伝わる言霊・伝わらない言霊

怒り伝わる言葉・伝わらない言葉
人間にとってはコミュニケーションをはかるときに欠かせない、なくてはならない言葉ですが、その言葉を何気に使っているだけに、その大切さ、与える影響を意識して考え、大切にする機会は少ないのではないだろうか。
相談者と直接会話しているとき、あるいは相談を電話で話しているときにも感じることですが、自分の言葉が相手に伝わっているのか、いないのかは大体わかります。
私自身は言葉を選び、相手にとって必要な内容や、それを伝える為にどのような表現をすれば心の中にすなおに入っていくのかを意識しながら発するのですが、それでも相手の心に届いていない、入っていかないこともあります。
理由は、私が未熟であるということと、相手があまりにも悩み苦しみの期間が長すぎたり、その度合いが深かったりで、心が閉ざされた状態になっていることがあるからです。
特に、精神疾患ということで多種、多量の服薬しているような場合はそれがはっきりしていますし、個性としての心の傾向性があまりにも頑なである場合も言葉が入っていかないことがあります。
言葉は本気で言う
前回の記事でも触れましたように人間関係と言葉の関係は表裏一体の関係にあるといっても過言ではないでしょう。
人間関係が希薄になっていることがしばしば指摘されるこの時代、それがもっとも顕著にあらわれているところの一つに親子関係があります。
親子のあいだにはどこか歪みが生じてきているような気がしてなりません。
歪みが生じれば必ずその影響がしわ寄せとなってあらわれてきます。
子どもの不登校や引きこもり、家庭内暴力、言葉の暴力などが、これでもかというくらい頻繁に新聞紙上をにぎわしていますが、親子関係はそうした現象が顕在化するはるか以前からその種があり、目が出てきていたのではないでしょうか。
子どもをやさしい愛情を持って大切に育むことは、親のいちばんの役割ということには何ら異論を挟むものではありません。
但し、大切に育むことと、甘えを許し野放図に育てることは決定的に違います。
学校に行けない子ども、行きたくない子ども、その背景には様々な原因があり、理由があります。子ども自身の問題点あり、親の問題点あり、学校の対応の問題点あり、子ども同士の問題点ありです。
新幹線で移動したときのこと、周囲から迷惑顔がいっせいに向けられているなかで、まったくそれを気にするふうもなく、大声で騒ぎ、車内を走り回る子どもたち。
驚くのは、付き添っている親がそれをとがめようともしないことです。
注意したとしても厳しさのない言葉はその場を繕うだけです。
言葉は本気で発したものでないかぎり、相手には伝わりません。
おざなりの「騒いじやダメ」も「迷惑でしょ」も、空虚に車内をさまよっているだけの言葉でおわります。
愛情という言葉を大切にするあまり、叱れなくなった親は、果たすべき役割を解っていないことになります。
それは公共の場だけではなく、普段の生活の中でもおなじようなことが繰り返されているのでしょう。
社会のなかでのマナーの欠落によって、その行き着く先に見えるのは、困難に直面したとき、乗り越える智慧も力もなく、ただ立ち往生するしかない子どもの姿です。
挫折感から引きこもりになってしまうというケースも少なくないでしょう。
本気で叱る、本気を言葉にする。
現在の親に求められているのは、まさしくこの一点のような気がします。
本気で叱るには自分が日頃から本気で子どもと向き合っていなくてはできることではありません。
昔から語り継がれてきたこんな言葉が思い出されます。
「可愛くば、二つ叱って三つほめ、五つ教えて善きひとにせよ」可愛い子どもを善きひとに育て上げるための原則を教えるものですが、まず、叱ることから始まっていることに注目したい。
ふつうは可愛がる、溺愛、褒める、甘やかすことが優先されがちですが、子どもが育っていくうえでもっとも重要なのは、危険を回避することを教えること、ひとさまに迷惑をかけないこと。
それを身につけさせるには叱ることが欠かせません。
いいこと悪いことの判断がつかない子どもは、叱られることではじめて、やってはいけないことだと認識できますし、迷惑はかけてはいけないのだな、危ないことはしてはいけないのだな、ということを知っていきます。
破壊の感情
ここで気をつけなくてはならないのが、叱ることと、怒ることの区別を親自身がしっかり理解しておくということ。
怒るということは、自分の感情をコントロールできずに激高した感情を相手にぶつけてしまうことであって、理性と愛をもって躾のために子どもを叱ることとは全く意味合いが異なるものです。
どこまで子どもの心に深く善悪の判断基準が刷り込まれるかは、ひとえに親が子供に対する真摯な本気度にかかっています。
腫れ物に触るようなびくついた気持ちや、都合の悪いことは避けて通るような事なかれ主義は、事の重大さを乗り切るためにはかえって問題を難しいものにしてしまうことになります。
本気度とは、自分の気持ちを偽らず、且つ、強引であらず、想いも言葉も極端にならず、偏らず、冷静に、ゆっくりと諭して語り合うくらいの気持ちで臨みたいもの。
こういう気持ちを忘れなければ、叱る瞬間、本気で子どもに向き合って発する言葉だからこそ、言霊となって子どものこころに染み入るのです。
文字通り言葉に霊がやどる、魂がやどるにはそれだけの意識、つまり本気度が欠かせないということです。
揺らぐことのない強い意志をもつこと、しかし、根底には溢れんばかりの慈愛を忘れてならないことはいうまでもありません。
本気で向き合わない親は親になれない
子どもは小学校へ入学するまでのどこかの一年間に、徹底して厳しく育てる時期があってもいい。
これはわたしが子育てをしたときの少ない経験からのことでもありますが、子育てに関する持論であり、信念でもあります。
もちろん、いいことをしたときには本気でほめ、思いきり抱きしめます。
決して親の思い通りにいかないものではありますが、なにごとかを教えるときも本気の姿勢だけは忘れてはならない。
本気が言葉に力を与え、言葉が相手のこころに響くからです。
そうして育てられた子どもは、決して非行に走ったり、こころの闇に閉じこもったりすることはないでしょう。
それは親子のあいだにゆがみなど生じないからです。
本気で向き合わない親は親にはなれません。
本気で向き合っていると思ってはいても、実際には子どもの心との間にはかなりの温度差があるということも少なくありません。
これは本気の中身、意味が違っているからです。
体面を取り繕ったり、場違いな人生論を能弁に語ったり、強引であったり、押し付けであったりと、本気とエゴを勘違いしている親もいます。
ですから、親自身が自分たちの姿、自分たちのことをどれだけ知っているのかということは、とても大事な子育てのポイントだろうと思います。
自分を知る者は他を知る。ということだろうか。
余分な拘り、エゴを取り払った素直な心で子どもと向き合う、社会と向き合う、他人と向き合う、このときにこそ言葉に調和された光りの霊力が宿り、言霊となるのではないだろうか。
言葉は光であり、光は言葉となって人を癒し、導く。
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