胎教

胎教3

前回に引き続き胎教に関して、その3です。

私には30代のときに手ほどきをいただいたの師がおりました。

また入信こそしませんでしたが、仏教系、神道系、キリスト教系、その他宗教団体の在り方に対し、大いに疑問をもっていた私に、その疑問を解明してくれた尊敬する師とがおります。既にお二方とも天に帰幽されています。

その師が相談者とのやり取りをした内容を一部紹介しましょう。

1・暴力を振う少年
小学校の先生をしているというそのお母さんは、

『先生、昔の人が、持たぬ子には泣かん。という事を言われたと聞いていましたが、自分で子供を持ってみてつくづくそう思います。

実は次男が十九歳ですが、突然発狂状態になって(ここは俺のうちだ、お前は出て行け。)と、私を丸たん棒を持って追い掛け廻すのです。

それで私は自分の家に休むことが出来ないのです。自分の生んだ子供からそんなに言われて自分の家に寝ることが出来ないなんて、こんな情けないことはありません。』と言われるのであった。

師はいきなり聞いた。『あなたはどうしてその子供を生みたくないと思ったのですか。』と。そのお母さんは、しばらく息をつめるようにしていられたが、

「先生、そういうことが関係があるんですか。実は学校の先生をしていた為に少し婚期が遅れて、もらってくださる人があればどんな人でもいいとそう思って、二十歳年上の人と結婚しました。

私が三十二歳でしたからその人は五十二歳で、もうおじいさんみたいでした。
結婚式の時、こんなおじいさんみたいな人と嫌だなと思いましたが、仕方がなかったし、将来、自分が年をとって病気にでもなったら、やはり、面倒を見てもらう子供がいた方がよいと思って、長男は生みましたから長男はなんともなくて今、学校の先生をしています。
あんなおじいさんの子供は一人でたくさんだ、二人と欲しくないと思って、ほかの事ならなんでも致しますが、あの事だけは勘弁して下さい、と言ってそれから別々に休むことにしたのです。
所が強姦同様にして妊娠させられてしまいました。堕胎するのは罪だと思い、この子は、本当は生みたくなかったのにと妊娠中ずっと、嫌だ生みたくないと思い続けて、そうして生んだのです。そういう気持ちがやはり影響したのでしょうか。」と。

2・盲目者の場合
その人は子供を背負って外出すると、ショーウインドウに飾ってある人形を見るのが一番辛いと言っておられた。
「人形でさえ、あんなにパッチリした目をしているのにどうしてこの子の目は見えないのであろうか。」と。

この子供の眼は、外から見たらまるで見えないようではないのです。瞳孔(黒目の中心部)が開いていて見えないのである。

このお母さんは家庭環境の辛さに、見れば腹も立つし悲しくなるからと、一切見ないと心に決めて「ああ、見たくない、見たくない。」という思いを強く、強く持たれたのであった。

そうして生まれた子供は、心の中で強く思った通り目が見えなかった。

思いは自分の体にも、ましてや胎児の体にも良くも悪くも影響することの証明である。

3・聾唖(ろうあ)の子
目がクリクリして、可愛らしい男の子であったが、その子供が聾で唖だというのが痛々しかった。

この子のお母さんの嫁いだ先は、口やかましい姑と小姑がいた、夫は優しい、いい人だったから夫と別れる気持ちはなかった。

だが夫に言うと「辛抱してくれ。」と言うだけであって、環境が変わることはなかった。「ああ、もうこんな人達とは口もききたくもない。」と強く思った。

そうして生まれた子供は聾唖であった。

 恐れる必要はない

胎教が大事であることは事実であるが、恐れる必要はありません。

妊娠している期間中、絶対に思ってはならない、悲しんではならないという事ではないのです。

人生には色々なことがあるから、妊娠している間に親兄弟が死んだとか、また夫婦喧嘩もする事もあるでしょう。

そういうことがあって悲しんだからとか、腹が立ったからといってすぐ胎児に影響するのではない。

そういう心は起こっても、すぐに心を平静にすれば全然影響することはないのです。

その心が、一週間も十日も一ヶ月もと、長びいた時に胎児の健全な発育が障害を受けることになるのです。

怒っても悲しんでも、パッと心を上手に転換することが出来れば全然影響はないのです。

ある人はそのような環境の中で障害児を生んだとしても、それと同じような、またはそれ以上にひどい環境にあったとしても、障害児を生まなかったという人もあるのです。

同じ環境だからみんなが障害児を生むという事は絶対にない。
要は、我々はどんな環境に置かれても心を動揺させないか、また一時は動揺したとしても上手に心の転換が出来れば障害児を生むことはないのです。

障害児が生まれた場合はどうするか・・・その修正方法

その場合、こどもが小さければ小さい時ほど母親の心の影響は現れやすい。母親がその子供を妊娠していた時の状態を思い起こして、反省し心から悔い改めることです。例えば、

『あなたを妊娠した時、これこれこういう経緯(いきさつ)があって、心を不調和にしたために、本来なら健康体を持って生まれるべきであったあなたの肉体に障害を与えて、誠に申し訳ありませんでした。

厳しいでしょうが、どうぞその肉体を乗りものとして立派に魂を磨いていって下さい。

私達は、あなたを子供として頂いたことを縁として、心のあり方の大事さを教えて頂きました。

これから心を不調和にすることなく、心を大事にして行きます。

私のおかした心の罪を許してくださいね。』と。

このように反省して、そのような子供を与えられて厳しい魂(心)の修行をしなければならなくなったことを感謝して、心のあり方と生活の仕方を変えて、明るい心で生きて行くようにすれば、治るべきものは修正されて行くのです。

肉体的障害は、小さければ小さい時ほど生命力が旺盛でまだ成長発育期であるから治りやすい。先に挙げた聾唖、盲目の子供さんは奇跡的に治って行ったのである。

母親に暴行を働いていた少年も平常になった。

それは気づいた時点で心から反省をして悔い改めて、詫びて、子供に対して真心で接したからである。

肉体の発育が止まる青年期以上になると、肉体的欠陥は治りにくいが、親の心からの反省は子供の心が調って行くので穏やかな明るい生活が出来るようになる。

人生とは何であるか、結局この人生は魂(心)を磨くための一生なのであるから、魂を充分に磨くことができればその人は人生の勝利者である。

地位欲、名誉欲、権力欲、過ぎた金銭欲を持って心を乱し魂を傷つけて五体満足であるという人よりは、その人たちの方が尊いのです。

また、その人たちの廻りにある健康な身体を持っている人達は、自分達よりも厳しい環境と条件の下で魂の勉強をしていかなければならないことに対して、深い深い愛をそそいで行かなければならない。

魂ということからみれば、それらの人達は、健康体の人々に深い深い愛念を起こさせ、愛の行為をなさせるために存在しているともみることができる。

障害者に光を与える光の天使

見えない、話せない、聞こえないという三重苦の聖女ヘレン・ケラー女史は、肉体的な障害があっても、肉体が障害であるからといってそのことで親を怨んだり、環境を怨んだりせずに、心を大事にして肉体の障害を克服する努力をして、決して心を暗くしないように、どこまでも深い愛と心の明るさを持って生きるべきであることを教えるために現われて来られた光の天使といえよう。

障害者であっても、むしろ障害者でなければ出来ない魂の勉強をしたということで感謝して明るい心でいる人もあれば、障害者でなければ出来ない魂の勉強をしなければならないと言う事にも気がつかずに親を怨み、自分の運命をはかなんだりして心を暗くしている人もある。

健康体である者は、心を暗くしている人が明るい心になれるように愛をそそがなければならないし、愛をそそがれた人達は周囲の愛に甘えることなくそれらの愛に感謝して、自分からその障害を克服する努力を喜んでしなければならないのである。
もし、身体が全く不自由であって自分ではなんにもすることが出来ないという人であっても、心から言葉で感謝を表現することが出来るのであったら、言葉で感謝を現わすことです。
感謝と報恩は常に表裏一体であり連動して循環したときに本当の愛となり慈悲となるであろう。
それは感謝の心には恩に報いる心と行動があるからだ。
言葉だけの感謝であってはならない。
※文中の用語解説
●聾(ろう)は聴覚障害をいう。唖(あ)は言葉を話せないことをいう。
●禅(ぜん)思惟する。静かに考えること。精神統一の部分が仏教に取り入れられ、とくに中国と日本で極度に洗練され、独自の思想として発展した。
●帰幽(きゆう)帰幽というのは人が死ぬとその御霊(みたま)は幽世(かくりよ)つまり、あの世にに帰っていくことをいう。
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