるあらゆる世界の国々に、自分が望んで転生輪廻している生命である、ということなのです。
貧しい環境に生まれて魂を磨くこともある、また一国の主として優雅な生活を送ることもあるし、衆生(人々)に尽くす立場に立つこともあるでしょう。
そのすべては、自らの人生の体験をとおして、豊かな神仏の子としての、広い心を作るための修行にほかならないのです。
そして今も、私達は新しい人生の学習をしているのです。
従って、肉体的先祖が、すべてである、という認識は誤りなのだ、ということが解るでしょう。
現代社会人の大きな誤りは、肉体先祖から肉体を戴いているため、それが魂までくれたもの、と思いこんでいるところにあります。
しかし、そうでないことはもうお解りでしょう。
もし魂まで戴いたものなら、私達は、両親と全く同じ魂・意識を持ち、同じ考えをするはずですし、断絶などあり得ないはずなのです。
しかし現実は、そうなっていません。
私達の中に、内在する潜在意識の記憶は、転生輪廻のすべてを記憶しているのであり、誰でもが、心の窓が開かれ偉大な智慧に到達できれば、そのことを悟り得るのです。
私達はつまり、転生輪廻の旅人、修行者である、というわけです。
私達の魂は、生まれることも滅することもない、永遠の生命なのです。
ですから、肉体自体が垢や塵にまみれることもないし、そのゆえに、増えも減りもしない、不増不減であるというわけです。
人の世の争いも、各人の心がここに到れば、必ず救い得るものなのです。
生命には、鉱物のような不動の生命もあれば、植物のように静態の生命もあり、動物のように移動する生命もある。
しかし、こうした固体的生命というものは、不安定なものである。
つまり物質界というものは、このように不安定なものなのである。
この不安定な肉体に執着すればするほど自分を見失うことになるということだ。
人類の平和を神仏に願うことはただ単に祈りであってはならず、私たち各自が我が子を見守って育てる親のように、愛をもって慈しみ、全ての人間に接していくことから始めなければならないのだ。
私たちの心が神仏の意志に沿うものであれば、いつでも光りの天使たちの導きを受けられよう。
しかし、己の欲望に翻弄された生き方は対立を生み、敵を作り、孤立し、、相争う結果としかならないであろう。
だが、やがて人間の未来は、長い歴史のなかで愚かさを知り、多くを学び、物質文明と精神文明の両立を図るようになるであろう。
そして、今から200年ほどもすれば高度な科学の発展によって宇宙空間にも生活の場が拡がるであろうし、地下都市や海底都市もできてくるであろう。
乗り物は自分の家から飛行するようになり、現代の車のような化石燃料をエネルギーとする乗り物とははるかに異なった光りエネルギーによる高度なものになってくるだろう。
それは、反重力エネルギーによるもので、物理的規制を超えて移動し、新たな天体も発見され、他の天体にまで行き来するような飛行物体へと進化したものとなるだろう。
しかし、そういう進化した科学文明を支えるものは、より進化した高いステージの精神性がなくてはならない。
いつの時代も科学的物質文明が優先してしまうがために、その文明によって自らの破壊が深刻になる場合が多いものだ。
2011年3月11日、M9・震度7の三陸沖地震による津波の犠牲者、原発事故による犠牲者や居住地を追われた住人達。
これほどの犠牲を出してもまだ気づけない、国をあずかって行政に携わる人間たちの愚かさ。
地上平和のためには、物質文明を支えるだけの崇高な精神性必要であり、それがいま、人類が取り組まなければならない最大、且つ、重要なテーマであるということだ。
地上平和の祈りとは、愛と慈しみの心をもって行うことである。
祈りの為の祈りである必要はない。
!光り即行であり、行即光である!
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