現代生活の空虚感


敷石のなかに蹲踞(そんきょ)する自然石と少し生えた苔(こけ)だけの庭園、徹底的に余分なものをそぎ落とし、的を絞った姿が訪れる私たちの心を静寂の世界に導き、ひとときの安らぎを与えてくれる。(京都、竜安寺の春)
現代の世の中を生きる私たちは、漠然とした不安や、得体のしれない空虚感が心を支配しています。不況の中で、今の生活が立ち行かない、未来がどうなるのか、昔は良かったなどと思い悩む人が多くなりました。
この不安はどこからくるのでしょうか?団塊の世代と、そのうえの中高年の方々は、まさに高度経済成長期の真ん中を生き抜いてきました。
その頃は、モノが豊かになればなるほど、生活が豊かになるという方程式があり、それに沿えば、自分も家族も社会も幸せになると思い、まっしぐらに進んで来たのです。
物の豊かさ人間の豊かさであり、心の豊かさだと確信していたのです。
ところが物が溢れ豊かになったはずなのに、どこか虚しい。そして不況になり、先行きが不透明になってくると、更に不安が頭をよぎる。うつ病に苦しむ人が増え、家庭が崩壊したり、自殺者がでたりします。
本当の豊かというものは、物の豊かさなのではなく、心の豊かさではないのかということに、日本人も、欧米の人々も気づき始めたのです。
女性であれば、綺麗にみえる服を一生懸命にお金を貯めて買います。ところが、クローゼットを開けると似た服がすでにある。そして買ったことに、その時だけ満足して、またクローゼットにしまい込む。するとまた次のが欲しくなる。
物を追いかけるということは、次は何を買おうか、という連鎖です。結局、終わりがないから、いくら物が手に入っても、入っても決して心が豊かにはならないわけですね。
私たちと100年前に生きていた方々と、どちらが実感として豊かさを感じていたか?
物や便利さ=幸せということが方程式なら百倍どころか、それ以上に現代人は幸せを感じなければならないことになりますが、実際はそうではありません。
百年前の人たちは、例えば、秋がくれば体いっぱいに景色や空気、或いは渡り鳥などから季節を感じ、そろそろ冬の支度をしなければいけないとか、ああ今年も豊作でよかった、自然に感謝となる。
現代人はそういうプロセスが殆どなく、スーパーに行けば季節は殆ど関係なく何でも買えるため、自然との関わりが何もなくなっているのです。それではどうすればいいのか。
今の社会を百年前に戻せということではなく、少なくても十のうちの三つでも四つでもいいから実感を持つ生き方として取り込んでいけば、生活に対する姿勢が百八十度変わるはずです。
物事の本質を捉え、生活の一つ一つを大切にして実感を持つこと、これこそがの考え方です。
今、禅に対して世界中が注目しています。モノからの時代へとシフトして行こうとするなか、禅の役割がこれからもっと重要になっていくでしょう。
日本の和食や寿司が西洋で注目され普及する背景には健康への配慮があるからですが、同時に日本の文化が魅力に溢れているからでもあります。
私たちは子供たちを自然のなかに溶け込ませる機会をつくっていかなければならない。
禅寺には何もないシンプルな庭があるだけですが、そこに静けさと豊かさを発見し感動する欧米人が増えているのです。そしてニューヨークにも日本庭園がつくられるほど禅文化が愛されるような時代になりました。
何もない事の豊かさは禅の精神に脈々として生きています。
後進国より発展途上国、発展途上国より先進国と、豊かな経済と文明のなかで心を見失っていることの危機感を思わずにはいられない。
『都会ほど心を病む人が多いのです。』とマザーテレサはいっている。
さて、中国は唐の時代のこと。百丈(ひゃくじょう)和尚が修行僧時代の逸話で、馬祖(ばそ)老師のお供をしているときのお話です。
野鴨(のがも)が足元からバタバタっと飛び立ちました。
馬祖老師がそれをみて『あれは何か』と百丈に聞きました。百丈は答えます。
『あれは野鴨です。』と答えました。『どこへ行った。』『向こうへ飛んで行きました』すると馬祖老師はいきなり百丈の鼻の頭をひねりました。『いたた!』と叫ぶと、馬祖は、『どこへも行きはしないではないか』といいました。ここで百丈は気づいたといいます。何に気づいたか。
この場合、対象は野鴨です。鴨とそれを見ている自分が一つになったとき鴨も自分も無く、まったく一如でなければならないのですが、百丈は鴨と自分が一つになるほど心が深まっていなかったのです。
心が深まっているならば馬祖の『どこへ行った?』の問いに、百丈が自分を指して『ここにいます。』と答えたら合格点ということになるのでしょう。
私たちが座禅などしてその心境が深まりますと、対象と自分が一つになったように感じます。
経験のない方に説明するのは絵に描いた餅の味を説明するようなもので難しいのですが、対象からの音や光りなどの刺激によって、自分が光ったと感じる時があり、禅の世界ではそれがひとつの悟りとも言われています。
私の場合は三昧になって深まったときに、脳天から雷に打たれた如くの電気的刺激が全身を貫いた事があり、以来私の中で価値観が変わっていくのを実感しています。
自分と相手、つまり対象とは別ではない、このことを表現する言葉に『自他一如』という禅語があります。自分と他人、自分と自然、自分と動物、自分と気象、自分と物というように全てが同じ存在と思えたら人生観が変わります。
 
 

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Posted by kansindo