夫婦の性生活
私は無宗教なのですが、先般、ある信仰を持っている方から質問をいただいた。
『既に子どもをつくる必要がなくなった夫婦の場合は、夫婦関係(肉体関係)をどのように受け止めていくのがよいのだろうか。』と。
きょうはこのことについて意見を述べてみたいと思います。
先ず、夫婦生活の
第一の目的は、健やかな良き子孫を遺し、人間社会の未来をよりよくするものでしょう。
第二は、精神的、肉体的に、より円満で安らぎのある家庭をつくること。
第三には、夫婦生活は社会生活の原型であり、これを否定すれば、社会と人間を否定することになってしまいます。
したがって、第三の目的である互いに足りないものを補い合い、助け合うことは人間生活にとって欠くことのできないものです。
こうしてみると、夫婦生活のあり方が、はっきりしてくると思います。
つまり、単に肉体関係のみによって結ばれているものではないし、反対に精神的なものにウエートが掛り過ぎ、肉体関係は罪で卑(いや)しいものとみるのも誤りであるといえるでしょう。
ものを食べる本能は現実の肉体を維持するために欠かせないものだし、性の本能を否定することは、肉体人間を否定することにもなりましょう。
本能の問題点は、肉体的執着につながりやすいということです。
ことに、性の本能は自分一人では成立しませんし、相手がある関係のなかでその機能を果たすように仕組まれています。
自分だけの問題として処理できない様々な問題を含んでいるのです。
性本能は食生活にも深い関連があり、このため、昔の出家僧は、肉食を避け、栄養価の少ない物しか摂らなかったようです。
こうして肉食を断ち、性の執着を断とうとしたようです。確かに、栄養の少ないもの食べれば性本能に影響はあるのだろうが、しかし、実際のところは、それだけで性本能を抑圧できるものではない。
栄養価の問題より、心の内にある異性への欲望の方が勝っているのが人間の姿でもあるでしょう。
その意味では僧侶といえども欲望のままに身を崩したものたちがいるのです。
性に対する喜怒哀楽というものは、自分が気づかないでいると、常についてまわるものだし、様々な執着を上塗りすることになります。
そこで、理性を通して、振りまわされがちな性本能をコントロールし、調和ある生活を築くよう心がけることが大事になってきましょう。
出家していようが在家であろうが、ただ単に性本能だけを抑圧するだけでは、必ずその欲望は沸騰してしまい、コントロールしきれなくなります。
既に子どもをつくる必要のなくなった人は、夫婦の関係を持たぬ方がよいという極端な指導は、言い過ぎになるでしょう。
性本能は夫婦相互の知性と感情と理性のうえに正しい心の調え方を実践するならば何ら問題を起こすことなく平和な家庭生活の要件となるのです。
夫婦は円満であることが大事であるし、円満であるためには、性生活も大事な要件であり、天が人間に与えた慈悲だと表現してもよいのではないだろうか。
夫婦の性生活は許されているのです。また、許されていなければ、人間社会が滅びるよりほかはありません。
ただ、ここで申し上げたいことは、どこかの宗教に入信している人が、その教えを信じ、それを実践していこうとするならば、様々な執着がどこからくるのか良くわかることです。
そのうえで、反省を重ねると、苦楽の原因を取り除く努力が自然と内側から湧きおこってくるものだということ。
自分が疑問をもったまま盲目的に信仰する、あるいは、もっと信仰しなさいと指導されることは危険このうえない宗教といえます。
信仰をもっていながら、普段の生活では不満や、愚痴や怒りを露わにしているようでは何の為の信仰であろうかということになってしまいます。
これまで相談を受けた方々の実情をみると、反省の仕方や苦楽の原因を如何にすれば超えて行けるかという、いちばん大事なところを具体的に指導していただいている方々が、非常に少ないのは残念なところです。
ひとつ、ゆっくりと自分の心の内を省みていただきたいと思います。
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