不平等で育つ心

就職活動、就職難、専門学校、就職率、これらは就職に関する言葉として耳にする機会が多い。

まず、このブログを読んでくださっているあなたに聞きたい。
中学、高校、あるいは大学と6年ないし10年以上英語を学んでこられて、いまあなたは英語が話せますか。小学校6年生の漢字が全部書けますか?

英語が話せなくても、漢字が書けなくても、高校で学ぶ微分積分ができなくても、たいていの社会生活は支障なく送れるものです。

それでは、あなたは何のために学んできたのか。

なぜ子どもを「勉強、勉強」と追い立てるのか?

高校に通学している子どもが卒業後の進路について、これといった目的をもっているわけでもないし、『クラスメートが大学に行くから自分も専門学校に行きたい』という。

よく考えたら18歳でしっかりと自分の夢に向かって進路を定めて突き進んでいる子どもはでれだけいるのか。稀なはずである。

『専門学校に行って何をしたいの?』と聞くと『特にない』という。

『就職できそうにないからとりあえず専門学校にお入ってみる』という子どももいる。

こういうことの動機で高い授業料を支払い単身で寮に住ませたり、アパートを借りてやったりと親の負担も大変なものである。

古い私ごとで申し訳ないが、私の学生時代は(50年前)、勉強がまるっきりダメで、通知表も簡単明瞭、1・2・1・2の行進曲そのものだった。

それでも温情だけで高校を卒業(44年前)させてもらって社会には出た。

20代は仕事もいくつも変わり、失敗ばかりの連続で借金も背負った。

30代になって全国24店舗の支店を持つ中小企業の支店長として20数名のスタッフと働いた。

英語が必要なこともなかったが、微分積分が必要なわけでもなかった。

必要なのは、どうしたら皆が楽しく働いてくれるのかということと、赤字支店を黒字支店にすることだけだった。

後には引けない崖っ淵だった。なりふり構わず働いた。

しかし、20代のたくさんの失敗が生かされた。

支店は黒字になり、3年後には閉鎖まじかのワースト支店から24店舗のベスト3までに復活できた。

私が覚えた漢字は学生時代より、必要にせまって社会で学んで覚えたことの方が多いだろう。

決して子どもの頃から記憶力がずば抜けていたわけではなく、乏しいほうだった。

幼少の頃からの極貧が私のガッツを育んでくれたと思っている。

私は子どもたちと親御さんに言いたい。何のために学ぶのか、学ばせるのかと・・・。

それは生き抜くための知恵を身につけるためではないのか?

知識を詰め込むことに目的があるのではないと。

資格を取ることは、目的ではなく手段だということ。故に資格だけにこだわっていては真実を見失うということ。

人生、明日は何が起きるか分からない。

苦難を乗り越えてゆくには周囲に自分の思いを発信したり、状況によっては助けを求めることも必要だ。

学校で学ぶ基本的学習は、そういった自分を発信するアンテナづくりであり、基本ソフトづくりだ。

広く浅く勉強していくなかで、いつか「これだ!」というものが見つかったとき、この基本ソフトを武器に、狭く深く一つの分野に特化して学び進めばいい。

さて大人の方々にもう一言。

子どもが夢を語らないって?

当たり前だ。親が夢を語り、きらきら輝く大人社会を見せない限り、あなたの子どもが将来に夢を抱くわけがない。

そういう風に育てていないだけだ。

人は皆、母親の狭い産道を通って生まれてくる。そしてオギャーと産声をあげたところから、やがて迎える死という最大のステージへと向かって生きていく。

そう考えてみると生きるってこと自体がストレスの固まりのようなものだ。

そして子どもたちに言いたい。

マラソンが苦手で遅い子にとって、マラソンはヒリヒリするような恐怖と厳しいストレスを伴う事柄かもしれない。

でも、逃げなくたっていいんだ。足の遅い子もいれば手の不器用な子もいる。

みんなそれぞれに得意、苦手があっていいじゃないか。

だからストレスにタフになって生きていこう。

そうした生き方の向こうに小さな喜びが必ずみつかる。

現代はストレスが高いといわれるが、必ずしもそうとばかりは言えない。

「平等」という我が子を思う親御さんの指摘のもとに、主役が何人もいる幼稚園の園祭。

運動会で順位をつけないというような妙な「保護教育」がもてはやされている。

それが、やがてジワジワと子どもたちを弱くし、ちょっとしたストレスにもキレやすい人間をつくり出していく。

持って生まれた魂という意味では人類は皆、平等ではあるが、環境はみな不平等なのである。

そのなかで心が育まれるものだ。

心が育つのは平等環境の中より、ハンデのなかでこそ育つということだ。

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魂の航海

広大な海原を走りゆく船、漁船もあれば、タンカーもあり、豪華な旅客船もあり、みなそれぞれに人生の一コマのなかで働き、楽しみ、生きている。まさに人生航路といえるだろう。

私達は、地球という環境に何の目的で何をしに生まれてきたのか。

そして、我々が現在持っている肉体や、その肉体を支配している船頭さんである魂について、これらを、永い歴史の中に我々の生活に密着している宗教問題との関連において述べてみます。

私達は、神様、仏様といいますと、ほとんどが神社や仏閣、お宮、祠(ほこら)、神棚、仏壇などに祀られているのが神様、仏様だと誰しもが思ってきました。

私達は、一番大事な自分自身の心の中に存在している不変的な魂である本性を理解することなく、神様は何か遠くの方にいるんじゃないかと、多くの人々は錯覚を起こしているのです。

そうして、本当の神様というのは何であろうか、人の口を通して神のお告げだといい、また現象的に姿を見せる者が神だろうかと思ったりします。

ところが本当の神というのは、そんなちっぽけな人間によって作られるようなものでもなく、祀られるものでもないのです。

その実証として、神社や仏閣へ行きますと、私の心の眼でみるもの感じるものは、我々が今まで神と思って祈っていた、祀られている神そのものは、非常に危険なものであるということがわかったのです。

神とは、この大自然、大宇宙そのもの、その意識こそが神なのです。

そして、この大自然というものは万生万物の生命の根元です。

この大自然そのものの法則の中に、私たちが人生において成すべき道が存在しているのです。

人々は、神様や仏様の前へ行くと祝詞を上げたり、お経を上げます。

このお経が信仰の対象のような錯覚を起こしております。とんでもない間違いです。

お経というものは皆さんもご存じのように仏教においては、今から二千五百有余年前にゴータマ・仏陀釈迦牟尼仏といわれる方が、人間はこのように生きなさい。

そして、心でこのように思い、語り、さらに、その道はこういうものだと、片寄らない中道というものを説いたのを後世の人々が書いたものがお経なのです。

しかし、むずかしい漢文のお経は中国から日本へ渡ってきて、そのお経の意味さえ理解することができなくなりました。

我々は、いつの間にかお経を、先祖の仏壇の前や、お寺の仏像の前で上げるようになってしまいました。供養という便利な言葉を駆使して水子供養までさせるに至ってしまいました。

そして、それに矛盾を感じてこなかったわけです。あまりにも永い歴史の中で、先祖はそういう習慣の中にいたからなのです。

しかし、お経の中身をよく見ると、人間はこのように生きなければいけない。

こういう苦しみを持っている時は、ここにその原因かおるのだ。

こういう原因を除かない限り苦しみはまたくるのだ。

というように、人間としての心と行ないの道を説いてあるのです。間違った教えやその宗教、いわゆる邪宗教から離脱しなければなりません。

私のところに相談に来た方には、朝晩のお経の不必要をいいますから物足りないようなことを言います。

意味のわからないお経をいくら上げてもこれは無駄なことなのです。

まあ、発声練習にはなるでしょうけど、それ位なら、もっとよい歌でも歌った方がよいと思います。

私たちの肉体という物は、全く大自然のままに、自然の恩恵を受けて作られています。

この地球という3次元の環境が魂の修行場として与えられ、我々は先祖代々を経て今、肉体があるのです。

ところが多くの人たちは、その肉体は自分のものだと錯覚を起こしています。

あなたの今持っている肉体も実は、あなたのものではないのです。

「そんなバカなことあるもんか、現につねれば痛いじゃないか」とあなたは思うでしょうが、それは違うのです。

つねれば痛いのは神経が通っているからであって、自分のものだとは言っても、病気ひとつとっても自分の思い通りにはなりません。

寿命がくれば、みな肉体から離れなくてはなりません。

今のあなたの肉体はあくまでも人生航路を渡って行く為のただの乗り舟です。

永遠のものは皆さんの魂、その中心に在るところの心そのものだけです。

心というものもちゃんと形があるのです。

私は今まで、心なんて形はないと思っていました。

ところが心の目で見ると一人ひとりに形があるということがわかります。

確かに昔から、心は三角だ四角だなんていってません。

心は丸くといっています。その通りです。それも生まれてきた時の子供の心というのは非常に丸く豊かです。

その心が年を取ると共に歪みを作り、その上に公害と同じようにいっぱいスモッグを作り出しています。

私たちの思ったことや行なっていたことが間違っていた場合に、スモッグになるのです。

そのスモッグになった量だけ心に歪みやストレスを生じ、その量だけ実は苦しみを持つのです。

お荷物を持ってしまうのです。たいてい、私達は苦しむと人のせいにします。

しかし、苦しんでいるのは自分自身(心)だということを忘れているのです。

今、病気をしたり精神的に悩んでいる。この悩みは理由のいかんに関わらず自分が病み悩んでいるのです。

他人ではないのです。悩みの原因を正しく省みて追求することなく人のせいにしてみたり、自分の体がこうだからとか、この人がこうしたから、あの人がああしたからといいます。

心が病んでいる人の多くは原因を自分の外に探しています。

しかし、原因を外に探しているうちは問題解決にはならない。

現に苦しんで精神的にイライラしているのは自分であるにもかかわらず、僕が小さい時に、お母さんが僕にこうしたから、お父さんがこう教えたから、こういうことをしたから、ああいうことをしたからと、友達のせいにしたり、両親のせいにしたりします。

確かに物事は相対的な関わりのなかで結果が出るものではありますが、物事を解決しようとするときに相手に責任転嫁をする気持ちがあると好転することはないのです。

今、苦しんでいるのは自分自身だということを忘れてはいけません。

こういうときに自分の力ではどうにもできない、何とかしてその苦しみをなくそうとして見えない世界の力を借りようとします。

そこで神様が登場してくるわけです。その神様を自分の目や耳や体で確かめることもできないし、医者には匙を投げられ、薬も駄目で、ついにはそういう神秘的な世界に入ってしまうのです。

そして、私たちは。神”と名乗るものの実体さえわからぬままに信じてしまうのです。

それが、たまに病気が治ったりするものだから、却って人間の心の本質を見失わせてしまうのである。

人間の心の世界は、この大宇宙と同じように無限に広いのです。

それゆえに、私たちの思ったことは、次元の違った世界に比例して自由自在に通じていきます。しかし、その思いは自由なるがゆえに法律もありません。

こういうことを思えばこう苦しむよ、こういうことを思えばいい結果が出るよ、といような心の仕組み、法則はきちんとあるのですが、この思うということに制約がない。

ここに問題が起こるわけです。

精神的疾患の九九・九九九パーセントは、自分の思っていることの歪み、正しい基準を失った生活行為、この中から出てくるのです。

その実態は、全てが偽りの我です。

我々の心の中には偽我善我というものがあります。

どんな状態でも、人間の心には自分に絶対に嘘のつけない善我、良心があります。

この善我が本当の無垢の魂であり神の子といわれていることの証なのです。

これは地獄に落ちても同じです。地獄の霊達も必ず心の奥底には善我を持っているのです。成仏できていない地獄霊たちは執着があるだけなのだ。

つまり自分の心のステージに比例した世界で苦しみ生きなければならないのです。

彼らは自分さえよければいいという自己保存の固りなるがゆえに、地上界の生活よりももっと厳しい地獄の世界で自分白身で自然界が教えてくれる修行しているのです。

人間には誰にも善我なる心があるのです。

心とは、あたかも自分が犠牲になって損することであるかのように錯覚を起こしやすいものでもあります。

ですから、つい安直に偽りの我の方へ走ってしまうのです。

偽りの我の心にもその心なりの法則が働き、その人の心に比例した地獄の世界が心に存在しています。

心はどのような世界にも、どのような次元にも通じるだけの優れた送信機であり受信機である。

それだけに善我なる自分の心を見失わず、それを維持し向上させるための片寄りのない想念と行動をする生活習慣が大事だということです。

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後光・心は器

あるサークルでは『霊的な体験者が語り合う、興味のある人たちが集う会です。この会では物品販売はしていません。安心して参加してください。会の最後には霊能者が浄霊してさしあげます。会の規約はありません。自由参加です。会費は5000円。』とあった。

この会を主催している人の話しでは、『いつも自宅で寝てる時にラップ現象がある』ということを何かしら誇らしげに述べている。

霊的な存在や現象を認識できるという意味だと思うのだが、しかし、住家でラップ現象があること自体が非常に問題視されなければならないことである。

未浄化な霊たちが住まいで騒ぐということはあってはならないことだし、厳しいかもしれないが、その家に住む人間が不調和であることの証明だということに他ならないからだ。

いたずらに霊現象に関わって、それで金銭を得るということ自体が欲望と不調和を増幅させることになるだけであり、霊が騒いでラップ現象があるのは褒められたものではない。

心の調和された家族と、その家にはラップ現象などないのです。仮に霊的なことに関わっていてもである。

霊現象は類は類を呼ぶ、同調共鳴の原理によって起こる現象だということだ。

心は器

さて私たちの肉体は原子細胞の集団によって構成され、この地上の環境に適応できるように出来ています。

正しい心を生活の指針として生活している大人の原子肉体は薄い黄金色の光によって包まれています。

どういうことかと言いますと、正しい心の生活は、愛と慈しみの光に満たされているということです。

また、絶対唯一の存在からの光は、原子肉体と次元の異なる光子体ともいうべき霊体にも与えられています。

正しい心の生活とは、心に曇りのない生活であり、曇りがないから光が与えられ、安らぎの生活が自然に行なえるようになってゆきます。

曇りとは執着、拘り、不満、愚痴、怒り、そしり、妬み、恨みなどのことである。

後光、あるいはオーラというものは、肉体と光子体(霊体)から発散されている光りのことです。

そして心は器であり、その大きさは、その人の心の広さに比例しています。

心の大きさは、転生輪廻の過程において体験され培(つちか)われた心の広さと、現在、原子肉体に乗って生活している人(自分)の、心と行いによって定まってくるものです。

しかし、過去世において、偉大なる光の大指導霊であっても、現世において正しい道を物差しとした生活を怠ったならば、後光の量と大きさは小さくなってしまいます。

光(オーラ)の状況は、紫、桃色、赤色というように、その時の心の状態によって、後光の色が違ってきます。

怒りの心は炎に包まれ、赤い光が体から発散しています。

愚痴の心は、灰色がかった暗い色が出ています。

不安と恐怖心がある場合はねずみ色、くすんだ色合いとなっています。

人を呪い、野心や欲望に燃えているときは、黒色かグレーに変わっています。

不調和な想念は心をスモッグでおおい、高次な絶対唯一からの光エネルギーをさえぎるため、心に毒をつくり、肉体的にも不調和になる原因を宿すことになります。

一秒一秒の心の動きに、後光の色彩とその量が変化する。それは全く、大自然の天候と同じように変化してゆくものです。

心の美しい大人が心を調和しているときや、正しい心の教えを説いているときは、過去
世のその人の顔と、現世の顔が写真の二重写しのようになり、光子体(霊体)から体全体にわたって、明るい光に満たされ、後光が放射状に発散されています。

後光は次元の異なった世界の段階を反映して発散されていますが、それらの後光は、そのまま、本人の死後に行く世界をも表しているといえます。

光の量が小さいと上段階に行くことは出来ないということです。

これらの後光は、これまでの人生において、自分自身がつくり出した心の調和度によるものであり、決して他人のせいではないということです。

 人間は、宇宙絶対唯一の存在意識からの分霊という意味で、すべて平等であります。

心の広さの段階は、自分自身の責任であるし、この世に生まれてからの生き方、心の在り方によって器の大きさに差異が生じてくるのです。

怒り、そしり、嫉み、愚痴など不平不満を抱いていると、必ず肉体的にも不調和な現象を現すが、間違った信仰をしているものたちにもその心と同じ性格の地獄霊が、その人の光子体(霊体)に憑依しています。

程度の差はあるが、地獄霊が憑依すると、地獄霊の死因となったその病状が被憑依者にも現れます。

医学的病気として完全に表れてしまう人もいれば、病気とまではいかなくても、痛み、疼痛、だるさ、重さ、倦怠感、頭重感、めまい、ふらつき、動悸、目のかすみ、等々の愁訴感を訴える人たちは多く、その人の弱いところに現れやすいのが特徴である。

たとえば、結核で苦しんで死んだ地獄霊が憑依すると、被憑依者は結核のような症状を呈してきます。

精神バランスがよくないままに生涯を終えた人が成仏できずに縁者に憑依した場合などはやはり、同じような状態になる場合がある。

これは十人が十人、そうなるとは限りませんが、おおむね、そういう傾向を帯びてきます。

悪い状況のときは、憑依霊が結核で死んだとしても、憑依された人が肉体的にいちばん弱いところが病気という形で現われる場合もあります。

この点を逆にいうと、彼らは、その人の肉体的に最も不調和なところに憑依するといえましょう。しかし、あくまでも憑依は地上に生きる人間の心に不調和という隙があるから同調して憑依されるのである。

憑依する地獄霊のほとんどは、厳しい地獄界の生活に耐えられず、地上界に執着を持っている者たちです。

彼らの大半は、死んだときの年月ぐらいしか記憶がない者や、自分の生前の名前も忘れ、いわゆる、心喪失の旅路を続けている者たちなのです。

一方、憑依するものは地獄霊(人間)とはかぎらず、地獄の蛇や狐たちもおります。

ことに動物の地獄霊が如来や菩薩、龍などの姿に変化してその姿を見せ人々を驚かせ信じさせている場合が殆どで、他力信仰をしている人びとは、その姿をよく見ることがあります。

上段階の大指導霊や、光の天使たちの出て来る場合は、肉体を持つ地上界の人びとの心が調和されていない限り、その姿を見せることはないし、だいいち盲目な、人間をおどろかすようなことは決してしないのです。

神がかりになって、体を上下に動かしたり、合掌している手先が蛇行するような場合は、すべて、動物霊がその人を支配しているとみて間違いない。

このような人びとは、まことに危険極まりなく、健康にも、日常生活の上においても、いろいろな支障が起きてきます。

またこうした動物霊たちは、肉体先祖が浮かばれていないからお祭りをして供養しろとか、多額の金品を要求したりします。

動物霊が憑依している者は、本能的欲求が強く、したがって、憑依されている霊能者や行者、拝み屋、占い師、個人は、金とか物、カリスマ性に翻弄された生き方をしています。

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霊的未来へのステージアップ

人生の悩み諸問題、家庭問題から病気、老い、死への恐怖心、うつ病、パニック障害、摂食障害と様々な問題を抱えて相談にみえるのだが、徐々に解決へと進歩する人と、一時良い兆候がみえたかと思うのだが逆戻りする人の二通りの傾向がある。

この違いの大きな理由はとなると、自分を受け入れるか、受け入れず否定するかの問題だけです。謙虚になれる人は何事も改善がはやい。

これまで生きてきたなかで、良いことは素直に認め主張するのだが、どう見ても改めなければならないような思考、習慣、癖、言動などについては他人のせいにしてみたり、言い訳をして自分を正当化する傾向にある人の場合、なかなか進歩しにくいものだが、これも本人自身の自由であり強制はするものではない。

無限なる叡智と愛がすべてである宇宙唯一の大意識は地球人類を創造するとともに、私たちはある範囲内での自由意志を授けられた。

同時に、人間がいかに生きるべきかについての誤りない指標としての神性と、その神性が開発されるように、人類全体の想念身体とに機能を備えていただいたのだ。

唯一の意識は、人間をただの操り人形、選択する自由も力も持たない、単なる動物にすることも可能だっただろうが、自由を与えてくださいました。

しかし自由意志があるということは、同時に自分の行為への責任もあるということになります。

私たちは“善いこと”をしてもいいし“悪いこと”もできるのです。しかし、その代償となるカルマは汚れた想念として魂に刻まれることになる。

善と悪とは一つのコインの表と裏のようなものです。

愛と憎しみ、光と闇、陰と陽、プラスとマイナス、男と女、暑さと寒さ、昼と夜、嵐と静けさもそうです。これを両極性といいます。

そのどちらを選ぶかは私たちの選択権があるということです。

ここで戦争について考察してみます。あなたはこう自問するのです。〝なぜ戦争をしなくてはならないのか〟〝両者が共通して求めているものはいったい何なのか〟〝それは互いに相手を支配することなのか〟この問いにあなたも考えて答えを出してみてください。

この地上をユートピアとするも地獄とするも私たち人間次第です。また、同じことが家庭においてもいえるでしょう。

それは、私たちが、どちらかを選ぶ自由と、どちらにもできる手段を具えているからだ。

〝個人〟が集まって地上人類全体ができ上がっていることを考えれば、一人でも多くの〝個人〟が貪欲強欲残虐横暴を止めれば、その数だけ平和に貢献することになります。

あなたはあなたの生活、あなたの行為、あなたの言葉、あなたの思念に責任を負うのです。

私たちは限りなく霊的向上を望むなら、内容にもよるであろうが、本来は、他人があなたにしたことで償いをさせたり報酬を受けたりすることはすべきではない。

平和を求めて祈り、わが身と心を霊界の高級霊の道具として提供し、協力しようとなさる努力は必ず報われます。

あの世のエネルギーは、人間の協力を得てはじめて霊力を地上へ受け取り反映することができ、戦争や暴力行為、その他、地上の文明を混乱させ存在を脅かすものすべてに終止符を打たせることができるのである。

しかし、これより先もまだまだ地上から戦火の消えることはないだろう。

なぜなら、人類全体が一つの巨大な霊的家族であるという、この単純な真理、法則が未だに理解されていないからです。

肉体は撃ち殺せてもは死なないのである。

この事実が世界各国の国政をあずかる人たちによって理解され、地方行政にまで及び、その関連分野を通じて実行に移されるようにならない限り、戦争の勃発は避けられないでしょう。

人間が人間に対して行う非人間的行為に対して、あの世の霊人たちには何の責任もありません。

何故なら、これは地上における因果律の働きが片付ける問題だからです。

もちろん人類にとって“よりよき時代”は到来するだろう。

しかし、失望のドン底から一気に幸福の絶頂へと一夜のうちに転換するようなわけにはまいきません。

一歩一歩を魂の向上のために段階的過程を経るほかはありません。

霊的真理を“理解”する人が増えるにつれて、その知識にのっとった“生き方”をする人が増え、その人たちの生活が依存している各種の制度も、これらは霊と想念と身体がその幸福と成長と成熟にとって必要な体験が得られるように改善されていくことでしょう。

私たちがスピリチュアリズム(心霊主義、精神主義)と呼んでいる霊的思想が約180年ほど前に勃興したのも天上界の働きかけによるものであり、そこに目的があります。

それはかつてのように突発的ですぐに立ち消えになるようなものではなく、天上界の総合的な計画のもとに行われて、すでに霊的エネルギーは完全に地上に根づいている。

これからもその高次で霊的バイブレーションは拡張しつづけ、ますます多くの人間がその愛と慈しみの恩恵に浴することになるだろう。

ある人は“黄金時代”と呼び、ある人は“地上天国”と呼んでいるものは、いつかは成就されるときがくる。

しかし、個々の気づきと努力と時間が必要だ。

物的進化が絶え間なくその目的を果たしつつあるように、それと併行して霊的進化もそれなりの役割も果たしつつあることは実感するところである。

私たち人類の未来と霊的ステージは個人個人の小さな気づきと弛みない努力によってのみ向上できるのです。

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闇の灯台となる魂

1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、日本の広島市に原子爆弾が投下された。

広島市の人口35万人(推定)のうち9万~16万6千人が被爆から2~4カ月以内に死亡したとされる。

1945年(昭和20年)8月9日午前11時02分に、日本の長崎市に投下した原子爆弾これは実戦で使われた二発目の核兵器である。

この一発の兵器により当時の長崎市の人口24万人のうち約14万9千人が死没、建物は約36%が全焼または全半壊した。

広島の原爆投下で16万6千人、長崎の原爆投下で14万9千人、わずか四日で31万人以上の人間が核兵器の犠牲になったのである。

戦争は民族の宗教や思想、イデオロギー、国家の利益が発端で争い起こる。

大きな戦争も小さな争いも暴力には変わりがないし、聖戦などあってはならない。

電車のなかで嫌がる若い女性客にからむ少年に注意したら逆切れされて暴行を受けた事件があった。

そういう時はやり返すべきだろうか。やり返したとしたらどうなるのだろうか。

悪を多めに見たり暴力を援助することになってもよいということは絶対にない。

しかし、『剣を取る者は剣にて滅ぶ』と申します。

私たちの身体は、魂がこの地上で自己を表現する唯一の手段であり道具ですから、それを守るのは私たちの義務です。

が、地上生活に関わることはすべて自分の理性によって判断しなくてはならない。

ですから、ご自分で正当だと思う手段によって身を守ってよいことは言うまでもありませんが、同時にそうした愚かな若者、自分のしていることの善悪もわきまえないほど道を間違えている若者のことを可哀そうに思う心も忘れてはならないだろう。

それは一種の群集心理、劣等感から生まれるヒステリー症状です。

残念ながら中年のおじさん、おばさんにも感情むき出しの争いを公衆の面前で行う人もいる。

つまり自己中心的ではあるが、自分たちの存在を認めさせる唯一の手段としてそういう態度に出て関心を引こうとする、幼稚な自己主張の情です。

正しい霊的エネルギーというものは暴力という形では決して表現されません。

正しい霊的なエネルギーは常に冷静・平穏・安らぎ・落着いた自信の中で表現されるものです。

そうした心理状態が調和をかもし出し、物質の世界と霊の世界、つまり4次元との間の障壁を取り除くのです。

それとは別に暴力は調和を乱します。

激情を噴出させます。

挙げ句にその反動が自分に戻ってきます。

本人にとって何一つ良いことはありません。

これも物に偏った利己性による価値観から起こる物質編重思想の副産物である。

暴力的になっているのは若者だけではありません。

若者はその元気さゆえに衆目(しゅうもく)にさらされやすくて非難の的とされているだけです。

暴力的傾向は私利私欲の追求に目がくらんで人間としての道を見失っている悩める地上社会の一症状といえる。

無明の中で、他人の幸福にまったく無とん着に、ますます暴力的になっていく、しかもそれは人間同士だけでなくて、可愛そうにも、何の罪もない動物にも向けられているのである。

昨日のニュースからの引用。ミニチュアダックスフントなど犬161頭の世話をしなかったなどとして、大阪府警生活環境課などは5日、元ブリーダーで無職、○○典子容疑者(43)=同府和泉市東阪本町=を動物愛護法違反(虐待)と狂犬病予防法違反(予防注射未接種など)の疑いで逮捕した。延べ100平方メートル2階建て民家で飼っていた犬の大半が衰弱していた。

逮捕容疑は先月7~21日、ミニチュアダックスフントやチワワなどに餌や水を与えず、うち1頭に狂犬病の予防注射をさせなかったなどとしている。○○容疑者は、「餌を与えなかったことはない」と容疑の一部を否認している。

府警などによると、○○容疑者は07年5月、ブリーダー業を始めた。当初は約20頭を飼育していた。鳴き声や異臭の苦情を受けた府が何度も改善指導し、今年2月に業務停止命令。3月に廃業した。府警が先月に家宅捜索した際、17頭が死んでいた。

犬は現在、府犬管理指導所などで保護されているが、○○容疑者は犬の所有権を放棄していない。府は新たな飼い主を探すため、放棄するよう求めている。

このニュースも自分の利益だけに執着した人間が生命の重さを軽んじた愚行としかいえない。やがて自らを裁くときがくるであろう。

さて、話しを戻そう。私たちは、全体としての調和ということを考える必要があります。

他の存在へ慈善の心を発揮するには貧乏人の存在が必要だという意見がありますが、そういうものではない。

どのような人に対しても仁愛の心があってはじめて慈善が施せるのであって、哀れな人の姿を見ないと慈善の心が生まれないというものではないのだ。

若者がその持てる強烈なエネルギーを社会のために活用する分野はたくさんあるのだが、不幸なことに、正しい指導を受けていない若者が多すぎるのです。

若者が正しい指導を受けた場合、そして又、霊的な動機づけから行動した場合は、大人が心を洗われる思いをさせられるようなことをやってのけます。

若者が若者としてのベストを見せた時は、敬服に値するものを発揮しますが、道を誤ると手の施しようのないほど惨めなことになる場合が多々あるものだ。

それだけに若者たちを正しく、偏りのない価値判断のなかで育てることが重要でしょう。

私たちは暴力やテロ行為が生み出す陰惨さに巻き込まれないようにしないといけません。

超然とした態度、俗世にあって俗世に染まらない生き方を心掛け、自分の霊的本性、天から授かった潜在的可能性を自覚して、私たちは小さいながらもこの世の灯台となり、自らが光を照らさなければならない。

見よ

飾られし

この世間を見よ

おろかびとは

この世間に溺れるど

心あるものには

いかなる迷いもあることなし

※気づけよ。嘘、偽善、利己主義、自己保存、不満、愚痴、怒り、傲慢、驕り、暴力、虐待、いじめ、争い、これらは全て、足ることを忘れた欲望から発生している。

飾られたこの世の中とは、物や自己の利益に偏った生き方をいうのです。

愚かな人間とは、心のバランスを崩し自分の神性、仏性を見失って溺れた生き方をしている人のことだ。

いつも偏りがなく、執着せず、自分を知る者こそ心ある者といえよう。

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離婚の危機・乗り越えるために

『あなたは、この○○子を妻とし、健やかなる時も、病める時も愛し続ける事を誓いますか?あなたは、この○○雄を夫とし、健やかなる時も、病める時も愛し続ける事を誓いますか?』

教会やそれを模したホテルなどで結婚式をされた方なら牧師によるこの問いかけに「はい」と答えたはずです。

同じ未来を見ていたはずなのに、いつの間にか溝ができてしまっていた……そんな危機を回避するためにもターニングポイントを知っておくことは大事です!

★子どもが生まれた時!

子どもの誕生をよろこぶ一方、日ごろの生活の中で夫と妻の感じ方にギャップが生じる時期でもあります。

たとえば、妻は出産を終えたばかりで慣れない育児に四苦八苦。疲労も重なり、不平不満も増えがちになります。

ところが夫のほうは、子どもと接する時間が短いこともあり、妻の苦労をなかなか理解することができません。

この時期は、それぞれが相手の立場に立って、お互いの役割を思いやる工夫が必要である。

思い遣りや、気づきの足りなさが距離感をつくってしまうケースは多いのです。

自分が要求することだけを考えるのではなく、パートナーが何を望んでいるかを知ろうとするなら思いに隔たりがなくなるだろう。

★妻が働き始めた時!

今まで専業主婦だった妻が働き始めるようになると、「私だって働いているのに」という気持ちが起こりがちです。

たとえ夫婦間の収入に格差があっても、家事の分担を強要したり「私も疲れているんだから!」とイライラしたりすることもあるでしょう。

夫はそんな妻の変化にストレスを感じ、売り言葉に買い言葉のケンカがはじまるのはよくあること。

いくら収入が増えるからといって、夫婦の平和が保たれなくなるようでは本末転倒です。

安易に働きに出る前に、家庭のことや夫婦のことをしっかり考えてみなければならない。また働きに出るにしても事前によく相談して双方が理解をしておくことが大事でしょう。

何も気にせず素直に笑いあえた新婚時代に比べ、何故か今は何を言っても棘々(とげとげ)しくなったり、反対に口も利かなくなったり・・・・「できればあんな時期もあったなあと笑い合える日がもう一度来ればなぁ、でももう無理なのかなぁ」と考えたことはないだろうか。

もしそうなら、夫婦として「病める時」なのかもしれません。このままにしておいてはいけない。

病める時も愛し続ける事は大変な事です。

しかし、本人同士でわからない点や御互いが努力をしようとする気持ちが見えれば、少しは許せるはずです。

夫婦は妥協、惰性という人がいますが、長い目で見てみる受容と寛容だと思えないだろうか。

これまでの「愛情」が一瞬にして「憎しみ」に変ったりするというが、それは何も大人だけではない。

老若男女、子供の世界でも友情から憎しみや怒りに変貌することがある。何故だろうか。

いろいろな意味で「愛」と「憎しみ」は隣り合わせといえる。

また憎しみから愛に変わることもある。

これは、まれなケースで憎しみによってお互いが傷つき苦しい思いをすることの愚かさに気づき和解し合えた場合のみです。

したがって愛と憎しみは裏表の関係であって別物ではない。

愛も憎しみも一つの心から生まれる働きだからだ。

お互いの長所諸短所を知り、許しあう。「愛」は相手があって育むものという意味では時間がかかりますが、「憎しみ」は一瞬の自我感情で起こりうるのだ。

愛が相手に受け入れられない時、その愛が憎しみに変わるといいますが、しかし、これは身勝手な考えです。押し付けの想いは愛ではない。

自己都合による愛の押し付けは、喉が渇いていないのに水を飲めと強要するようなものだ。

愛は相手に心からの安らぎを与えるものでなければならない。

妻を思い愛しているのに、専業主婦の妻は『あなたと一緒にいると疲れてしまう。』とひとこと言い放ったきりセックレスになった結婚12年目の夫婦の危機。

夫は妻を愛しているとは言うが、夫の都合での思い込みや理路整然とした語り口調、自己満足でデリカシーのない強すぎる夜の生活、妻は耐えていたのだった。

愛するということの夫の勘違い、心得違いが家庭内別居に発展していた。

争いや憎しみは個々の持つ愛の食い違いから発生するもので、厳密にいえば愛に行き違いがあってはならない。

本当の愛にはこのような行き違いを超えたところに信愛として在るものです。

相手を許せなければ別離も避けられないだろう。

順調だったはずの夫婦生活が一転して、離婚を考える間柄に発展してしまうのには、ターニングポイントともいえる“きっかけ”が存在しています。

★夫の職場が変わった時!

夫の多くは、妻に仕事の細かい話をしないものです。妻は、夫の収入や処遇については気になるものの、毎日の仕事についてはそれほど興味が持てないということもあります。

すると、いざ夫が転勤や転職、人事異動になったとき、夫には自分なりの仕事についての考えがあるものの、安定を求める妻はそれがなかなか理解ができず、夫婦間に溝をつくってしまう場合があります。

このような場合、夫は、仕事に対する考え方や事情などを妻に説明し、妻はそれを理解しようと努力することが望ましい。

★妻がセックスを拒んだとき!

夫がセックスを求めたときに妻が拒んでしまうと、その場が気まずいムードになるだけではなく、意外と大きなダメージを残すことになりかねません。

夫のプライドは傷つき、最悪の場合、その欲求を外で果たそうとすることもあります。

女性の身体はガマンができても、男性の身体はそうできない仕組みになっている点を、妻はわかっておかなければなりませんが、何故、妻が拒んだかを夫自身が考えることも必要であろう。

これまでセックスで一方的な都合で要求してきたという場合も意外と多いからだ。

夫婦のカルマ(結婚・離婚・セックス)を参照ください。

★夫が勉強を始めたとき!

資格取得や昇進のための試験など、何かの勉強に真剣に取り組んでいるときは、誰でもプレッシャーやストレスにより気分がイラだちます。

そんなとき、勉強をしている夫に対し、「そんなことくらいで……」という勉強を軽視した態度を妻がとれば、夫の神経を逆なでするのも当然。

お互いにトゲトゲした気持ちのまま、ふたりの溝は深まっていってしまうでしょう。夫の勉強を他人事と思わず、一緒に乗り越えていくことを目標に、支えていく態度を見せることも愛のうち。

★子どもの教育について意見が食い違ったとき!

子どものいる夫婦の場合、子どもの教育に対して夫婦が同じ温度で接していれば問題は少ないのですが、どちらか一方が教育熱心の余り、監督ママやパパだったりする場合、とくに妻だけが熱くなっているときは、夫が妻に対して不満を募らせるケースが多い。

子どもの幸せを願う気持ちに変わりはないのなら、話し合いを重ねて歩みよることで解決できる問題です。決定的な亀裂になる前に、子育てとは何なのかを話し合うことが必要だろう。

夫婦の仲がギクシャクしはじめたり、致命的なヒビが入ったりしないためにも夫婦愛や子育てについて日ごろからよく考えてみることも大事です。

愛には喜びと安らぎがあります。

『愛してる』とはいっても、相手がそれを感じることができなければ、受け入れることができなければ、その愛は何かが違っているのです。

簡単なことです。

相手が望むことを与えればよいのです。

そして自分が望むことをパートナーにしてやればよいのです。

最後はパートナーの喜びを自分の喜びとすることができたら満点。

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内なる静穏・霊的ガイド

世界における科学技術の発展は目を見張るものがあるが、それがうっかりすると今よりさらに恐ろしい戦争と破壊の凶器をこしらえることになりかねない気がする。

世界では人間同士による非人間的、非人道的行為が相変らずあとを絶たない。

果たしてこういった行為には完全に終止符が打たれる日が来るのだろうか。

人類は皆兄弟という言葉があるように、お互いが霊的に兄弟であり姉妹であるという認識のもとに暮らせる真に平和な時代が本当に来るのだろうか。

殺し合いは避けがたい人間の宿命なのだろうか。

戦争は正当化されうるものだろうか。

実在界(4次元)はこうした地上世界をどう見ているのだろうか。

私は宇宙の中心、絶対唯一の意識である愛は必ずや全ての人類に行きわたると信じる。

そのために人類のスピリチュアル革新および動物問題の改善に関わる人たち、人々の苦しみに手を指し述べる人、残虐行為を止めさせる人たち、人の力になってあげる仕事に献身する人は、絶対に弱気になってはいけない。

この世のユートピアはいつの日かきっと成されるだろうが、それはゆっくりとしたプロセスを経ながら、そして時には苦痛を伴いながら成されていくだろう。

暴力・混乱・衝突・戦争・残虐行為が増えつつあるのは、この3次元地上世界が霊的転換期にあり、悪が善に、陰が陽に、闇が光りに昇華されていくための過渡期にある証しといえよう。

私達の周りでは、すでに多くの正しい伝統的思想が葬り去られました。

家庭生活も然りです。

若者は自由を求め、奇声をあげ、物を破壊し騒ぎ立てております。

本来の自由は人に迷惑をかけて勝手なことをしてよいということではない。

若者も大人も、心乱した渦中の人間にはそうした背後の唯一の存在の意図を読み取ることは難しいことです。

しかし、100年前、500年前からすれば時の流れと共に人類は進化しているのである。

その意味で、総体的にみて人類はかつてより親切心寛容心が増え、その一方において偏見残虐行為抑圧政策が絶えないでおります。

だが、これは地上における物的、肉体的カルマの進化においては発生する現象なのだ。

つまり対立する事象が激突して、これからより良いものが生まれ、全体として進化していくということです。

自分の身の回りに試練があっても諦めてはいけない。

大切なのは偏りのない調和された正しい真理と霊力とが世界の多くの土地と人々の心にしっかりとした足場をつくり、退却させられることがないようにすることだ。

それが至るところに恵み多い影響力を及ぼし、全体として愛の種として播かれることになるからである。

そして、その影響力が浸透するにつれて暗闇無知愚行野蛮な行動を追い払い、地上世界を汚している邪悪を消滅させていくことでしょう。

明るい希望と自信の根拠はあなたの中に、いつでも満ちているはずです。

なぜなら貴方の魂は宇宙の唯一の意識とつながって休む時がないからである。

故に、家族に対しても、他の人々に対しても一時的な愛の行為であってはならない。

愛は生涯にわたって高めていくことで不動のものとなるからだ。

また人間社会のあらゆる分野で古い因習、概念が覆され廃棄されていきつつある。

その多くはあまりに永いあいだ人間を迷わせてきた間違った概念です。

これから徐々に愛と善のエネルギーが、欲得づくの想念エネルギーと取って代り、地上生活のあり方が改善されていくことでしょう。

よくよく心に落として頂きたい、誰もが経験することではあるが、私達の心配の念は霊界から援助する者にとって非常に厄介な障害となることを御存じの方は少ないのです。

それは、守護霊や指導霊からの支援の障害となる要素としては、否定的性質があるということだ。

恐れ・心配・不安、こうしたものはその人を包む物質的・肉体的・精神的・霊的雰囲気を乱し、守護霊、指導霊が近づくのを一段と困難にするのである。

心ある人たちよ。この点をしっかりと自覚していただきたい。

真理を知った者は、それがわずかであっても、例え多くを知ったとて、無限の真理からすれば多寡(たか)が知れているのである。

正しい法則を生きる者は、いついかなる事態に直面しても、穏やかで平静で受容的態度を維持すべきですし、又そう努力をすべきです。

全生命に命を与えている唯一の意識より強力なものはないとの断固たる信念に満ちていなければなりません。

あなたの魂はその意識と同根なのである。

何度も言ってよいメッセージがあるとするならば、それは“心配の念を捨てなさいということです。

そうすれば内部に静穏が得られます。

内部が静穏になれば外部も静穏になりますということです。

心配の念は、過ぎ去ったことに拘る時、先行きのことに拘る時におこる想いです。

執着、苦悩、不調和、不満、愚痴、怒り、不安、心配、拘り、囚われ、これらをキーワードとして、ブログ右上の検索から参考にみてください。

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親の夢・生きざまの背中

子ども、それは私が通ってきた道。

子どもは未熟でいいかげんなものだが無限の可能性を秘めている。

何度も失敗を繰り返し、戸惑い、経験を繰り返し、少しずつ大人になってゆく。

それでは親ってどのような存在だろうか。

実は、いちばん迷っているのは親である。

子どもが抱えているさまざまな問題、例えば、引きこもりや少年犯罪などの殆どは親の問題でもある。
私の少年時代はとても貧しい生活だが、母は強く毅然としていた。

いま、本当の意味で強い母はどれくらいいるだろうか。

我が子のことになると人にはすぐに向きになるお母さん。

代わりに子どもを平均的価値観やマニュアルにはめ込むことに熱心な“監督お母さん”が目に付く。

競争はダメだと言いながら、まわりと比べ、子どもの先回りしてレールを敷く。

こうして社会が子ども中心に回り出してから日本はおかしくなった。

社会は大人が柱になっていればこそ子どもたちに手本を見せられるものだ。

子供中心の家庭生活に偏るのではなく、大人が中心になった家庭生活が正しい子供の教育となることを忘れてはならない。

今の日本の家庭環境も社会構造も子ども偏重主義に陥っている。

だから私は言いたい。子どもを監督するその情熱を、親は自分の夢に注ぎ、喜々とする輝く目を、そして背中を子どもたちに見せよと。

親が夢を持ってこそ子どもが夢を持てるようになるだろうと。

子どもたちよ、大人のいう事ばかり鵜呑みにして聞いていてはならない。

大人が言うことに疑問をもち、迷う時間を十分に持て。

迷う時間は無駄ではない。それが青春時代だ。

就職率がどうのこうのは一流企業だけの話しである。中小企業は人材が欲しくても希望する若者がいない。

なぜ皆が一様に一流企業とばかり考えるのだ。

将来の目標が定まらなくても焦ることはない。

私は中学の時に、荒れた家庭環境にやり切れなく、何もできない自分を責めて一度だけ死を決意し橋の欄干を超えたことがあった。

手を離せば川に落ちる。自殺をもくろんだが死ねなかった。お袋の顔が浮かんだからだ。

しかし、世の中なんとかなるものだ。失敗だらけの人生だったが、やり直せば生きられる。

プー太郎生活もあえて批判しない。しかし、長引けばリスクがあることを忘れてはいけない。

自分で選んだのだから被害者発言はしてはならない。

自分を弁護しても前には進めないからだ。

自己責任こそ社会のルールであろう。

私のような学歴とは程遠い人間が、社会の一員としてスタッフと共に働き、人の健康に携わっている。

私には高学歴も金も何もなかったから、必死で生きただけである。

汗を流した分だけ喜びがあることを知った。

日本は今、大きな転換期を迎えています。

外交や経済や国内事情を見るにつけ、目先の利益、自己保存が国民にも政治にも見える。

日本がここまでの経済大国になった大きな要因である真面目さと高い技術力を持った低賃金の労働力は世界に出てしまって逆輸入するに至った。

いわば国内の働き場が失われたのである。

個人も同じです。経済の成長期には右肩上がりで、みんな一緒に豊かになっていた時代には、人と同じことをしていさえすれば、自分も同じように成功できました。

残念ながらそうした時代はすでに終わったのです。

しかし、日本はまだまだ残された能力ををたくさん持っているのに、自分が失いつつあるもの、すでに失ったものをただ嘆いているだけのような気がします。

失ったものを数えていては前に進むことができなくなる。

それは人生もそうだが心も同じだ。

特に心が病んでいるときの人間は過去にこだわっている。

残された機能を120%活性化させる。

潜在している機能を再発見することで新たな機能を発見する。

頭がなければ汗を流せ。

足がなければ手を使い切ればよい。

手が利かなければ考えればいい。

金がなかったら自販機でジュースを買うな。

余分な糖分や添加物を摂取しないだけ健康にも良い。

喉が渇いたら水を飲め。

コップ三分の一の水を見て嘆くのではなく、「ラッキー!まだ三分の一も残っている」と、目を輝かせればいい。

体で稼ぐと頭が働くし、知恵が出る。

知恵は苦しみがあることで生まれてくるものだ。

喜びを深く味わってみたいと思うなら先ず、選ぶより汗を流すことをしてみよ。そのときに何をしたいかが見えてくる。

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愛の連鎖・霊性の進化

あなたを愛してくれる人が現れるのを待っていたらそれは叶わないかもしれない。

でも愛する人を探すのは簡単なことです。

周りの人に少しだけ思いやりを持てばいいのですから。

たった一人でいいのです。

いろんなことが陰気で暗く侘(わび)しく感じられているこの地上において、誰かを元気づけてあげることができれば、それだけであなたの人生は価値があったことになります。

勇気づけられた人がまた誰かというように、そして一人を二人に、二人を三人としていくことができるのです。

愛に満ちた霊性(心)の宝は楽々と手に入るものではありません。

もしそうであったら価値は非常に薄っぺらものになります。

価値あるものほど手に入りにくいのである。何の努力もせずに勝利を得たとしたら、その勝利は本当の勝利と言えるでしょうか。

何の苦労もせずに頂上にたどり着いたとしたら、それが大きな感動となるだろうか。

霊性の進化というものは先へ進めば進むほど孤独を克服するための戦いとなっていくものです。

なぜなら、それは前人未踏(みとう)の地を行きながら後の人のために道標(みちしるべ)を残していくことだからです。

そこに霊性進化の真髄があります。何事もある程度まで道を究めようとするときに、孤独は避けられない影のようなものです。

病気を克服するときも人や医師の世話にはなるが、究極は自分自身の気づきのなかに回復のヒントがある。

即ち『色心不二』体と心は一つであるからだ。

私たちが何かを成就しようとして努力する時、少なくても自分と同等の、あるいは多くの場合それ以上の霊格者の援助の努力が霊界において為(な)されているものです。

自己都合の欲望による願いは論外ですが、愛に満ちた行動をするときに援助を求める真摯(しんし)な熱意がなおざりにされることは決してありません。

忠信からの実践は、実在界(4次元)との霊的つながりが出来ると同時に、援助を受け入れる扉を開いたことになります。

しかし、その時に発生する背後での霊的事情の実際は言語では説明できるものではない。

元来地上の出来ごとを表現するように出来ている言葉では、次元の違う4次元以上の世界を表現しようとすることに無理があるのです。

言葉をどう駆使してみたところで、高度な霊的実在を表現するにはお粗末なシンボル程度のことしか果たせないでしょう。

いずれにせよ、その霊的実在を信じた時、あなたの心に霊的な備えが出来たことになります。これが重要な気づきです。

大勢の人が真の実在であり、全ての根源であるところの4次元世界の存在と自己の霊性に全く気づかぬまま生きております。

誰もが今現在こうして生きているのは霊的存在だからこそであること、それが肉体を道具として生きているのだということが理解できないのです。

このことは、これまで相談者と対峙してきたなかでいつも思うことであり、問いかけてきたことです。

人間には霊がある、あるいは魂がある、心があると信じている人でも、実在は肉体であって魂はその付属物であるかのように理解している人がいます。

本当は魂が主体であり肉体が徒属物なのです。つまり真のあなたは魂なのです。

生命そのものであり、神性を有し、永遠なる存在だということです。

肉体は魂がその機能を行使できるように出来あがっております。その形体としての存在はほんの一時的なもので、せいぜい80年前後でしょう。用事が済めば崩壊してしまいます。

が、その誕生の時に宿った魂、これが大事なのです。この辺の理解ができた時こそあなたの内部の神性が目を覚ましたことになります。

肉体的束縛を突き破ったのです。魂の芽が出はじめたのです。

あとはあなたの手入れ次第で美しさと豊かさを増していくことになります。

そうなった時こそ地上生活本来の目的である魂と肉との調和的生活が始まるのです。

霊性を一切行使することなく生活している人間はあたかも目、耳、あるいは口の不自由な人のように、霊的に障害のある人と言えます。

肉体に障害が出ても心(魂)まで障害にしてはなりません。

霊性に気づいた人は真に目覚めた人です。神性が目を覚ましたのです。

それは、その人が人生から皮相的なものではなく魂という実在と結びついた豊かさを摂取できる発達段階に到達したことの指標でもあります。

魂の宝は地上のいかなる宝よりも遥かに偉大であり、遥かに美しく、遥かに光沢があります。心に執着がなく調和されている人のオーラは穏やかな神々しさで優しい波動を伝えてくる。

物的(肉体)なものが全て色あせ、錆(さび)つき、朽ち果てたあとも、いつまでも存在し続けます。

魂が目を覚ますと、その奥に秘められたその驚異的な威力を確認するようになります。

それはこの宇宙で最も強力なエネルギーの一つなのです。

その時から霊界の援助と指導とインスピレーションと知恵を授かる通路が開けます。

これは単に地上で血縁関係にあった霊体の接近を可能にさせるだけでなく、血縁関係はまるで無くても、それ以上に重要な霊的関係によって結ばれた霊体との関係を緊密にします。

その存在を認識しただけ一層深くあなたの生活に関わり合い、援助の手を差し伸べます。

この霊的自覚が確立された時、あなたはこの世的手段をもってしては与えることも奪うことも出来ないもの磐石不動(ばんじゃくふどう)の自信と冷静さとを所有することになるでしょう。

そうなった時のあなたは、この世に何一つ真にあなたを悩ませるものはないのだ、自分は宇宙の全生命を創造した力と一体なのだ、という絶対的確信を抱くようになります。

人間の大半が何の益にもならぬものを求め、必要以上の財産を得ようと躍起(やっき)になり、永遠不滅の実在、人類最大の財産を犠牲にしております。

どうか、何処(どこ)でもよろしい、種を蒔ける場所に一粒でも愛の種を蒔いて下さい。冷やかな拒絶に会っても相手になさらぬことです。

議論をしては決していけません。

知ったかぶりの態度に出てもいけません。

無理して植えても不毛の土地(受け入れない人)には決して根づきません。

根づくところには時が来れば必ず根づきます。

あなたに心ない言葉を浴びせた人たちも、やがてその必要性を痛感すれば向こうからあなたを訪ねて来るでしょう。

私たちを互いに結びつける絆は絶対唯一の心の絆(きづな)です。

天なる宇宙は愛をもって全てを抱擁(ほうよう)しています。

私たちはこの宇宙の愛を原点として生活に活かさなければならないだろう。

これまで啓示された宇宙の摂理に忠実に従って生きておれば、その天との愛の絆を断ち切るような出来ごとは宇宙のいずこにも決して起きないのです。

宇宙の大霊である意識は決して人類を見捨てません。

従って私たちも宇宙とその意識を見捨てるようなことがあってはならないでしょう。

宇宙間の全ての生命現象は定められたコースを忠実に辿(たど)っております。

地球は地軸(ちじく)を中心に自転し、潮は定められた間隔で満ち引きし、恒星(こうせい)も惑星も定められた軌道の上を運行し、春夏秋冬も巡りを繰り返しています。

種子は芽を出し、花を咲かせ、枯死(こし)し、そして再び新しい芽を出すことを繰り返しています。

色とりどりの小鳥が楽しくさえずり、木々は風にたおやかに靡(なび)き、かくして全生命が法則に従って生命活動を営んでおります。

私たちはどうあがいたところで、その宇宙の懐(ふところ)の外にでることはできないのです。

私たちもその一部を構成しているからです。全ての生命は宇宙の懐の中で循環という法則によって生かされているのである。これを輪廻転生ともいう。

どこに居ようと私たちは天なる宇宙の無限の愛に包まれ、その御手に抱かれ、常に宇宙の力の中に置かれていることを忘れぬようにしたいものです。

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