心の波紋と不登校

心の波紋
池に小石をポンと放り投げると水の波紋が岸へ向かって広がります。
これは自然現象と言ってしまえばそれまでですが、実はとても大事なことに気づかされる。
人間の心の作用というものが、思念することで行動へとつながることは周知のとおりです。言葉も行動も全ては心から発するということだ。
そして、心には波動としての働きがあるということ。この波動エネルギーは池に投げ入れた小石のように波紋となって周囲に影響していくようすをいう。
一般的には目には見えないが人体(霊体)から放散する光(オーラ)はとなりに居る人の体が直接触れなくてもオーラは触れ合っているのです。
このオーラも源泉は心(魂)からである。
私たちの体には眼、耳、鼻、舌、身の五官が備わっていて、この肉体五官を頼りに生命活動が維持できるように創られているのですが、それが五官中心の生活になりやすく、五官に偏り過ぎると足ることを忘れた欲望の虜(とりこ)となってしまう。
眼も危険を回避するために大事な役目があるように、耳も、鼻も、舌も、それぞれの役目をはたしています。
皮膚にも痛覚や冷暖感覚が備わっていて痛みを感じることで危険を回避しています。
これらは人間の生命を守る器官ではあるが、それに偏ると微細な心の働きに気づかずに生活することになる。
例えば目で見た感覚で綺麗なものだけ、美しいものだけに拘るとこれも苦しみのもとになり、耳で聴いた人の言葉に拘っても苦しみの原因となるようにである。
私達は、言葉によって相手の意思を確認し、行動をみて認識していますが、実際は言葉や行動以前に心の波動が目に見えない波紋となって周りの人間に影響を与えているものなのです。
その意味で言えば、一つの家に住む家族は良くも悪くも至近距離で、目に見えない心の波紋によって影響されあっているということがいえるでしょう。
つまり、肉眼で見えないエネルギーが触れ合って、影響し合っているということだ。
丁度、池に投げ入れた小石による波紋のようにです。
となると、やはり、穏やかな心から発する優しい心遣いが良い波紋となって相手に伝わることがわかるだろう。勿論、言葉づかいもである。
私が想念や言葉を大切にという根拠はここにあります。
何故なら、言葉は言霊だからです。言葉は見えないエネルギーです。
その言葉は思念から発するものです。
思念は魂の中心である心から発するのです。
例えば、特定の宗教に入信して教えを学び守っている人がいるとしましょう。教祖が教える教義を幹部が講師として信者に指導します。
教義に矛盾があったり、教祖や幹部の言行不一致、様々な教団内の矛盾は内部に深く関わることで実態が見えてくるのですが、問題は間違った教義に気づかぬままに盲信、狂信した場合に信者の心には必ず歪みが生じてくるのです。
この歪みは心の隙となって心の波長に荒さが生じてしまい、池に投げ入れた小石の波紋の如く周囲の人たちに悪影響を与えていくのである。
実際に盲信、狂信している人の言動をみているとよく解るように、他に対して厳しくなり、自分が絶対であり、他を批判し、裁いたりする傾向になっていき、その価値観を押し付けてしまう。
また、宗教を一生懸命信仰して仕事や私生活を犠牲にして足しげく教団に通う生き方を指導するところの教祖、教団はエゴが渦巻いているものだ。
こういった信者の家庭内にはグレーなエネルギーが渦巻いていて、敏感な子どもや家族であれば色々と健康面で日常的な頭痛、片頭痛など、あるいは急な肩の重さ、息苦しさ、めまいなどの変調をきたしてくる。
本来は、宗教を信仰している家庭なら心の安息を得て安らぎ、家族が皆仲良く調和しているはずなのに何故か、真逆でトラブルが絶えないという現実がある。
そして、宗教に熱心になればなるほど家庭がおかしくなっていくというのは、やはり教義と指導内容に問題があると考えなければならない。
信者はそのようなことにも気付かず盲信、狂信して心の波動を乱し、不調和にして家族や周りの人たちに見えない悪影響を与えていることに気づける人は少ない。
この思念によって起こる家族の諸問題の事例を紹介しましょう。
心の波紋に関連して、不登校で悩んでいる家族の事例を述べてみます。
息子が幼少の頃からお母さんは身の回りの世話をやき、『これをして、あれをして、こうしなさい、ああしなさい、早くして』と息子のペースに関係なく自分の想いを自分のペースで息子に要求して育てていた。
小学校三年生頃までは素直にお母さんのいうことに従っていたのだが、徐々に朝の起床時間になっても起きなくなり、やがては泣いて登校を拒否するようになった。
そうなると遅刻をさせまいとして、通常なら歩いて10分で登校できる距離を車に乗せて送り届けることが習慣的になっていった。
このお母さんの行動が子どもの自主性を削ぐのである。今は5年生ですが不登校が続いているという。
子どもの気持ちを尊重せず、親の希望や都合で、あるいは押し付けることが子どもの為だ、教育だ、と思ってきたことが間違っていたことにお母さんはようやく気づいたのだった。
私は言った。『あなたは可愛い息子さんの傍に寄り添ったことがありますか?あなたの御主人は可愛い息子のために心を傾けたことがありますか?』と。
聴けば、息子が幼稚園にいるころも抱きしめてあげたこともないという。
ただただ厳しさだけで育ててきたのである。
この子は誰も信じることができず心が疲れて渇いていた。
お父さんお母さんのぬくもりが欲しいのである。
私はこの子の心情を察するに余りあり、涙を禁じえなかった。
最初に申し上げたように、人間の心から思念が生れ、そして言葉になり、行動に移っていきますが、この思念が、どいう価値観から発生したのかということはとても重要なことであるだけではなく、心に思ったことは言葉にしなくても池の波紋のように相手にも伝播するものだということを知っておかなくてはならない。
思念は、人を生かしもするが、殺しもするということを深く心に落としていただきたいものです。
一度傷ついた子どもの心は修正に時間が掛るのです。

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